第三話 俺はもうダメかもしれない。アイツの笑顔を他の男に向けるくらいなら、いっそ……
詩織が浮気している。
あの日、あの誤爆LINEを見てからというもの、その四文字が呪いのように俺の頭にこびりついて離れない。世界は色褪せ、味気ないモノクロームに変わってしまった。
教室で友達と笑い合っている詩織を見るだけで、胸が締め付けられる。あの屈託のない笑顔が、今はもう俺だけのものじゃない。あの「怜くん」という男にも向けられているのかと想像するだけで、腹の底から黒いマグマのような嫉妬がせり上がってくる。
話しかけたい。いつものように、くだらない話で笑い合いたい。でも、どんな顔をして彼女と向き合えばいいのか、もう分からなかった。俺の視線に気づいた詩織が、ふとこちらを向く。その笑顔は、どこかぎこちなく、何かを隠しているように見えて、俺の心をさらに深く抉るのだ。
週末、詩織から「どこかに行かない?」と誘われた。嬉しいはずの誘いが、今は苦痛でしかない。浮気をしているかもしれない彼女と、いつも通りにデートなんてできるはずがない。俺は「用事がある」と嘘をついて、その誘いを断ってしまった。
本当は、用事なんてなかった。
ただ、彼女の顔を見たくなかった。彼女の隣で、疑念に苛まれながら笑う自分を想像したくなかったのだ。
しかし、一人で部屋にいても、ろくなことを考えない。結局、俺は詩織への記念日のプレゼントを探すという名目で、家を飛び出した。いとこの珠季さんに連絡を取り、オシャレな彼女にプレゼント選びを手伝ってもらうことにしたのだ。
「奏、暗い顔しちゃってどうしたのよ。大好きな詩織ちゃんへのプレゼント選びなんだから、もっとシャキッとしなさい!」
「……うん」
珠季さんは、昔から俺を弟のように可愛がってくれる、明るくて面倒見のいい人だ。彼女といると少しは気が紛れるかと思ったが、心に重くのしかかる鉛は、少しも軽くならなかった。
アクセサリーショップで、珠季さんが「奏にはこっちのデザインが似合うってば!」と言いながら、俺の腕に絡みついてくる。普段なら「やめろよ」と軽くあしらうところだが、その時の俺には、そんな気力さえ湧いてこなかった。
結局、その日もプレゼントは決められなかった。珠季さんに礼を言って別れた帰り道、虚しさがどっと押し寄せる。俺は一体、何をやっているんだろう。
詩織を疑い、避け、嘘までついている。こんなのは、俺じゃない。
だけど、どうすればいい? 「あの男は誰だ」と問い詰めるべきか? それで、もし本当に詩織が浮気を認めたら? その時、俺は。
考えただけで、呼吸が浅くなる。詩織のいない人生なんて、想像すらできない。彼女を失うくらいなら、いっそこのまま、何も知らないふりを続けた方がいいのかもしれない。でも、そんなことができるはずもなかった。
週が明けても、状況は変わらない。むしろ、悪化していた。詩織も俺を避けているように感じる。教室で目が合っても、気まずそうに逸らされる。俺たちの間に、見えない壁ができてしまったようだ。
もう、無理だ。一人では抱えきれない。
昼休み、俺は決死の覚悟で、共通の幼馴染である風早颯太の元へ向かった。颯太は、俺と詩織のことを誰よりも理解してくれている、唯一の親友だ。
「颯太……」
購買のパンをかじっていた颯太の前に、俺は亡霊のような顔で立ったのだろう。颯太は「うわっ、なんだよ奏。死人みたいな顔して」と眉をひそめた。
「聞いてくれ、颯太。俺はもう、どうしたらいいか分からないんだ」
俺は、人があまり通らない階段の踊り場に颯太を連れ出し、堰を切ったように話し始めた。
