Chapter59【クトゥルフ】
乾いた風が戦場を撫で、静寂の帳が落ちる中――
突如として、それは現れた。白馬にまたがった一人の男が地上に降り立つ。
空が割れるかのように眩い光が差し込み、神々しさすら感じさせる威容がゆっくりと降臨する。彼の身にまとわれた衣は、黄金の刺繍と荘厳な装飾に彩られ、風にひるがえるたびに煌めきを放った。背後にはまるで聖なる後光のような光輪が浮かび、地上のすべてを見下ろすかのごとき威圧を放っていた。
皇帝エルシャダイ――この世界における神とも悪夢とも呼ばれる存在が、ついに姿を現したのだ。
彼は無言のまま天を仰ぎ、右手を高々と掲げた。その指先には、無限の叡智と破壊を内包した“何か”が宿っているかのようだった。
「インスピラティオネ――――」
低く、しかし空間すら震わせる声が発されたその瞬間。
――ドガアアアアアアアアアアン!!!!!!
凄まじい爆風が地を裂き、空気が悲鳴を上げた。帝国兵も、味方の兵も、区別なくその衝撃に飲み込まれ、爆心地を中心にすべてが吹き飛ばされた。金属の装備が音を立てて空中を舞い、砂煙が視界を覆い尽くす。
地面に叩きつけられた魔王ハル子は、荒れた息を吐きながら身を起こした。
「……ぐっ……!」
全身を襲う痛みと、耳をつんざく耳鳴り。それでも、彼女はその場に倒れ伏すことを拒んだ。
「だ……大丈夫か……」
傍らで傷だらけの体を起こしたベルゼブルが、弱々しく声をかけてきた。
「ああ……何とか……」
ハル子は眩む視界を手で覆いながら、周囲を見渡す。爆風の余波に巻き込まれながらも、徐々に立ち上がる兵士たちの姿が目に入る。
(皆……生きている……)
胸をなでおろすように、ハル子は小さく呟いた。
だがその安堵も束の間、ベルゼブルが慌てたように叫ぶ。
「おい……エルシャダイが逃げてるぞ!!」
振り返ると、あの神帝がその豪奢なマントをなびかせながら、光の筋を描いて空へと飛び去ろうとしていた。
「よし、追うんだ!!」
ハル子は叫ぶが、すぐに状況を悟った。兵たちはまだ膝をつき、アーサー王に至っては剣を杖代わりにしてようやく立ち上がる状態だ。今、まともに動けるのは――ベルゼブルただ一人。
ハル子は迷いなく詠唱する。
「――飛翔」
その声とともに、彼女の背中から漆黒の翼が広がった。空に浮かぶ双翼は、まるで堕天の天使のごとき美しさと威圧を放ち、彼女の身体をふわりと宙へと持ち上げた。
西の戦地にて、その姿を見上げていたアルバスは、素早くガーラをコクピットに乗せて地を蹴る。背中のジェットパックが地面を裂き、砂煙を巻き上げながら魔王ハル子の影を追った。
地上では、ベルゼブルが砂塵を割って疾走する。彼の瞳には、ただ一人、南へ逃げている皇帝エルシャダイの姿だけが映っていた。
それに続くように、静かにラ・ムウが空を仰ぎ、老齢の声で詠唱を口にする。
「――飛翔」
その体がふわりと浮かび、魔王ハル子を追った。
そして――
遥か上空には、黒き影がひとつ。
空を裂く漆黒の竜、バハムートに乗ったリヴァイア。
彼女は魔王の気配を察し、天を舞いその影を追っていた。
雲の隙間から射す月光の下、追撃戦の幕が、静かに、だが確かに切って落とされた。
そして――
全力で南に向け逃走していた皇帝エルシャダイは、不意にその足を止めた。
彼の黄金のマントが風に舞い、空に浮かぶその後ろ姿を不穏に照らすのは、沈みゆく血のように赤い夕日。その視線の先に広がる地平には、無数の旗が風に翻っていた。
