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14.忘れていた面倒ごと

「……ネイサン、様……」


 夫の名を口にするのは、久しぶりだ。


「あら、奥さんがこんなところで見つかるなんて、ついていましたわね」


 ネイサンの腕にしなだれかかった美女が、あでやかに笑う。いつか、あのバルコニーで見かけた人だ。大人びたと言えば聞こえがいいけれど、どちらかというと甘さの中に毒を隠し持っているような、そんな雰囲気の女性だ。


「そうだな。彼女が失踪してしまったせいで、中々君と再婚できなかったからな、ユナ」


 ふたりを呆然と見つめていると、これまでのことが嫌でも思い出されてしまった。


 この国では、貴族が離縁するには中々面倒な手続きを要求される。


 たくさんの書類を用意して、それぞれの親族に謝罪の挨拶をして、それからふたりで王宮へ向かって、しかるべき文官の署名をもらって、それでようやく離婚が成立する。


 それらの手続きには、貴族たちが気軽に離縁を選ばないようにという意味があるらしい。


 実際、白い結婚のただ中にいたわたしにとって、離縁の手続きをするというのは、さらなる屈辱でしかなかった。だから苦しくても、離縁してくれと言い出しはしなかった。


 代わりにわたしは、彼のもとから逃げた。


 夫婦が一年以上別居すれば、そういった手続きを一切踏むことなく、夫婦の縁を切ることができるという特別な決まりがあったから。


 そうやって、時間が解決してくれるのを待っていたのだ。


 でもまさか、こんなに早く、こんなところで再会してしまうなんて。


「……見なかったことに、していただけませんか。あなたと一年間顔を合わせなければ、穏便に縁を切ることができますから」


 小声でつぶやくと、ネイサンは困ったような笑みを浮かべた。


「奇遇だな。僕としても、いい加減君と別れたくはあった。親の決めた結婚でしかなかったからか、どうしても君に興味が持てなかった」


 彼の言葉に、自然と手に力が入る。ぐっと握った私のこぶしを、フォンテが心配そうな目で見ていた。


「ただ例の手続きが面倒で、どうしたものかと悩んでいたんだ」


 彼は気取ったしぐさで前髪をかきあげながら、あごを上げてこちらを見下すような目をしている。わたしがひそかに怒りをこらえていることに、気づいてすらいない様子だ。


「だから君がいなくなり、これで放っておいても離縁できると、大いに喜んだんだよ。……最初は」


 その視線が、隣のユナに向かった。甘く優しい、わたしには一度たりとも向けられなかったまなざしに、気持ち悪さを感じてしまう。


「だが、君がいなくなってユナを迎え入れ、よく分かった。面倒な手続きを経てでも、僕の人生から君をきちんと、それも急ぎ排除しておかなければならない、と」


 どうやら彼のほうで、何か事情が変わったらしい。そのことを感じつつ、次の言葉を待つ。


「今でも、書類上僕の妻は君だ。ユナじゃない。そして今、ユナの腹の中に僕の子がいる」


 ……ああ、そういうことか。


「この子が生まれてくる前に君と離縁し、ユナと再婚しなければ、この子は我がケイエルの正式な跡継ぎとして認められないかもしれない」


 この国では、男女どちらでも跡継ぎになることはできる。ただ、愛人の子が跡継ぎとなると……多少後ろ指をさされることにはなるだろう。


「最初は、この子を僕と君の子として届け出るつもりだったんだ。それなら、この子は跡継ぎとなることができる。しかしユナが、どうしても嫌がったんだ」


 ネイサンが話している間、ユナは悠然と微笑んでいるだけだった。これは間違いなく、勝利の笑みだ。


 まあこちらについては、現状どうだっていいとしか思えなかった。今のわたしにとっては、フォンテとのことのほうがよっぽど重要だから。


「まったく、ついていた。君がこちらに向かって歩いていったと、使用人たちを締め上げて聞き出したはいいものの、そこからの足取りが全くつかめなくて」


 そうして彼は、話は終わりだとばかりに首を振った。


