第二話 私の彼氏が知らない美女とイチャイチャしてるんですが、これは何かの罰ゲームですか?
私、月詠詩織の世界は、たった一人の男の子で出来ている。
彼の名前は、響谷奏くん。
小さな頃からずっと一緒で、いつだって私のことを一番に考えてくれる、世界で一番大好きな男の子。そして、中学卒業式の日に奇跡みたいに両想いだと分かって付き合い始めた、たった一人の大切な彼氏だ。
少し眠たげだけど優しい目元も、ぶっきらぼうに見えて本当は誰より優しいところも、時々見せる子供みたいな笑顔も。彼の全てが、私の宝物。高校の友達は「安定感すごいよね」なんて言うけれど、そんなことはない。今でも奏くんと二人きりになると、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキするし、彼に触れられるたびに、夢なんじゃないかって不安になるくらいだ。
私の毎日は、奏くんがいてくれるから、こんなにも輝いている。
だから、分かってしまった。
最近の奏くんが、どこかおかしいことに。
きっかけは、数日前の放課後。私は、いとこの橘怜くんと駅前のカフェでお茶をしていた。
怜くんは私の一つ年下のいとこで、小さい頃は体が弱くて入退院を繰り返していた子だ。私が「お姉ちゃん」としてよく面倒を見ていたせいで、今でも私を「僕の女神様」なんて呼んで、すごく懐いてくれている。最近、すっかり元気になって高校生活を謳歌している怜くんから、「奏さんへのプレゼントの相談に乗ってほしい」と頼まれたのだ。
「奏さん、もうすぐ詩織お姉ちゃんとの記念日でしょ? 僕、何かお祝いしたくて」
そう言って、スマホでオシャレなペアアクセサリーの画像を見せてくれる怜くん。彼は昔から手先が器用で、デザインのセンスがすごく良いのだ。
「わあ、素敵…。でも、怜くんが気を使わなくてもいいんだよ?」
「いいの! 詩織お姉ちゃんには、ずっと幸せでいてほしいから。…それで、奏さんってどんなデザインが好みかな?」
奏くんのことを考えながら、怜くんと二人であれこれ話す時間はとても楽しかった。もちろん、これは奏くんへのサプライズ。だから、彼には内緒にしておきたかった。
その日を境に、奏くんの様子が少しずつおかしくなっていった。
朝の挨拶をしても、どこか上の空。LINEの返信も、いつもみたいに絵文字がいっぱいの楽しいものではなくて、「ああ」とか「分かった」とか、すごく素っ気ない。一緒に帰っていても、なんだか会話が弾まない。私の目を見てくれなくなった気がする。
私が、何かしただろうか。
もしかして、怜くんと会っていたことがバレてしまった? でも、やましいことなんて何もない。ただのいとこと、奏くんへのプレゼントを選んでいただけなのに。
昨日、奏くんから「昨日は何してたんだ?」と聞かれた時、思わずドキッとしてしまった。サプライズにしたかったから、「友達とお茶してた」なんて、つい曖昧に誤魔化してしまったけれど、それが良くなかったのかもしれない。奏くんは「そっか」とだけ言って、それ以上何も聞いてこなかった。その時の彼の横顔が、なんだかすごく寂しそうに見えて、私の胸はチクリと痛んだ。
その夜、ベッドに入ってから、私は怜くんにLINEを送った。奏くんの好みを考え直して、やっぱり別のデザインがいいかもしれないと思ったからだ。
『ごめん、怜くん。やっぱりあのデザイン、奏くんに似合うかな…』
そう打ち込んで、送信ボタンを押す。だけど、すぐに違和感に気づいた。トーク画面の一番上に表示されているのは、怜くんの名前じゃない。
『響谷 奏』
「――えっ」
血の気が、さあっと引いていくのが分かった。
間違えた。間違えて、奏くんに送ってしまった。
慌てて送信を取り消そうとするけれど、焦る指先はうまく動いてくれない。やっとの思いでメッセージを長押しして「送信取消」の文字を押した時には、すでにトーク画面には「既読」の二文字が冷たく灯っていた。
どうしよう。どうしようどうしよう。
『怜くん』って誰だって、絶対に思われてる。サプライズだからって誤魔化したのに、これじゃあ私が何か隠し事をしているみたいじゃないか。