それは、トスカーナ大公国の紋章――獅子の旗。
その軍勢は、まるで逃げ道を完全に封鎖するかのように、地を覆い尽くしていた。大地は震え、鉄の靴音が地響きを伴い、槍の穂先は整然と天を突いている。
静寂の中、その陣の前列から一人の人物が進み出た。
太公望――長く伸びた黒髪を靡かせ、知略と威厳を備えた軍師は、揺るぎない視線で皇帝エルシャダイを見据える。
「さて……逃がしはしませんよ、皇帝エルシャダイよ。」
その声は穏やかでありながら、氷の刃のように鋭く、空気を切り裂いた。
その横から、轟音とともにもう一人が姿を現す。風に鬣をなびかせる黒馬にまたがり、紅蓮のような焔をまとう槍を携えた戦士――
将軍ナージャであった。
「貴様の命、ここで貰い受ける!!」
獣のごとき咆哮と共に、彼は火尖槍を掲げ、馬の鼻先をわずかに前へ向けた。まるで炎の神が具現化したかのように、その姿は敵を震え上がらせる威圧感を放っていた。
その瞬間、背後から空を裂く音とともに影が現れる。
魔王ハル子、ベルゼブル、ラ・ムウ、ガーラを乗せたアルバス、そして空を舞うリヴァイアがついに追いついたのだ。
「お……お前たちは……!」
戦場に広がる光景に驚愕しながら、ハル子は目を見開いた。
その時、最前列から整然と進み出た一人の男が声をあげた。
総司令官シン・グンバオ。精悍な顔つきに漆黒の軍服を纏い、重厚な存在感を背負って、ハル子に向かって静かに言葉を紡いだ。
「我が軍三万…全兵力を率いて援軍として、はせ参じました。」
彼の背後には、整列するトスカーナ大公国の精鋭たち。その旗は夕日に映え、揺るぎない忠誠を示すかのように風をはらんでいた。
「援軍……誠に…感謝する!」
ハル子は目を伏せ、深く一礼した。爆風に傷つき、満身創痍の中でも、誇り高くその礼を尽くす姿には、確かな威厳があった。
やがて彼女は、再び顔を上げる。その瞳には、揺るがぬ意志と怒り、そして覚悟が宿っていた。
「さあ――覚悟せよ!!」
魔王ハル子の声が響いた瞬間、空気が張り詰め、まるで時間が止まったかのような静寂が戦場を包んだ。
そして次の瞬間、闘いの運命の歯車が、静かに、そして確かに回り始めた――。
「ふふふ……これこそ、私が――望んでいた舞台だ……」
そう呟いたエルシャダイの唇に、妖しげな笑みが浮かんだ。次の瞬間、その身体が突如、まばゆい光に包まれた。
閃光――いや、それは光と呼ぶにはあまりに禍々しい、神聖さと邪悪さが同居する、異次元の輝きだった。
「目を伏せろッ!」
ベルゼブルの叫びとともに、全員が反射的に目を覆った。
地鳴りのような脈動、空間の軋み――
やがて光が収まった時、そこに立っていたのはもはや人の形をしていなかった。
「なっ……あれは……!」
誰かが絶句する。
それは十数メートルもの巨体を誇る、異形の存在。
顔は巨大な蛸を思わせる。いや、蛸ですらこんなにおぞましくはない。
瞳がぬらぬらと紅く瞬き、あたりをぎろりと睥睨している。
瞼の奥には、底知れぬ狂気と知性が渦巻いていた。
顔面からは無数の触手が伸びていた。その数、十三本。どれもが異様に長く、先端からは透明な粘液が滴っている。
体全体はぬめるような深緑色に染まり、表面にはまるで宇宙の星々が蠢いているかのような斑点模様が広がっていた。
その姿を前にした兵たちは、言葉すら忘れて立ちすくんだ。まるで自らの魂が、底知れぬ奈落へと引きずり込まれるかのようだった。
その異形の口から、濁流のような声が放たれる。
「フハハハハハ――!!
