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1.波乱の旅立ち

「ママ?」


 間違いなく初対面のその子どもは、青い目をきらきらと輝かせてわたしを見上げていた。






 事の始まりは、愛のない結婚だった。要するに、政略結婚。それも、はずれのほうの。


 運がよければ、政略結婚でも仲睦まじい夫婦になることもあるらしい。けれど、わたしははずれを引いてしまった。


 夫はわたしをほったらかしにするし、親戚たちは「跡継ぎはまだか」ってせっついてくるし……跡継ぎも何も、夫はわたしに指一本触れようとすらしないのに、この状況でどうしろというの。


 針のむしろのような結婚生活、気がつけば三年目。わたしはもう二十一歳になっていた。自慢の金髪に手入れをする気にもならなかったし、鏡の中から見つめ返してくる紫の目もどんよりと曇っていた。


 結婚する前のわたしは、可憐な野の花のような乙女だと言われていた。ふわふわと柔らかく、はかなげな女性だと、そんなふうに称されていた。


 あのころは、そんな自分の弱さを気にすることはなかった。でも今では、自分がもっと強ければと、そう思わずにはいられなかった。辛くても、何もできない。そんな自分が、歯がゆかった。


 いつまで、こんな生活が続くのだろう。毎日数えきれないほどのため息をつきながら過ごしていた、ある夜のことだった。


 寝付けなかったわたしが夜の廊下をふらふらしていたところ、その先のバルコニーから人の気配がしたのだ。


 とっさに曲がり角に隠れたわたしの耳に、甘ったるい声が飛び込んでくる。


「ねえ、あたしと一緒でいいの? 奥さん、怒らない?」


「いいんだ。カルミアは僕が何をしていても許してくれるからね」


 それは知らない女性と、夫との会話だった。姿は見えないけれど、とても親密な関係であることは声だけで分かる。


「まあ、都合のいい奥さんね」


「ああ。ある意味では、最高の妻かもしれないな」


 そのまま二人は、この上なく甘ったるい言葉をかわしあっていた。


 よそに女がいるのは知っていた。仕方のないことだと思っていた。たぶんそのうち、わたしが産んでもいない子どもを、この家の跡継ぎとして迎え入れることになるのだろうなと、あきらめてもいた。


 でもこんなに堂々と、屋敷に愛人を連れ込むなんて。


 もう、我慢の限界だった。もう耐えられない。


 その数日後、わたしは屋敷を出た。『離縁してください、探さないでください』という書き置きを残して。夫が用事で、しばらく外泊している隙をついて。


 屋敷を出るとき、使用人たちに姿を見られてしまった。どうか黙っていてとお願いしたら、みんなちょっぴり悲しそうな顔でうなずいてくれた。同情してくれたのかもしれない。


 そうして、トランクひとつを下げて歩き出した。


 夫の浮気に耐えかねて、家を飛び出した妻。夫の親戚たちは、わたしのことをあらん限りに非難するだろう。わたしは彼らを、敵に回したも同然だ。


 だからもう、生まれ育った家にも戻れない。政略結婚をこんな形で終わらせようとしたわたしが実家に戻れば、どうなるか分かったものではないから。


 このまま、行方をくらましてしまおう。そうするしかない。


 この街道をひたすらに進んでいけば、大きな町に出られる。そこでなら、新しい生き方も見つかるかもしれない。いや、見つけてみせる。


 決意も新たに、せっせと足を動かす。ここ数年感じていなかった希望のようなものが、胸の奥に芽生えているのを感じた。


 実は、あの屋敷を飛び出そうと考えたのは、これが初めてではなかった。


 だから、使用人たちの会話をこっそり聞いたり、夫のいない隙を狙って書斎に忍び込んだりして、この周辺の地理を頭に入れていたのだ。


 荷造りについても、あれこれと考えていた。自分ひとりで運べる荷物の重さとか、必要なものとか、そういったことを計算したり、実際にトランクに詰めてみたり。


 そうやって、いつかこの苦痛ばかりの日々から逃げ出す日を夢見ていた。


 でも現実は、夢想よりずっと過酷だった。


「……朝一番に出れば、夕方には町につく。使用人のみんなは、そう言ってたのに……」


 普段ろくに運動していないわたしの体は、すぐに音を上げた。懸命に足を動かしても、目の前に広がるのは一面の野山と街道だけ。


 疲れ果ててしまって、街道のそばにあった岩に腰を下ろした。背後には、明るい林が広がっている。足はじんじんとしびれるように重く、ずっとトランクを持っていた手も震えていた。


「まさか、こんなに遠いなんて……」


 夜までに町にたどり着けないのではないかという恐怖はあったけれど、誰かが追いかけてくるかもという心配はしていなかった。


 夫が屋敷に戻るまでまだ日にちがあるし、もしわたしがいなくなったことを夫が知っても、たぶん追っ手はやってこないだろう。


 きっと彼は、表向きわたしが静養していることにして、わたしの不在をごまかすのではないかと、そんな気がしている。そうすれば今まで以上に好き勝手に、愛人を連れ込めるだろうから。


「わたしの居場所なんて、もうどこにもないのかも……」


 疲労のせいか、どんどん考えが暗くなっていく。ひざを抱えて、丸くなってうつむいた。


 わたしが自分の意思でいなくなったのだと、せめて両親にだけでも伝えておけばよかっただろうか。


 もしそうしていたら、両親は少しくらい悲しんでくれただろうか、心配してくれただろうか。それともふたりにとってわたしは、政略結婚のための道具に過ぎなかったのだろうか。


「お父様、お母様……」


「ママ?」


 ぽつりとつぶやいたとたん、幼い声が聞こえてきた。驚いて顔を上げると、目の前に小さな子どもが立っていた。


 さっきまで、誰の気配もしなかったのに、いつの間にこんなに近づいていたのだろう。不思議に思いながら、その子を見つめる。


 たぶん四歳くらいか、かなり小さい。サファイアのような青い目を丸くして、まっすぐにわたしを見つめている。生き生きとした雰囲気の、とてもかわいらしい子だ。


 あちこちがぴょこぴょこと跳ねた髪は明るい水色、ちょっと変わった色味だけれど、水の流れのようできれいだ。


 着ているものはごく普通の、生成りの上着とズボン。髪型と服装からすると、たぶん男の子かな。この子、どこかの平民の子みたいだけれど、どこから来たのだろう。


「みつけた、ママ!」


 そうしたらその子は、わたしをしっかりと見つめたまま、明るく言い放った。……え? わたしが、ママ?


