第四話 さよなら、私の大好きだった人。――え、いとこ?……え?
奏くんが、浮気している。
あのスマホの通知を見てしまってから、その事実が鉛のように私の心にのしかかっていた。世界から音が消え、何もかもが灰色に見える。大好きだったはずの学校も、友達との楽しいおしゃべりも、今はただ苦しいだけ。
奏くんが私にかける優しい言葉が、刃物のように心を切り刻む。その優しさは、罪悪感からくる偽善なんだ。私を騙していることへの、せめてもの償いなんだ。そう思うと、彼の顔をまともに見ることができなかった。
悲しくて、悔しくて、怒りでどうにかなりそうだった。奏くんを問い詰めたい。あの女の人は誰なのか、どうして私を裏切ったのか、全てをぶちまけてしまいたい。でも、それが怖かった。彼の口から「好きな人ができた」なんて言葉を聞いてしまったら、私はきっと、壊れてしまう。
一人で抱えきれなくなった私は、昼休み、幼馴染の颯太くんの元へ走った。もう、誰かにこの気持ちを聞いてもらわないと、息もできないくらいに苦しかったから。
「颯太くん……!」
お弁当を食べていた颯太くんの前に、私は泣きそうな顔で立っていたと思う。彼は私を見るなり、「げっ」とでも言いたげな顔をして、露骨に面倒くさそうなオーラを出した。
「なんだよ詩織、お前まで…。奏と同じような顔しやがって」
「え……?」
奏くんと同じ顔? どういうことだろう。でも、その時の私に深く考える余裕はなかった。
「聞いて、颯太くん……奏くんが、浮気してるの……!」
私は、ほとんど泣きながら訴えた。週末に見た、綺麗な女性とのデートのこと。私との約束を断ってまで、その人と会っていたこと。そして、決定的だったスマホの通知メッセージのこと。
「『珠季さん』って人からで、『またデートしよ♡』って……! どうしよう颯太くん、私、もう……」
嗚咽が漏れる。情けなくて、惨めで、涙が止まらなかった。
私の必死の訴えを聞き終えた颯太くんは、箸を置くと、天を仰いで長大なたま息をついた。
「……お前もか」
その呟きは、呆れと諦めと、ほんの少しの同情が混じっているように聞こえた。
「だから言ったろ、痴話喧嘩だって…。いいか、詩織。お前も奏も、少し冷静になれ。ちゃんと二人で話し合えよ。それが一番早い」
颯太くんはそう言うと、私の頭をくしゃっと撫でて、「俺は先に教室戻るからな」と去って行ってしまった。
残された私は、ただ立ち尽くすだけだった。颯太くんまで、私の話を真剣に聞いてくれない。痴話喧嘩なんかじゃないのに。こんなに苦しいのに。
放課後。日直の仕事も手につかず、ぼんやりと窓の外を眺めていると、教室にはいつの間にか私一人だけになっていた。教室に残って部活の準備をしていた奏くんも、もう帰ったようだ。
さよなら、奏くん。
さよなら、私の大好きだった人。
心の中で、何度も別れの言葉を繰り返す。もう潮時なんだ。奏くんは、もう私のことなんて好きじゃない。これ以上、彼の隣にいても、お互いが辛いだけだ。
重い足取りで教室を出ようとした、その時。
「詩織」
背後から、低い声で名前を呼ばれた。振り返ると、そこにいたのは、帰ったはずの奏くんだった。彼の顔は見たこともないほどに険しく、その瞳は悲しみと怒りで揺れていた。
空気が、張り詰める。心臓が痛いほどに鳴り響く。
先に沈黙を破ったのは、奏くんだった。
「詩織こそ、いい加減にしろよ」
「……え?」
「とぼけるな! 俺というものがありながら、他の男と会ってるんだろ!」
彼の口から飛び出した言葉に、私は耳を疑った。私が、他の男と?
