第一話 俺の彼女が知らないイケメンと親密そうに歩いてるんだけど、これってどういう状況?
俺、響谷奏の世界は、たった一人の少女を中心に回っている。
彼女の名前は、月詠詩織。
生まれた時から隣の家に住み、物心ついた時から常に俺の隣にいた、世界で一番大切な幼馴染。そして、中学卒業式の日に、お互いに「好きだ!」と同時に叫んで告白し合った、自慢の彼女だ。
艶やかな黒髪、少し潤んだ大きな瞳、ふとした瞬間に見せるはにかんだような笑顔。その全てが、俺の心を掴んで離さない。高校二年生になった今、クラスメイトからは「響谷と月詠って熟年夫婦みたいだよな」なんて揶揄われることもあるけれど、俺に言わせれば冗談じゃない。付き合って一年半が経った今でも、詩織のことを考えると心臓がうるさいくらいに鳴り響くし、二人きりになれば、その温もりを確かめずにはいられない。
俺の人生は、詩織がいて初めて完成する。それは揺るぎようのない事実だ。
だからこそ、だった。
あの光景を俺の目が捉えてしまったのは。
「――ん?」
その日、俺は来月に迫った詩織との記念日のプレゼントを探して、駅前のショッピングモールを一人でぶらついていた。詩織が喜びそうなものは何だろうか。アクセサリーか、それとも最近欲しがっていたブックカバーか。彼女の笑顔を想像しながら歩く時間は、それだけで幸福だった。
結局、ピンとくるものが見つからず、少しがっかりしながら家路につく。駅前の雑踏を抜け、見慣れた商店街を歩いていた、その時だ。
ふと、視界の端に映った馴染みのあるカフェ。その窓際の席に、見慣れた横顔を見つけた。
詩織だ。
間違いなく、俺の彼女、月詠詩織だった。
「詩織…?」
友達とでも来ているのだろうか。そう思って、俺は足を止めた。声をかけようか、それとも驚かせようか。そんなことを考えて、もう一度彼女の姿を視線で追う。
そして、固まった。
詩織は一人ではなかった。その向かいに、一人の男が座っている。
知らない男だった。
色素の薄い柔らかな髪。女性と見紛うほどに整った、中性的な顔立ち。どこのモデルか俳優かと思うほどの美少年が、詩織に優しく微笑みかけている。
誰だ、あいつは。
俺の知らない詩織の友達だろうか。いや、それにしても距離が近すぎる。テーブルを挟んでいるというのに、二人の間に流れる空気は、ただの友人というにはあまりにも親密すぎた。
詩織が何かを話すと、少年は心配そうに眉を寄せ、身を乗り出す。そして、信じられないことに、その細く長い指を伸ばし、詩織の頬に流れた髪を優しく耳にかけてやったのだ。
詩織は、それを拒まない。どころか、少し照れたように頬を染め、はにかんでいるようにさえ見えた。
カッと、頭に血が上るのを感じた。
なんだ、あれは。なんだ、あの男は。なぜ詩織は、あんな男に気安く触らせているんだ。なぜ、あんな男に、俺にしか見せないはずの顔を向けているんだ。
全身の血が逆流するような感覚。胸の奥が、ギリギリと万力で締め付けられるように痛む。俺は慌てて建物の影に身を隠し、呼吸を整えた。
今、飛び込んでいって、あの男の胸倉を掴んで問い詰めてやりたい。お前は誰だと。詩織の何なんだと。だが、そんなことをすれば、詩織を困らせることになる。みっともない嫉妬を見せて、彼女に幻滅されるかもしれない。
「……っ」
拳を強く握りしめる。爪が食い込んだ掌が、じわりと痛んだ。
俺はそのまま、二人が店から出てくるまで、物陰から息を殺して見つめ続けた。やがて、楽しそうに笑いながら出てきた二人。少年は詩織に何かを囁き、詩織はこくりと頷く。そして、名残惜しそうに手を振って、別々の方向へと去っていった。
その場に立ち尽くす俺の心には、どす黒い疑念の渦が生まれ始めていた。
◇
翌日、俺は何食わぬ顔で学校へ向かった。教室に入ると、詩織がいつものように「おはよう、奏くん」と笑顔で駆け寄ってくる。
「おはよう、詩織」