パニックになった頭で、どうにか言い訳を考えようとする。でも、いい言葉なんて何も思いつかないまま、時間だけが過ぎていった。
そして、運命の週末がやってきた。
奏くんとの気まずい空気をどうにかしたくて、「今週の日曜日、どこかに行かない?」と勇気を出して誘ってみた。でも、奏くんからの返事は「ごめん、その日はちょっと用事があって」という、にべもないものだった。
断られてしまった。
ショックで、一日中部屋に引きこもっていた。だけど、どうしても気分が晴れなくて、夕方ごろ、気分転換に近所の本屋まで散歩に出かけることにした。
商店街を歩いていると、ふと、見慣れた後ろ姿が目に入った。すらりとした背の高いシルエット。少し癖のある黒髪。
「奏くん…?」
用事があるって言っていたのに。こんなところにいたんだ。
声をかけようとして、一歩踏み出した、その時。
奏くんの隣に、知らない女性が立っていることに気がついた。
その人は、私とは全然違うタイプの人だった。華やかなウェーブのかかった髪、モデルみたいに完璧なメイク、大人っぽくて洗練されたファッション。どこからどう見ても、垢抜けた美人。
その女性が、ごく自然な仕草で奏くんの腕に自分の腕を絡めた。
「だから、奏にはこっちのデザインが似合うってば!」
「えー、そうですか? でも、こっちも…」
甘えたような女性の声と、まんざらでもない様子の奏くんの声。二人はそのまま、楽しそうに笑い合いながら、アクセサリーショップの中へと入っていく。
私の頭は、真っ白になった。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねて、そのまま凍り付いてしまったみたいに動かない。
あれは、誰?
あの女の人は、誰なの?
用事があるって言って私とのデートを断ったのは、あの人と会うためだったの?
震える手で、スマホを取り出す。通話履歴の一番上にある奏くんの名前をタップした。耳に当てたスマホから、無機質なコール音が響く。お願い、出て。そして、何かの間違いだって言って。
『……もしもし?』
「あ、かなでく…」
『ごめん、今ちょっと用事で手が離せないんだ。後でかけ直す』
それだけ言うと、電話は一方的に切られてしまった。
ツーツー、という虚しい音だけが、私の耳に残る。
どうして。どうしてなの、奏くん。
涙が、視界を滲ませる。私はその場に立ち尽くすこともできず、逃げるように踵を返して、家へと走った。
それから数日、私は奏くんの顔をまともに見ることができなかった。彼が私に優しく微笑みかけるたびに、あの日の光景がフラッシュバックして、吐き気がした。
そして、決定的な瞬間が訪れてしまう。
放課後、日直の仕事で少しだけ教室に残っていた時のこと。先に帰ったはずの奏くんが「忘れ物した」と言って戻ってきた。彼の机の上に、スマホが置きっぱなしになっている。
「あ、スマホ。私が取ってこようか?」
そう言いかけた時だった。
ブブッ、と机の上のスマホが震え、画面が明るくなる。そして、私の目に飛び込んできたのは、見たくもなかった通知だった。
『珠季さん:この前は付き合ってくれてありがとう!プレゼント、絶対喜んでくれるよ!今度お礼にまたデートしよ♡』
珠季さん。
きっと、あの時の女の人の名前だ。
『お礼にまたデートしよ♡』
その一文が、毒矢のように私の胸に突き刺さる。
ああ、そう。
やっぱり、そうだったんだ。
奏くんは、浮気している。
私という彼女がいるのに、他の女の人とデートして、親密なメッセージをやり取りして。
私に嘘をついて。
目の前が、ぐにゃりと歪む。立っているのがやっとだった。
「詩織? どうかしたのか?」
忘れ物を取りに来た奏くんが、私の顔を覗き込んでくる。その心配そうな顔すら、今はもう信じることができない。全部、嘘に見える。
「……ううん、なんでもない」
私は作り笑いを浮かべて、首を横に振った。
悲しかった。悔しかった。裏切られたという絶望が、私の心を冷たく、冷たく凍らせていく。
さようなら、奏くん。
さようなら、私の大好きだった人。
心の中で、私は静かに彼への別れを告げていた。




