Chapter57【東の戦線】
東の空を裂くように、朝焼けの光が戦場を朱に染めていた。
草原の彼方には、黒き大地を覆うように展開する精鋭二十万の軍勢――ウリエルが率いる聖ルルイエ帝国の主力部隊。その戦列は、まるで一枚の巨大な鉄の壁のように、音もなくじわじわと前進してくる。地鳴りのような兵の足音が、空気に重く響いていた。
対するは、リヴァイア率いる飛竜軍五万。空を舞う飛竜たちは、蒼穹を裂いて矢のように舞い、炎と風をまといながら突撃を繰り返していた。だが――数は、敵の四分の一。飛竜軍の勇猛さも、圧倒的な物量の前に徐々に押し返されつつあった。
空を飛ぶリヴァイアの双眸には焦燥がにじんでいた。彼女の飛竜バハムートは既に幾度もの戦闘で傷つき、翼には黒く焼け焦げた跡が走っている。
その時だった。
「ふぉふぉふぉふぉ……苦戦しておるのう、レンよ」
風に乗って現れたのは、一人の老魔導士。長い銀髪を風になびかせ、蒼白のローブをまとったその男――大魔導士ラ・ムウである。彼の登場に、一瞬、空の風が止まったかのようだった。
リヴァイアは、うっすらと笑みを浮かべた。
「ええ……敵の数が多すぎて、少しでも削れればと思っていたところです」
「ならば――」
ラ・ムウはゆっくりと天に向けて、手にした古びた魔杖を掲げた。空気が震え、空そのものが裂けるような圧力が広がってゆく。
「いでよ……我が召喚魔法――《リヴァイア・サン》!」
その声と共に、空に裂け目が生じた。次元の狭間から轟々と海水があふれ出し、天から滝のように降り注いでいく。その海流の中から現れたのは、蒼き鱗を持つ巨大な竜――リヴァイアサン。
その体は山のごとく巨大で、眼光は氷のように鋭く、それでいて――優しさを秘めた眼をしていた‥‥
「……ああっ! お父さん!!」
リヴァイアが叫んだ。
その声に、空を泳ぐ竜がゆっくりと首を傾け、優しく微笑んだように見えた。
「おお、レンよ……元気そうで何よりじゃ」
低く、重厚な声が空に響く。その目には、厳しさと同時に、父としての慈愛が宿っていた。
その光景に、兵も飛竜も一瞬動きを止めた。神話のような再会が、戦場という現実に起こっていた。
だが――
「おいっ!この前会ったばかりじゃないか……さあ、目の前の敵を屠ることに集中せよ!」
ラ・ムウの声が空気を引き締める。彼の表情は厳しく、しかしどこか微笑んでいるようでもあった。
空の主と、その娘が並び立つとき――東の空が、再び燃え上がった。
リヴァイアサンが、静かに空から大魔導士ラ・ムウへと問いかけた。
「……うむ。で、あの技でいくか?」
その声は、深海の底から響くような重厚な響きを持ち、空そのものを震わせた。
ラ・ムウはにやりと口元を歪め、老練の声で応じた。
「そうじゃな……あれじゃ。いくぞ、サン!」
次の瞬間、リヴァイアサンの巨体が空をうねるように旋回し、口を大きく開いた。
「さあ――濁流を起こせ!《ヴァーテルスヌート》!!」
咆哮と共に、リヴァイアサンの顎から吹き出されたのは、怒涛の水流――いや、もはや海そのものだった。天から降り注ぐ海水の奔流が大地に降り注ぎ、前線に押し寄せていた帝国兵たちを丸ごと飲み込んでいく。
濁流は一瞬にして陣形を崩し、鎧をまとった兵たちは次々と宙を舞い、武器ごと海水の渦に飲み込まれていった。
叫び声がかき消され、ただ水の轟音だけが戦場を支配していた――
そして、その渦中に、ラ・ムウの声が再び響いた。
「さあ……我が雷撃の神髄――《エナジーブラスト》!!!」
杖を振り下ろしたその瞬間、空がにわかにかき曇り、まるで神の怒りが集まり始めたかのように、低く重く、大地を震わせる轟音が鳴り響いた。
ゴゴゴゴゴゴ……
空を仰ぎ見る帝国兵たちの顔に、恐怖の色が浮かぶ。
そして――
バリバリバリバリバリッッ!!!
怒りの雷が、無数の蛇となって空を裂き、海水に覆われた地表へと一斉に落ちた!