我が名は深淵のクトゥルフ……この宇宙を統べし、混沌の支配者なり!!」
その声は空間を揺るがせ、周囲の空気すら震わせた。
鼓膜を突き破るような振動とともに、魔王ハル子と四天王たちの身体に衝撃が走る。
圧倒的な存在感。
それはまさに、理を超越した“神”――否、災厄そのもの。
「とうとう……本性を現したな、エルシャダイ……いや、クトゥルフよ!!」
魔王ハル子は睨みつけながら言い放った。
その背には、黒き魔王の翼が広がり、聖なる存在に抗う闇の象徴として戦場に君臨する。
だがその瞳の奥には、ほんの一瞬――焦りと恐怖の色が宿っていた。
目の前に立ちはだかるのは、もはや皇帝ではない。
この世界だけでなく、宇宙そのものを飲み込まんとする邪神なのだ。
そして、ここからが本当の戦いだった。
「ほほう……我が名を知っているとはな……」
低く響くような声が空間を震わせた。
クトゥルフ――その異形の巨躯が、ぬらりと揺れながら、眼下の者たちを見下ろしている。
「まさか……あのハストゥールが残した虫けらどもが、貴様らに我が存在を告げたのか……?」
その口調には余裕があった。だが確かに、その奥底には微かに「警戒」が滲んでいた。
対するは機械の身体を持つ純白の装甲機体――アルバス。彼は鋼の装甲を軋ませながら、堂々と前に出た。
「我は……貴様の息の根を止めるためにここへ来た。
終わらせるためにな……この、長き悪夢を……!」
その声は機械音を帯びていたが、言葉のひとつひとつに魂の憤怒がこもっていた。
そしてアルバスが叫ぶ。
「あの十三の触手……!それぞれにクトゥルフの魂が宿っております!
奴を倒すには、すべての触手を切り落とさねばなりません!!」
その瞬間、戦場に緊張の空気が走る。
「十三の魂……フッ、想像以上の化け物よ……」
そう呟いたのは、魔王四天王の一角――飛竜のリヴァイア。
彼女の瞳が蒼く燃え上がる。
「――バハムート零式!」
その名を唱えた瞬間、彼女の身体は純白の輝きに包まれ、伝説の竜騎士の姿へと変貌を遂げる。
翼が生え、鎧はきらめき、そこには純白の竜神の姿があった。
「さあ……行くぞ!!」
白き竜神となったリヴァイアの咆哮とともに、魔王ハル子が『莫邪』を構え、空を蹴った。
そして、四天王ベルゼブル、大魔導士ラ・ムウ、――魔王軍の精鋭たちも続く。
一斉に襲いかかる魔王軍。空を切り裂く戦士たちの咆哮とともに、戦いが始まった。
バシュッ! ガキィンッ! ズシャアッ!!
白銀の竜剣が閃き、リヴァイアがそのうちの一本を真っ向から切断した。
肉が裂け、緑色の粘液が空中に弾け飛ぶ。
「ぐぉぉぉぉっ……!」
クトゥルフの口から、怒声とも悲鳴ともつかぬ異音が響いた。
その巨体がのたうち、怒りに震えた触手が反撃の如くリヴァイアへ襲い掛かる。
「リヴァイア、危ないッ!!」
と叫んだのはベルゼブル。
瞬間、彼の剣が蒼き閃光をまとい――
「ウルティマ!!」
それは、必中かつ即死級のカウンター剣技。
ベルゼブルが跳び上がり、猛然と切り払った剣閃が、触手の一本を根本から断ち切った。
「グギャァァァッ……!!」
再びクトゥルフの悲鳴が天を突き刺す。
世界そのものが震えている――。
これは神々の戦争ではない。世界の存続をかけた、宇宙的災厄との戦いなのだ。
「あと十一本……絶対に、逃がすな!!」
アルバスが叫ぶ。
そして魔王ハル子が、己の剣を強く握りしめた。
「これで終わらせる……お前という災厄を、この世界から消し去る……!!」
次の瞬間、彼女の黒翼が大きく広がり、魔王の咆哮が夕空に響き渡った――。
戦場の側面――そこから一騎、紅蓮の炎を纏った将軍が突撃してきた。
「うおおおおおおっ!!」
トスカーナ大公国の将軍ナージャ。その手に握られたのは、業火の槍・火尖槍。槍身から噴き出す炎が空間を灼き、轟音とともに突き刺さる――!
グシャアッ!!