「さて、これから僕と一緒にきてもらおう。何、手続きが全て終われば、また解放してやるさ。君にはこれっぽっちも興味がないから」


 そう言って、ネイサンがこちらに進み出てくる。すると彼とわたしの間に、フォンテが割って入った。肩をいからせ、ネイサンをひたと見すえている。


「ママをいじめるやつ……フォンテが……」


「駄目よ」


 低い声でつぶやくフォンテの腕をとっさにつかみ、こちらに引き寄せる。


 こんな町中で彼が力を使いでもしようものなら、アルティスのときとは比べ物にならない騒動になってしまう。まず間違いなく、わたしたちはこの町にも、トーラの屋敷にもいられなくなる。


 わたしの声にこもった気迫に気づいたのか、フォンテが目を丸くした。


「あ、そうだった……だったら、えいへい、よぼう!」


 そうやって話していたら、ネイサンの間の抜けた声がした。


「なんだ、君の子か? 家を出てから生んだはずもないし……まさか、僕のところに嫁いで来る前に産んでいたのか? だとしたら、僕に対する裏切りだぞ」


 わたしが彼のもとに嫁いだのが三年前、フォンテはだいたい四歳くらいに見える。だから、計算が合わないと彼は考えたのだろう。


 フォンテは精霊の子どもだから、もちろんわたしは産んでいない。でもそのことをネイサンたちに教えてやるつもりは、これっぽっちもなかった。


「わたしは、誓って潔白です。ただ……あなたに指一本触れられなくてよかったと、今では心の底からそう思います」


「ふん、少し見ない間に、ずいぶんと強気になったな。前のほうが、まだかわいげがあった」


 そう言うなり、彼は大股に一歩踏み出し、わたしの腕をしっかりとつかんでしまった。


「ママ!!」


 フォンテの悲鳴を耳にしたのか、衛兵がふたりぞろぞろと駆けつけてきた。


「何をされているのですか? 子どもがおびえているようですが……」


 しかしネイサンは、涼しい顔で答えている。


「いや、知り合いが逃げようとしたから、とっさに捕まえただけだ。彼女はとにかく、逃げ癖があってね。さあカルミア、約束通り来てもらおう」


 どうやら彼は、このまま適当にこの場を乗り切ろうとしているらしい。何が約束だ。勝手にでっちあげないで。


 その怒りが、ついにほとばしる。まっすぐにネイサンを見すえ、胸を張って声を上げた。


「わたしはトーラ公爵家の客人です! あなたとは、何の約束もしていません! その手を放していただけますか!」


 鋭い声に、ネイサンだけでなくユナまでもがたじろいでいた。そのことに、ちょっとだけ胸がすくのを感じる。


「それに逃げるも何も、わたしはずっとこの町で暮らしています! 疑うのであれば、リリア様に尋ねてください!」


 リリア・トーラ。その言葉は、衛兵たちにはてきめんに効いたようだった。


「……申し訳ありませんが、いったんお引き取り願えるでしょうか」


 衛兵たちが、顔を引き締めてネイサンに向き直った。


「町の中で騒ぎを起こされるのであれば、貴族の方といえど見過ごせません。詰所のほうで、詳しいお話をうかがうことになりますが……」


「こちらの方がリリア様のお知り合いなのであれば、のちほどお屋敷のほうで話し合われてはいかがでしょうか」


 口々にそんなことを言っている衛兵を、ネイサンは不機嫌そのものの表情でにらみつけていたけれど、じきにわたしの腕を放し、こちらに背を向けた。


「……いや、いい! いくぞ、ユナ」


「ええ、分かりましたわ。それではまたね、奥さん」


 そうしてふたりは、優雅な足取りで立ち去っていく。しかし数歩進んだところで、ネイサンがふと振り返った。


「いいか、カルミア。僕はあきらめない。さすがに公爵家の屋敷に乗り込んで君を連れ出すような暴挙には出られないが、この町に滞在して、君が出てくるのを待ち構えることならできる」


 いつもきざったらしい笑みを浮かべていたその顔は、醜くゆがんでいた。


「……覚悟しておけ」

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