「浮気してるのは、お前の方じゃないか!」
奏くんの怒声が、静かな教室に響き渡る。その言葉に、私の心の中で何かがぷつりと切れた。
「……な、にを、言ってるの…?」
震える声で、やっとそれだけを絞り出す。
「浮気してるのは、奏くんの方でしょ!」
抑えていた感情が、ダムが決壊したかのように溢れ出す。
「私、見たんだから! この前の日曜日、綺麗な女の人と腕を組んで、楽しそうに歩いてるところ! 私との約束は断ったのに!」
「なんだと…?」
「スマホの通知も見た! 『珠季さん』って人から、『またデートしよ♡』って来てた! それでもしらばっくれるつもり!?」
涙で視界が滲む。私の叫びに、奏くんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。だが、すぐに怒りの表情に戻る。
「珠季さんは関係ない! それより詩織こそ、あの『怜くん』って誰なんだよ!」
怜くん。
その名前に、私はハッとした。奏くんが、どうして怜くんの名前を?
「なんで、怜くんのことを……」
「お前の誤爆LINEで知ったんだよ! 『怜くんに奏は似合うかな』とか何とか! 俺へのプレゼントを選ぶふりして、本当はその男との逢い引きの口実にしてたんだろ!」
「ちがう!」
私は、全力で叫んでいた。
「怜くんは、ただのいとこだもん! 小さい頃、病弱だったあの子よ! 最近元気になったから、奏くんとの記念日のお祝いにって、プレゼントの相談に乗ってくれてただけじゃない!」
私の言葉に、今度こそ奏くんは完全に固まった。その口が、何かを言おうとして、ぱくぱくと動いている。
「いとこ…? あの、昔よく一緒に遊んだ、泣き虫の怜くんか…!?」
「そうよ! それより奏くんこそ、珠季さんって誰なのよ!」
「珠季さんは……俺の、いとこだ」
奏くんは、まるで懺悔するかのように、か細い声で言った。
「詩織への記念日のプレゼント、何がいいか分からなくて…センスのいい珠季さんに、相談に乗ってもらってたんだよ……」
「……え?」
いとこ。
奏くんの、いとこ……?
私が小さい頃、『たま姉ちゃん』って呼んで慕っていた、あの……?
頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、一気に組み上がっていく。
奏くんは、私へのプレゼントを珠季さんに相談していた。
私は、奏くんへのプレゼントを怜くんに相談していた。
奏くんが見たカフェの光景は、その相談をしていた時のもの。
私が見たアクセサリーショップでの光景も、その相談をしていた時のもの。
奏くんが受け取った誤爆LINEも。
私が見てしまったスマホの通知も。
全て、全てが、ただの盛大な、勘違い――。
「…………うそ」
全身から、力が抜けていく。立っているのが、もう限界だった。へなへなと、その場に座り込む。隣で、同じように奏くんが崩れ落ちる気配がした。
静まり返った教室に、気まずい沈黙が流れる。
先に口を開いたのは、奏くんだった。
「……ごめん、詩織」
その声は、震えていた。
「俺、お前のこと、少しも信じてやれなかった…。勝手に勘違いして、お前を疑って……最低だ」
「……ううん」
私も、首を横に振る。涙が、後から後から溢れてきた。でも、それはもう悲しみの涙ではなかった。
「私も、ごめんなさい、奏くん…。私も、奏くんのこと、信じてあげられなかった…。勝手に浮気してるって思い込んで、ひどいこと言って……」
私たちは、お互いに顔を上げられないまま、ただ謝り続けた。
疑ってしまったことへの後悔と、相手が自分だけのものであったことへの安堵と、そして、とんでもない勘違いをしていたことへの羞恥心。色々な感情がごちゃ混ぜになって、胸がいっぱいになる。
どちらからともなく、私たちは手を伸ばした。
そして、お互いの存在を確かめるように、強く、強く、抱きしめ合った。
「良かった……」
「本当に、良かった……」
奏くんの腕の中は、いつもと同じように温かくて、安心する匂いがした。失いかけていたものが、確かにここにある。その事実だけで、幸せだった。
夕日が差し込む教室で、私たちは子供みたいに、しばらくの間、ただ泣きながら抱き合っていた。