「がっ……!!」
一本の触手が焼き斬られ、ねじ切られるように地面へと落ちた。火に包まれたそれは、地面に触れると爆ぜるように燃え尽きていく。
「グギィィィイィィィ……!!」
クトゥルフの絶叫が辺りに木霊した。
まるで世界そのものが悲鳴をあげているようだった。
そして後方では――ひときわ異彩を放つ漆黒のローブの男が、天を仰ぎながら静かに呪文を紡いでいた。
大魔導士ラ・ムウ。
その唇から吐き出されたのは、どこか既視感のある、長大にして荘厳な詠唱。
「――黒より黒く、闇よりも暗き漆黒に、我が深紅の混淆を望みたもう……
覚醒のとき来たれり。無謬の境界に落ちし理。無行の歪みとなりて現出せよ……
我が力の奔流に望むは、崩壊なり。並ぶ者なき崩壊なり……
万象等しく灰塵に帰し……深淵より来たれ!
これこそが――究極の攻撃魔法……!」
ラ・ムウの全身が青白い魔力に包まれ、上空へと手をかざした。
「エクスプロシオン!!!!!」
その瞬間、空が引き裂かれた。
(……ん? その詠唱……なんか聞いたことあるぞ……?)
と魔王ハル子が一瞬ツッコミを入れかけた刹那――
ドガアアアアアアアアアアアンンン!!!
天と地を貫くような蒼白い爆雷が轟きとともに降り注ぎ、クトゥルフの巨体を直撃した。
一拍の静寂――そして、
轟く爆煙の中に、切断された触手が二本、焼け焦げて落ちていた。
「グギャアアアアアアアアッ!!」
今までにない、怒りと苦痛の咆哮をあげるクトゥルフ。
その肉体から黒い瘴気が噴き出し、地面を腐食させていく。
だが、魔王軍は怯まない。
「あと八本……!まだ、終わりじゃない!!」
ハル子が叫ぶ。
煙の中から、再び彼女たちは立ち上がり、決戦の最終局面へと歩み出す――。
「今だ!!叩き込め!!!!」
魔王ハル子の怒声が戦場を貫いた。
彼女の身体が紅蓮のオーラに包まれていく――
「オメガアタック!!!!」
全魔力を一点に集中し、魔王ハル子が斬撃を放つ!
その一閃は、空間ごと裂くような凄絶な輝きを放っていた。
続けて――
「これが竜騎士の本気だ!!」
純白の竜神リヴァイアが天翔ける一撃を、
「秘儀――妖艶乱舞!!」
ベルゼブルが黒雷の剣を振り抜く!
グジャッ! バシャッ! ズチャアッ!!!
無数の触手が次々に切り裂かれ、血のような緑の液体を撒き散らしながら地に落ちていく。
もはや、クトゥルフの悲鳴すら世界を揺るがす音となり、空が軋む――!
「……下がって」
その時、冷静な声が響いた。
魔王軍の面々が一瞬で距離を取り、戦場に静寂が走る。
そこに立っていたのは、白銀の機体――アルバス。
その右腕に構えられているのは、光そのものを編んで形成された巨大な弓。
矢もまた、実体を持たぬはずの神威の粒子から生まれたもの。
まばゆい輝きが空気を震わせ、周囲の音すら遠のいていく。
「限界最大出力……」
機械的で無機質な声が、アルバスの内部から響く。
だがその響きには、確かに感情――
いや、意思が宿っていた。怒りか、悲しみか、あるいはそれを超えた何か。
「――ブラフマ・シラーストラ!!!!!!」
その名が叫ばれた瞬間、世界が静止した。
風が止み、空が沈黙し、時間そのものが脈動をやめたかのようだった。
矢が放たれる。放たれたそれは、もはや「飛ぶ」などという言葉では足りなかった。空間を裂き、次元をねじ曲げ、存在そのものを貫く光の奔流。
凍てつくような閃光が、戦場を包み込んだ。
「ぐ……これはまずい……ッ!!」
クトゥルフが、残されたすべての触手を前面に展開し、必死に防御を試みた。だが――
ドガアアアアアアアアアアアアアン!!!!!!
世界が爆ぜた。
怒涛の衝撃波が地を揺るがし、光の柱が天に届く――!
――数秒後、静寂が戻る。
焦げついた地面に、4本もの触手が、黒煙を上げながら横たわっていた。
「グギャアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
地獄の底から響くような雄叫びが、空を震わせた。
13本あった触手は、ついに――残り1本。
大地を這いずるようにのたうつその最後の一本を背に、
クトゥルフの巨体がよろめき始めていた――。
「ぐぐぐ……これほど……までとは……」
クトゥルフの声が、まるで崩れ落ちる山の呻きのように響いた。
異形の巨体がぐらつき、最後の一本の触手が虚空を泳いでいる。
その瞬間――
ドォォォォォォン!!!!