平静を装って挨拶を返すが、声が少し震えてしまったかもしれない。詩織は特に気にした様子もなく、自分の席へと戻っていく。その無邪気な姿が、昨日の光景と重なって、俺の胸をチクリと刺した。
一日中、俺は詩織のことで頭がいっぱいだった。授業の内容なんて、何一つ頭に入ってこない。休み時間、友達と楽しそうに話す詩織を見るだけで、胸がざわつく。その笑顔は、昨日のあの男にも向けられていたものなのだろうか。
放課後、二人で並んで帰る道すがら、俺は意を決して切り出した。
「なあ、詩織。昨日、放課後って何してたんだ?」
できるだけ、さりげなく。努めて平静な声で尋ねた。俺の言葉に、隣を歩いていた詩織の肩が、ほんの少しだけ揺れたのを、俺は見逃さなかった。
「え? き、昨日…?」
詩織は、あからさまに視線を彷徨わせる。そして、何かを考えるように少し黙り込んだ後、気まずそうに口を開いた。
「えっと……友達と、ちょっとお茶してただけだよ。うん、そう、それだけ」
嘘だ。
その曖昧な態度、歯切れの悪い物言い。全てが、詩織が嘘をついていることを物語っていた。なぜ隠す? なぜ正直に話してくれない? あの男は、俺に言えないような相手なのか?
「……そっか」
それ以上、俺は何も聞けなかった。問い詰めれば、詩織を追い詰めることになる。だけど、この胸に渦巻く黒い感情は、どうすればいい?
その日の夜。俺はベッドの上で、何度もスマホの画面を点けたり消したりしていた。詩織にLINEを送りたい。でも、何を送ればいいか分からない。
俺たちの間に、今までこんな気まずい空気が流れたことなんてなかった。いつだって、当たり前のように隣にいて、当たり前のように笑い合っていた。その当たり前が、今、目の前で崩れ去ろうとしている。
そんな時だった。
ピロン、と軽い通知音が鳴り、スマホの画面に詩織からのメッセージが表示された。
『月詠詩織:ごめん、怜くん。やっぱりあのデザイン、奏くんに似合うかな…』
「…………は?」
時が、止まった。
怜くん。
れい、くん…?
誰だ、それは。
昨日、詩織と一緒にいたあの男の名前だろうか。
明らかに、俺に送るはずのメッセージではない。あの男――怜くんに送るはずだったメッセージを、間違えて俺に送ってしまったのだ。
『やっぱりあのデザイン、奏くんに似合うかな…』
どういう意味だ? 俺へのプレゼントでも選んでいたというのか? だから、俺に内緒にしていた?
一瞬、そう思った。そうであってくれと、心の底から願った。
だが、すぐにその希望は打ち砕かれる。
詩織が俺へのプレゼントを選ぶのに、なぜ他の男に相談する必要がある? しかも、あんなにも親密な雰囲気で。あんなにも楽しそうに笑い合って。
違う。きっと、違うんだ。
これは、きっと……怜くんという男に「奏っていう彼氏がいるんだけど、あなたから貰ったこのプレゼント、彼氏の前で着けても大丈夫かな?」とでも相談している場面じゃないのか。あるいは、「奏っていう彼氏がいるけど、本当は怜くんのほうが好きだから、奏へのプレゼントを選ぶのも手伝って」とか……。
最悪の想像が、次から次へと頭を駆け巡る。
誤爆されたメッセージ。カフェでの密会。詩織の嘘。
全てのピースが、パズルのようにカチリ、カチリと嵌っていく。そして導き出される、ただ一つの、知りたくもなかった答え。
詩織が、浮気している。
「……うそだろ」
スマホを握りしめたまま、俺はベッドに崩れ落ちた。世界から、色が消えていくような感覚。心臓が冷たい氷の塊になったみたいに、ずっしりと重い。
俺の知っている詩織は、こんな嘘をつくような子じゃなかった。俺を裏切るような子じゃなかったはずだ。
なのに、これはなんだ?
俺の見てきた詩織は、一体誰だったんだ?
信じたい。信じたいのに、目の前に突きつけられた事実が、それを許してくれない。
『怜くん』。
その名前が、呪いのように俺の頭の中で何度も何度も反響する。
俺の世界が、音を立てて、確実に崩れ始めていた。