「あのね、わたしはあなたのママじゃないの。お母さんはどこ? 一緒に探してあげるわ」


 あわてて立ち上がったとたん、その子はわたしのスカートにぎゅっとしがみついてしまった。そうして、ぶんぶんと首を横に振っている。


「ううん、ママがフォンテのママ!」


 予想外の事態にうろたえつつ、呼びかけてみる。


「あなた、フォンテっていうの?」


「そうだよ、ママ」


 ひとまず、名前は分かった。でも、どうしよう……完全に母親扱いされてるわ……。


「あなたはここに来るまで、どうしていたの? その、わたしと話すより前ね」


「ひとりでいたよ。ずっと」


 きょとんとした顔で、フォンテはそう言った。わたしのスカートを、しっかりとつかんだまま。


 ……もしかしてこの子、捨て子なのかしら。あるいは、孤児院から逃げてきた、とか?


 けれどそれにしては、悲壮感というものがまるでない。そんな辛い目にあってきたとは、とても思えない。とにかくこの子は、無邪気そのものなのだ。


 それどころかフォンテは、わたしと一緒にいられて嬉しいといった態度だ。この短い間に、どうしてここまでなつかれてしまったのか。


「ねえ、坊や」


「フォンテだよ、ママ」


「……それじゃあ、フォンテ。あなたはこれから、どうするの?」


「ママといっしょ!」


 ……困った。ひとりでどうやって生きていくかすらまだめどが立っていない状況で、こんな小さな子どもを連れていくわけにはいかない。


「わたしは、これから街道の先にある大きな町に向かうの。誰かがあなたを探しにくるかもしれないし、あなたを連れてはいけないわ。あなたはここで、迎えに来る人を待っていなさい」


 言い聞かせようとしたとたん、フォンテの大きな目にぶわりと涙が浮かぶ。


「いないよ、そんなひと!」


 そうしてフォンテは、しっかりとわたしに抱きついてしまった。そのまま、声を上げて泣き始める。


「フォンテは……ママといっしょだもん……おいていかないで……」


 子どもの高い体温が、服越しに伝わってくる。小さな体は、小刻みに震えていた。


 こうなっては、この子を置いてはいけない。ただ確か、この近くに村はなかったはず。となると、ここから一番近いのは、わたしが目指している大きな町だ。


 だったらひとまず、この子を町まで連れていって、そこでこの子を知っている人を探すか、あるいはこの子の行き先を見つけてやるか、そうするしかなさそうだ。


「分かったわ、フォンテ。わたしと一緒にいきましょう」


 やはり自分のことを『ママ』というのには抵抗があったので、どうしても物言いがぎこちなくなってしまう。


 けれどフォンテはそれで十分だったようで、涙に濡れた顔をばっと上げて、わたしをまっすぐに見つめてきた。その青い目は、またきらきらと輝いている。


「うん! えへへ、やったあ!」


 そうして彼は、またぎゅっと抱きついてきた。体重を預けてくるようなそのしぐさに、ついほっとしてしまう自分がいた。




 思いもかけない同行者を得て、また街道を歩いていく。


 フォンテの足取りに合わせた、ゆっくりとした歩みだ。情けないことに、それはわたしの軟弱な足にもちょうどいい速さだった。


 もっとも、そうやってのろのろと歩いていると、当然ながら日没には間に合わないわけで。


「……とうとう、日が暮れてきたわね……」


 わたしたちの目の前には、沈みゆく大きな夕日。こんなときでなければ見とれてしまうくらいに、それは美しかった。


 しかし街道の先には、やはり町の姿は少しも見えていない。今、どのくらいのところまで来ているのかすら分からない。


「このまま夜通し歩くか……どこかその辺で休むか……」


 暖かい季節だから、どちらもできそうではある。疲れた体をひきずってでも早く町にたどり着いてそこでゆっくり休むか、いったん体を休めて、元気になってから歩くか。


 ただ、それとは別の問題が、ひとつあった。


「持ってきた水が、そろそろ底をつきそうね……小川か何か、あればいいのだけれど」


 空腹は耐えられる。でも喉の渇きは、そうはいかない。ほとんど空になっている革の水筒を手にため息をついていたら、フォンテが目を丸くしてこちらを見てきた。


「ママ、のどかわいたの?」


「ええ。フォンテは大丈夫?」


「うん。あのね、こっちだよ」


 そう言うなり、フォンテはわたしの手を引いて、近くの林にどんどん分け入ってしまう。


「待ってフォンテ、どこに行くの!? 危ないわ!」


「あぶなくないよ」


「もしかして、道を知ってるの?」


「しらないよ」


 とんでもないことを言いながら、それでも彼の足取りは少しも揺らぐことがない。細い獣道を、さらに突き進んでいる。


「はい、おみず」


 そう言って、唐突にフォンテが立ち止まった。にこにこと笑う彼の向こう、木々の開けたところに、小さな小さな泉が姿を見せていた。

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