大地が揺れ、空が震えた。
次の瞬間、六つの旗印が、風を裂くようになびいた――!
魔王ハル子の背後に、圧倒的な数の軍勢が到着したのだ。
──魔王軍。
──ユグドラシル獣王国軍。
──ログエル王国軍。
──蟲王軍。
──レオグランス王国軍。
──ニタヴェリル共和国軍
その数は、百万を超えた――。
見渡す限りの地平に、味方の軍が黒い波のように連なっていた。
大地が震え、天が唸る。
「なんという……この、圧……!」
クトゥルフの無数の瞳が震えた。
すでにかつての威容はない。神にも等しき異形は、今や追い詰められた獣だ。
そして、全軍が一つになったその中心に――魔王ハル子がいた。
紅蓮の瞳で怪物を射抜き、剣を高らかに掲げる。
その背後には、魔王四天王が整列し、次なる号令を待っている。
ハル子がゆっくりと前へ一歩を踏み出した。
その足音が、世界を断罪する合図となる。
「――さあ、最後の時だ……」
その言葉は雷鳴のように轟き、
全軍が一斉に剣を掲げ、咆哮した。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
クトゥルフの最後を皆…確信していた――。
「……ふ……」
「ふはははははは……!」
「ふわはははははははははは!!」
狂気と嘲笑に満ちた声が大地を震わせるように響いた。
クトゥルフが笑っていた――あの異形の宇宙生物が。
「これだから……下等生物と相対するのは面白いのだ……!」
その瞳が爛々と輝き、全軍を見下ろすと――
「スペルノーヴァア!!!!!!」
空間そのものが捻じ曲がるように震え、
次の瞬間――光の奔流と爆風が世界を呑み込んだ。
ドゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン!!!!!!
全軍が、一瞬で爆風と光の中に消えた。
──沈黙。
そして……濃密な煙が少しずつ晴れ始めたその中に、立っていたのは――
鎧が砕け、マントは消し飛び、
全身傷だらけになりながらも、なお剣を握りしめる魔王ハル子だった。
「ぐ……またか……」
荒い息の合間に、震える声で呟く。
腰に巻きつけた巾着袋もボロボロだが、そこにはまだ――希望がある。
「ぐあ……っ……」
「くっ……ぐぅ……」
ベルゼブルとリヴァイアも、片膝をつきながら、呻き声を漏らす。
空中戦艦ゲヘナも衝撃で地面に墜落していた…
そして兵士たちも地に伏し、重症を負いながらも‥‥
誰一人として死んではいなかった。
オリハルコンの鎧が、かろうじてその命を守ったのだ。
それは奇跡だった。
剣を杖のように突き立て、ハル子はよろけながら立っているのがやっとであった。
ふらつく足取り、焼け焦げた鎧、血に濡れた唇。
それでも――彼女は前を向いていた。
「……まだ……まだだ……!」
その声は弱々しく、今にも消えそうだった。
だがその瞳には、炎が灯っていた。
(でも……みんな、生きてる……。
生きてさえいてくれれば……伯爵の料理で、必ず立ち上がれる……!)
ハル子は心の中で、アレッサンドロ伯爵の癒しの料理を思い浮かべる。
あの料理があれば、皆は再び立てる――
絶望の淵に、確かな希望が差し込んでいた。
「さあて……これからが『絶望ディナーショー』の始まりだ……」
クトゥルフの声が低く、地の底から響くように広がった。
魔王ハル子は、崩れかけた膝を踏みしめながら、言葉を絞り出す。
「……絶望?……まだ、私はやれる……!」
だが、その声は自分でもわかるほどにかすれていた。
仲間たちも倒れ伏し、軍も壊滅寸前――それでも、ハル子は立ち向かおうとしていた。
そのときだった。
「ふふふ……」
と、不気味な笑い声が空気を歪ませた。
クトゥルフは、あえてゆっくりと、
確実に、
こう言い放った。
「――メメントモリ。」
‥‥
「え……今、なんて……?」
ハル子は言葉を失った。
その呪文名‥‥かつて自分が、口にした事のある――『死』の魔法。
「ふははははははっ!喜ぶがよい!!
