第一章『檻の中の目覚め』
目覚めた時、鼻をついたのは鉄と腐臭の混じった空気だった。
鉄格子。湿った石壁。粗末な藁のベッド。――そして足枷。
どう見ても、牢獄だった。
「え……? ちょっと待って、もう転生してるの? なんで牢屋?」
身体は子どものように小さく、裸ではないが、粗末な布切れ一枚が腰に巻かれているだけ。
肌は白く痩せており、肋骨が浮き出ている。喉は渇き、腹も鳴っていた。
これは夢じゃない。間違いなく――生きている。
そして、異世界に来た。あの“エロス”が言っていた通り。
牢の外には、重厚な鎧をまとった兵士が一人、机に向かって文書を丹念に読み進めていた。こちらに気づくと、ゆっくりと顔を上げた。
「目覚めたか。……ようこそ、ゼル=セリスの祝福のもとに」
その声は威圧的でありながら、どこか“機械的”だった。
「お前は神の怒りを買った“咎人”だ。だが、使い道次第では、赦しに近づける機会を与えられるかもしれん」
俺は意味がわからず、ただ黙っていた。
でもその時、胸の奥で――何かが疼いた。
羞恥。嘲笑。蔑視。そして……命の鼓動。
ああ、なるほど。俺は本当に“始まった”んだ。別の人生を。
しかも、よりによってこの状況から。マゾとして、ある意味、最高のスタートかもしれない。
俺は、喉を鳴らして笑いそうになるのを、ぎりぎりで噛み殺した。
ここは**“浄化房”**と呼ばれていた。
大広間の奥、祈りの像の裏に隠されるように存在する地下牢。
だが実際には、祈りなどとは正反対のものが行われていた。
――神罰による魂の矯正。
そう名付けられたこの儀式の本質は、拷問だった。
ひとつ、剥がされる皮膚。
ふたつ、砕かれる骨。
みっつ、否定される人格。
そのどれもが「神の意思による浄化」であり、拒絶は“冒涜”と見なされた。
そして今、俺はその“儀式”を受ける番だった。
「ほう……目が澄んでいるな。壊れる前か、それとも壊れた後か。まあ、どちらでも構わんが。」
監獄長の男は、神官服の下に鋲付きの鞭と鉤爪のような道具を隠し持っていた。
肌には無数の血飛沫と汗がこびりつき、目だけがやけに冷たい。
彼の手にかかった者の多くは、二度と声を出さないという。
「おまえの罪は……何だったか?」
「……生きてること、ですかね……?」
「……ふん、愚かな。ではまず、口を封じてやろう」
――その瞬間、閃光のように走った“痛み”。
皮膚が裂かれ、血が飛んだ。
身体は震え、視界が白く染まる。
けれど――その時、俺の中に奇妙な感覚が走った。
羞恥。屈辱。嘲笑。痛み。
なぜかそれらが、熱に変わって体を巡っていく。
痛いのに、苦しいのに、どこかで――悦びを感じてしまっている。
「な、なんだ、これは……?」
監獄長が眉をしかめる。
それもそうだ。普通なら呻き、泣き、謝罪し、あるいは発狂するはずなのに――
俺は……笑っていた。
いや、笑いが溢れ出てしまったのだ。
「くくっ……あっは、ああ……やば……これ……まじで……!」
「……!?」
監獄長の眉がぴくりと動き、次の瞬間、口元に浮かびかけた愉悦の色を押し殺すようにして顔を背けた。
そして、平静を装いながらも声の端が震える――期待と興奮を滲ませながら、低く命じる。
「……こいつを、特別房に入れろ」
その声音には、まるで宝を見つけた収集家のような――獲物を得た捕食者のような、底知れぬ歓喜があった。
数日後。
時間の感覚はとうに壊れていたが、それでも幾度かの朝と夜を、俺は確かに越えた。
喉の渇きと空腹で意識は朦朧とし、拷問と称する“儀式”のたびに身体は壊れ、また奇跡のように繋がれた。
そんなある日――
「……こいつ、また生きてやがる」
鋼の扉が軋む音とともに、血にまみれた肉塊――いや、まだ息のある“何か”が床に転がされた。
看守は鼻を鳴らし、吐き捨てるように呟く。
「まったく……あの監獄長の趣味には付き合いきれねぇ」
そう言いながらも、慣れた手つきで血溜まりを避けると、俺のかすかに動く胸を見下ろした。
「……どんだけやりゃ気が済むんだ、あの変態」
雑居房の隅にいた男が、じっと俺を見つめていた。
褐色の肌に焼け爛れた痕が残るその顔は、片目を伏せるように影に沈み、言葉よりも先に手元のボロ布を固く握っていた。
「……ゾンビか、お前」
乾いた声。
焼けた顔の片側に、かすかに笑みのようなものが浮かんでいた。