「詩織が……詩織が、浮気してるかもしれないんだ」
「はあ? お前、何言ってんだ?」
颯太は、心底呆れたという顔で俺を見た。その反応は予想通りだ。誰が信じるだろう。あの詩織が、俺以外の男に目を向けるなんて。
「本当なんだ! この前、駅前のカフェで見知らぬ男と二人きりでいるのを見た。すごく親しげで、その男が詩織の髪に触れても、詩織は全然嫌がってなかった。それどころか、嬉しそうにしてて……」
俺は必死に訴える。カフェでの一件、詩織が嘘をついたこと、そして、決定的な証拠となった誤爆LINEのこと。
「『怜くん』って名前の男からで…いや、詩織がその男に送ろうとして、間違えて俺に…」
話しているうちに、当時の光景が鮮明に蘇り、目頭が熱くなる。声が震え、情けなくも涙が滲んできた。こんなみっともない姿、詩織以外に見せたことなんてない。
「……それで、最近ずっとよそよそしいんだ。俺が何かしたのかって顔をしてるけど、悪いのはそっちの方じゃないか。俺に隠れて他の男と会って、俺がそれに気づいてるなんて夢にも思ってないんだ。俺は、どうしたら……」
そこまで一気にまくし立てると、颯太は大きなため息をついた。
「……で? その『怜くん』ってのが誰だか、お前は聞いたのか?」
「聞けるわけないだろ! 聞いて、『そうだよ、好きな人ができたの』なんて言われたら、俺は……!」
「お前なあ……」
颯太は、こめかみを指でぐりぐりと押さえながら、何かをこらえるように天を仰いだ。その態度は、俺の苦しみを真剣に受け止めているようには見えなかった。どちらかと言えば、「またこいつらか」とでも言いたげな、諦観に満ちた表情だ。
「まあ、落ち着けよ。いつものお前らの痴話喧嘩だろ。どうせそのうち、何かの勘違いでしたーって言って、俺の前でイチャつき始めるに決まってる」
「痴話喧嘩なんかじゃない! 今回は、本当にダメかもしれないんだ!」
「はいはい、分かった分かった。とりあえず、お前は少し頭を冷やせ。詩織がそんなことするわけないって、お前が一番よく分かってるだろ?」
颯太は俺の肩をバンと叩くと、「じゃあな」と軽く手を振って、教室の方へ戻って行ってしまった。
一人、階段の踊り場に取り残される。
誰も、この苦しみを分かってくれない。颯太でさえ、ただの痴話喧嘩だと、俺の考えすぎだと言う。
そうじゃないんだ。今回は、本当に違う。
詩織のあの気まずそうな笑顔、俺から目を逸らす仕草、そしてスマホに表示された『怜くん』という名前。全てが、俺の胸に突き刺さったまま、抜けない。
教室に戻ると、隅の方で詩織が俯いているのが見えた。その姿が、ひどくか弱く、今にも泣き出してしまいそうで、駆け寄って抱きしめてやりたい衝動に駆られる。
でも、できない。
彼女の隣には、もう俺の居場所はないのかもしれない。
もし、詩織が本当に他の誰かを好きになってしまったのなら。俺のいないところで、他の男と笑い合っているのなら。
いっそ、いっそ、壊してしまえたら。
そんな恐ろしい考えが、ふと頭をよぎる。詩織のいない世界なんて耐えられない。ならば、彼女が他の男のものになる前に、この関係を俺自身の手で終わらせてしまった方が……。
「……っ」
俺は自分の考えにぞっとして、頭を振った。違う、そんなことは望んでいない。ただ、元の二人に戻りたいだけなんだ。疑いも、嘘も、何もない、あの頃に。
窓の外は、どんよりとした曇り空だった。まるで、今の俺の心の中を映しているかのようだ。この分厚い雲が晴れる日は、もう二度と来ないのかもしれない。そんな絶望的な予感が、俺の全身を支配していた。