我が寿命を半分削り、この魔法を放つことにした……!
これは特別だぞ、貴様ら全滅のための贈り物だ!ありがたく受け取るがいい!!」
――その瞬間、空が叫びを上げた。
陽光が閉ざされ、空が墨のように黒く染まる。
風がうねり、雷が天地を裂き、荒れ狂う暴風が戦場を襲った。
倒れた兵たちも、その異様な気配に震え上がる。
そして――空間が裂けた。
空の彼方に、禍々しい“扉”が出現する。
鉄と漆で装飾されたその扉は、まるで冥界への門。
「ギィ……ギィ……」
不吉な軋み音を立てて、それがゆっくりと開かれた。
扉の奥から姿を現したのは――
黒衣をまとい、漆黒の大鎌を手にした存在。
顔はなく、そこには虚無の仮面だけがあった。
それは――死神。
一体、また一体。
次々と空から舞い降りる、“死そのもの”の群れ。
一つ、二つ――いや、そんな数ではない。
数千、数万、いや、百万を超える死神たちが、戦場を覆い尽くす。
大地は絶望に沈み、希望はかき消された…
「これは……私の魔法……」
かすれた声で、魔王ハル子は呟いた。目の前に広がる光景を信じられないというように、彼女の瞳がわずかに揺れる。指先から漏れ出す力は、確かに彼女だけしか使えないはずのものだった。しかし、その死の魔法が今、別の存在によって行使されていた。
「ふふふ……これは1000年前……我が軍に向かって放たれたかつての『貴様』が放った魔法だ。私はな、一度食らった魔法は自身に刻まれ、それを使う事が出来るのだよ」
低く嗤いながら、深淵のクトゥルフは言い放った。どこまでも深く、底知れぬ瞳が空間を歪ませる。彼の背後には、星々が砕ける幻影が渦巻いていた。
(くッ…メメントモリ…一回目はお前に放たれていたのか…)
とハル子はアンドラスの言葉を思い起こした。
(そしてその結末も私はしっている…)
異形の死神たちが、地上にふわりと降り立ち、次々に兵士の魂を狩っていく…
骸骨のような体に黒く染まったマントを纏い、目を持たぬ顔からは、死そのものが滲み出ていた。
「……ああ……刈られる……命が、刈られていく……」
魔王連合軍の前線に立っていた一人の兵が、呻くように呟いたその瞬間---
兵士たちは声を上げる間もなく、大地に膝をつき、やがて動かなくなった。
剣を掲げる間もなく、魔法を放つ暇すらなく――
ただ静かに、音もなく、百万の命がただ…
“死んでいった”。
地に倒れた兵のひとりが、手を伸ばす。
だが、その先には何もない。ただ冷たい風が吹き抜けていくだけだった。
「あああ……やめてくれ……やめて……」
ハル子の叫びは、風にかき消された。祈るような声、絶望に濡れた懇願だった。
その時だった。
彼女の眼前に、『死神』が音もなく現れた。
虚無の瞳。巨大な大鎌を手に持ち、ゆっくりと振り上げる。そして――
――ゴウン。
その魂を刈り取る一撃が振り下ろされた刹那、甲高い音が響いた。
パリンッ。
割れたのは、ハル子の右手に装着された腕輪だった。
それは、かつてレオグランス王国の守護騎士ガブリエルから贈られた、神代の魔道具
――《ケリュケイオンの腕輪》。
『一撃の死』を免れることができる、この世界でただひとつの魔道具。
今、それが彼女の命を守るために砕け散ったのだった。
破片となって落ちた腕輪の光が、地面に転がる。
ハル子はその光を見つめながら、小さく呟いた。
「……ガブリエル……まさか…この…腕輪が身代わりに!?…」
そして…役目を終えたかのように、目の前にいた”死神”が音もなく舞い上がり、まるで重力から解き放たれたように空へと浮かんでいく。次々と舞い上がる百万を超える死神たち…漆黒のマントが夜のようにたなびき、彼らはゆっくりと、空の裂け目――鉄でできた巨大な扉へと向かって空いた空間の向こう側へと帰って行った。
最後の一体がその門をくぐると、耳を裂くような金属音が響いた。
「ぎぃ……ぃい……がしゃん」
鈍く、重く、冷たい――
まるで地獄の蓋が閉じるような音が、戦場の隅々にまで木霊した。
すべてが終わった。