「何見てんだよ……変態か、お前。……っていうかマジで変態か? 昨日、鞭で笑ってたろ?」
「ご褒美……みたいな……いや、ちがっ……ああ、でもちょっとは……」
「アウトだな。色々と」
思考よりも言葉が先に口を突いて出る俺に、男はひとつ、重く息を吐いた。
「ま、変態でも……ここじゃ数少ない“喋る人間”ってだけで、悪くねぇ」
彼はゆっくりと立ち上がり、火傷の残る片頬に指を当てて、俺に向かって名乗った。
「ナームだ。……戦争捕虜さ」 俺は、思考より先に口が動くのを止められない。
そんな俺を、ナームはなぜか見捨てなかった。
“祝福の間”と呼ばれる拷問部屋では、聖職者たちが“浄化”と称して様々な苦痛を与えてきた。
熱鉄、杭打ち、聖水責め。
それでも俺は――壊れなかった。むしろ、強くなっていた。
痛みに耐え、肉体は硬化し、精神は冷めてゆく。
俺は、明らかに“変異”していた。
気づいたのはナームだった。
「なあ、お前、昨日右手折れてたよな?」
「うん、でも朝には動いたよ」
「……飲まされたの、水だけだよな?」
「鉄の味のするやつ、うん」
「……お前、バケモンだな」
その言葉に、俺は初めて“肯定された”気がした。
一方、変化に気づけなかった者もいた。
監獄長。ゼル=セリスから派遣された異端審問官でもある。
彼は、俺を見るたび恍惚とした顔をしていた。
「この咎人……この魂の輝き……ッ! 美しい、実に美しい……!」
それも当然だった。
俺の特性、《執着》は、敵意・支配欲・淫靡な欲望をすべて“俺一人に集中させる”。
彼にとって俺は、神が与えた玩具。ほかの囚人など、視界にも入っていなかった。
だから――俺が進化していることにも、まったく気づけなかったのだ。
その夜、異変が起こった。
“祝福”から戻った俺の腕から、血に混じった赤黒い靄がふわりと立ち上った。
床に血が落ちた瞬間、石畳が一瞬だけ光った。
――「……あ、鍵が、溶けた?」
足枷が、錠が、鉄格子のロックが、“熱で溶かされたように”外れていく。
俺の特性は、《執着》だけではなかった。
《侵蝕》
――身体に触れた金属を腐食・熱変質させる能力。発動条件は、「自分の血が触れること」。
「……ナーム。俺、たぶん、これ全部壊せる」
「……マジで? 拷問で覚醒とか、お前どんだけ変態なんだよ……! 最高だ、やってみせろ!」
夜。四刻目(午前二時)。看守交代の間隙。
俺は“囁くような”悲鳴をあげた。
「ひぃん……っ♡」
その刹那、魔力がほとばしり、雑居房の鉄格子が音を立てて崩れた。
看守たちが駆け込んできた瞬間、ナームが鉄皿を盾に一人を殴り倒す。
俺は地面に垂らした自分の血で、錠前を次々と破壊していった。
「よし、変態! この調子で全部いけ!」
「まっかせて! なんかもうゾクゾクしてきた!」
解放された囚人たちが目を覚まし、口々に叫び始める。
「脱獄だ!」「暴動だ!」「神は死んだ!」
数百の囚人が、鉄の檻の中から次々と這い出す。
監獄中に非常鐘が鳴り響き、看守たちが武器を手に駆けてきた。
階段、通路、廊下、礼拝室――
俺とナームは、次々と鍵を壊し、門を開け、囚人たちを解き放っていった。
看守との戦闘は激しかった。
ナームは隠していた本領を発揮し、徒手空拳で兵士の顎を砕き、棍棒を奪って逆襲した。
「戦士の血ってのはよ、皮膚じゃなくて骨に刻むもんだ」
一方の俺は、血で鎖を溶かし、剣を熱して折り、扉を煙に変えていった。
「変態の血も、役に立つんだぞ!」
火の手が上がり、狂気の雄叫びが天井を突き抜ける。
神の名が叫ばれ、呪詛が響き、拷問器具が破壊される。
そしてついに――
監獄中枢部、五重門の全てが崩れ落ちた。
門が落ちた瞬間、冷たい夜風が吹き抜け、自由の匂いが鼻をかすめた。
丘の上。
夜明け前の空の下、二人の男が息を切らして立っていた。
背後には、燃える監獄砦。
囚人たちが旗を掲げ、看守を縛り上げ、砦の塔に火を放っている。
「……マジで、やっちまったな」
ナームが吐き捨てる。
「やばいなこれ。たぶん俺、また拷問されたい」
「絶対連れ戻されるぞ、それ」
「でも、ナームがいてくれたら……」
「うっせえ変態。……行くぞ。こっからが本当の地獄だ」
二人は砦を背に、夜明けへと歩き出した。
燃え盛る監獄。裂ける鐘の音。
その丘の上で、確かに世界は、少しだけ狂った音を立てていた。