風が止まり、時間も凍ったかのようだった。
ハル子の足元に広がるのは――無数の屍。その数は優に百万を超えている
魔王連合軍、誇り高き兵士たちの死体が、荒野に折り重なっていた。
四天王ベルゼブルも…飛竜のリヴァイアも…死ぬことのない不死の大魔導士ラ・ムウでさえも…
皆‥‥ここに集うすべての魂を刈り取られ…死んだ‥‥
血の匂いはもうしなかった。あまりにも一瞬で命が消えたせいか、そこにあるのはただ、沈黙と絶望の重さだけだった。
(え……私……だけが……生き残った……)
声にはならない。思考が、現実を理解することを拒んでいた。
ハル子の唇が戦慄く。
生き残ったことが、ただひたすらに恐ろしかった。
(これは……この腕輪は……残酷だ……)
胸元に手をあてる。砕けたケリュケイオンの破片が、まだ服の内側で微かに熱を帯びていた。
それが、命の代償だというように。
ハル子は唇を噛みしめ、涙を堪えた。泣いてはいけない。ここで崩れてはならない。
そう思っても、胸の奥が悲鳴をあげていた。
生き残ったという事実が、何よりも重く、痛かった。
「ほう……おまえだけが残されたな……」
その声は、地の底から這い上がるようだった。
この地にはクトゥルフと魔王ハル子…もうこの二人しか立っていない…
クトゥルフが、一歩、また一歩と近づいてくる。
瞳に浮かぶのは、奇妙な興味――そして少しばかりの警戒。
「……なるほど。何かしらの魔道具を使ったか……」
クトゥルフはハル子を見下ろしながら呟く。だがその声に、怒りや憐れみはなかった。ただの観察者として、冷ややかにその存在を見つめていた。
ハル子は立ち尽くしていた。腕輪のかけらを胸に抱きながら、
ただ、この“命”の意味を問いかけていた――。
風が止まっていた。
焼け焦げた大地には、もう音も光もなく、死だけが静かに横たわっていた。
その沈黙の中に、クトゥルフの声が響いた。
「ふふふ…」
「伝わるぞ‥‥お前の絶望を‥‥」
「これほど美味がこの世にあったのかとおもうほどだ……」
「よいぞ!!!貴様が我らにした事をやり返したまでだ。さあもっと我を恨み、嘆き、悲しめ!その感情が我の肥やしとなるのだからな!」
その言葉は、黒い霧のようにハル子の心を包み込んだ。
するとクトゥルフの斬られた触手が淡い緑のオーラが立ち上り、少しづつ再生していくのが見えた。
(だめ…絶望や悲しみに呑み込まれないで)
ハル子は自分に言い聞かせていたが、涙があふれて止まらない…
彼はゆっくりと歩み寄りながら続ける。
「まあ、”愚かな者ら”が死んだところで、私には何の感慨もないがな……」
その無感情な言葉が、心の奥底にある怒りに火をつけた。
ハル子は唇を噛み、震える手を握りしめた。ぐっと拳を握り、声を振り絞る。
「愚かではない!!」
その叫びは、戦場の空にこだました。死の静寂を貫く、ただひとつの“生”の音。
クトゥルフは一瞬だけ足を止めると、瞼を細め、静かに言った。
「特に人族…そう…お前たちの言葉で言えば……“地球人”だったか。私は憎悪や悪意を糧に、知的生命体を求めて宇宙を渡り歩いてきた。数多の星々の知能が高い種族に出会ったが……その中でも”地球人”は最も愚かだった。」
「そんなことはない!」
ハル子は即座に言い返した。
「人は――!」
しかしクトゥルフはその声をかき消すように言い放つ。
「人は生まれ持って“悪”なのだよ。争い、奪い、嫉妬し、殺し合う。お前もそれを見てきただろう? 目を逸らすな、魔王よ。」
戦場の光景が、ハル子の脳裏にフラッシュバックする。帝国兵が…嘆き、泣き叫ぶ者たち。その顔が、手が、言葉が、今も焼き付いている。
それでも――ハル子は目をそらさずに言った。
「人は……生まれ持って“善”だ!」
声が震えていた。だが、その奥には強い信念があった。
クトゥルフは鼻で笑う。
「人は憎しみ合い、裏切り、破壊する。それこそが”本質”だ。お前もそれを否定できまい。」
ハル子は視線を落とし、拳を胸に当てる。
そこには、かつてケリュケイオンの腕輪があった場所。命を救った、そして、罪を抱えさせた場所。
「私は……私は……」
言葉が喉の奥で詰まる。
「すべての人は……人のために生きている。助け合い支え合いながら生きる…それが人の”本質”だ。私はそう信じてる。」
その声は、祈るように、けれど確かだった。
クトゥルフは冷たく笑う。
「人のため? くだらない幻想だ。人は結局、自分自身を一番に”愛”している。」
「それでも……私は……!」
ハル子は振り返り、散っていった兵士たちの死体の山を見つめた。
自らの力で殺した、かつての敵たち。憎んでいたはずの彼らでさえ――
「私の手で殺した帝国の人たちも……できることなら……救いたいと思ってる!」
クトゥルフの目が細くなる。
「その感情は……『偽善』だ。」
その言葉に、ハル子は静かに、しかし確かな怒りをもって、深く息を吸った。
風がまた、少しだけ吹いた。
そして――
「いや……」
とハル子は瞳を上げ、静かに、そして力強く言い放った。
「愛だ」
その言葉が放たれた瞬間、大地がわずかに震えた。
死の支配する戦場に、微かだが確かな“光”が差し込んだ気がした。
その時だった。
ハル子の腰に巻かれていた小さな巾着袋が、戦場の風にあおられて破けた。
中から転がり落ちたのは、ひとつの透明な結晶だった。
ゴトッ。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
静まり返った死の大地に、それはまるで鐘のように、意味深く鳴り響いた。
ハル子はその結晶――
最後の”クリスタル”を見下ろした。
(‥‥シド‥‥)
シドの言葉が脳裏に浮かび胸が張り裂けそうになった‥‥
そして…
最初は静かに。
「フハハハハ……」
次第にその声は大きく、深く、狂気すら孕み始める。
「ワッハッハッハッハ……!!」
それはこの滅びの地にふさわしい、あまりにも邪悪な――
だがどこか解放されたような笑いだった。
クトゥルフは眉をひそめ、胡乱げに魔王を見つめる。
「どうした……気が狂ったか、魔王よ?」
だが、ハル子はその言葉にも応じず、ゆっくりと地に膝をつき、クリスタルを手に取った。
(ごめん‥‥シド‥‥クリスタル…使わせて頂きます!)
と心の中で呟いた。
そして―――――
「ふふふ……」
その笑みに、涙が混じっていた。
「私の勝ちだ!!……死ぬがよい、クトゥルフよ!!!」
彼女は高らかに叫んだ。天に掲げられたクリスタルが、光を放つ。
そして――
「ジ・エンド!!!」
ハル子の声が終わった瞬間、世界が、白く染まった。
空も、大地も、死体の山も、全ての色が一斉に洗い流されるように、純白の光に飲まれていった。
まばゆい光の中で、ハル子は微かに微笑みながら目を閉じた。
(……あぁ、これでいいんだ……)
(……あとは、みんなに‥‥‥…託したよ……)
彼女の身体が、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちる。
バタリ――。
それは、静かすぎる音だった。
命の終わりには不釣り合いなほど、静かな音。
その光景を目の当たりにしたクトゥルフが、狂ったように笑い出した。
「フハハハハハハハ!! 死におったわ!!! この愚か者めが!!!」
だが――彼は知らなかった。
ハル子が死の間際に見た、最後のコンソール画面の内容を。
その画面には、こう記されていた。
【ジ・エンド】
アルティメット魔法
使用クリスタル数:1
効果:
自分が「大切」だと想った『すべての命』を、蘇らせる。
対価:
『 自 身 の 死 』
白い光がゆっくりと収まりはじめた時――
あれほど無残に転がっていた兵士たちの身体が、ひとり、またひとりと光に包まれ、呼吸を取り戻しはじめた。
血にまみれていた頬に、赤みが差す。
止まっていた心臓が、また鼓動を刻む。
そう、ハル子は“すべて”を賭けたのだ。
自分ひとりの命で――
命を、愛を、信じたすべての存在を“取り戻す”という奇跡に。
彼女の魂が、光のなかで静かに微笑んでいた。