激しい閃光と衝撃。
雷撃は水を伝い、海水に浸かった兵たちの全身を電流が駆け抜けていく。
雷の柱が辺り一面に数百本も立ち上がり、まるで天からの審判が下ったかのような光景が広がった。空も大地も、白と青の閃光に照らされ、昼と夜が逆転したかのような明滅が続く。
やがて――
海水が徐々に引いていき、戦場に沈黙が戻る。
そこには、うつ伏せや仰向けになった数万の帝国兵たちの姿が横たわっていた。多くはすでに動かず、雷と水の合わせ技による凄絶な魔法の一撃で、完全に制圧されていた。
空を舞っていたリヴァイアはその光景に息を呑み、思わず叫んだ。
「すごい……お父さん……ラ・ムウ様……!」
まるで神話の一幕のような連系魔法。
戦場の空は、今なおゆっくりと雲を晴らしながら、静かにその結末を見下ろしていた――。
空が、再び震えた。
帝国軍の後方――その中心に立つ、一人の男が拳を天に突き上げていた。
黄金の鎧に身を包み、翼のような飾りのついた兜を被るその姿。怒気に満ちたその咆哮が、戦場全体に響き渡った。
「うぉおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
叫ぶは、四聖賢の一人――ウリエル。
その眼に宿るのは、狂気にも似た執念。そして口を開いた彼が、天地に響き渡るように詠唱を放つ。
「いでよ!我が破壊神……ガルーダ!!」
その瞬間、空気が震えた。
地が軋み、空間そのものが断末魔のような悲鳴を上げながら、引き裂かれていく。
空に、真横に走る裂け目――時空が避け、世界の理が歪んだ。
まばゆい閃光が全てを包み、風が逆流し、大気そのものが焼き尽くされていく。
そして、異界の深淵から、禍々しき影がその姿を現した。
巨大な爪、黒く染まった鱗、全身から吹き出す瘴気のような圧。
山をも穿つとされるその拳が地上にめり込めば、大地は容易く砕けるだろう。
眼は血のように深紅に染まり、口からは煮えたぎるマグマのような蒸気が噴き出していた。
――破壊神ガルーダ。
その姿に、誰もが言葉を失った。
空に浮かぶリヴァイアサンの顔に、険しい陰がさす。
「……またか。破壊神ガルーダ……」
彼女の声は低く重く、深い警戒がにじんでいた。
ラ・ムウが杖を握りしめ、目を細めて言う。
「あれは……以前、お主が叶わなかった相手‥‥」
リヴァイアサンはゆっくりとうなずいた。
「……うむ。あれは破壊神……我が力では及ばぬ……」
その言葉は、戦場の空に重く響いた。
勇猛無比なる飛竜の王ですら一歩引く存在――それが破壊神ガルーダだった。
黒雲が再び空を覆い始める。
大地は震え、風が唸りを上げる。
新たなる神々の戦いが、まさに幕を開けようとしていた――。
暗雲が渦を巻く空の下、重苦しい気配が戦場を覆っていた。
破壊神ガルーダの出現により、大地はうねり、空は引き裂かれ、帝国軍の兵士たちですら言葉を失っていた。
その時――
「お父さん!!!」
その瞳は決意に燃えていた。
「あれは私が倒します!!!!!」
戦場の風が止まり、空気が張りつめる。
リヴァイア・サンは驚きに目を見開き、すぐに言葉を発した。
「レンよ……お主では…無理じゃ……」
だが、その言葉の続きを言う間もなく、レンは空に向かって叫んだ。
「バハムート零式!!!!」
瞬間、天が裂けた。
彼女の全身を包むように、光の粒が舞い上がり、竜の咆哮にも似た音が轟く。
身体を一瞬にして包み込んだのは、真っ白な光鱗。
それはまるで神の造りし神聖な鎧のようだった。
鋭く輝く爪、巨大な翼、そして逆立つたてがみのような竜の顔――
レンの姿はもはや人のものではなかった。
白き竜のごとく生まれ変わったその姿――竜神の鎧《バハムート零式》。
光の中で舞い上がるその姿は、まさに伝説に語られる神竜の化身。
彼女の背には、聖なる力が宿った大翼が広がり、白銀の炎が身を焦がすようにゆらめいていた。
リヴァイアサンが見上げるその目には、驚きと――誇りが宿っていた。
「……おぬし……それほどの力を……」
ラ・ムウもまた、目を細めながら唸るように言った。
「これは……神域の魔力。いや、それ以上か……」
破壊神ガルーダが、咆哮を上げた。
その雄叫びは、空を裂き、雷雲を駆け巡る。
だが、今や竜神化したリヴァイア・レンもまた、それに応えるように――
翼を広げ、天を翔る。
「さあ……行きます!!!!」
白き竜神――リヴァイア・レンが叫び、空高く跳躍した。
その瞬間、時が止まったように感じた。
リヴァイアの動きはあまりにも速く――
周囲にいた兵士たちも、リヴァイアサンでさえも、
ラ・ムウでさえも、一瞬その姿を見失うほどだった。
「……消えた……!?」と誰かが呟く。
否、それは神速を超えた“神域の動き”――
次の瞬間、白い閃光が空を裂いた。
リヴァイア・レンが、破壊神ガルーダへと猛烈なスピードで切り込んでいた!
「ガギィィン!!!!!」
戦場全体に響き渡る金属音。
レンの剣と、ガルーダの鋭い爪がぶつかり合い、凄まじい火花が宙を舞った。
さすがは破壊神――
ガルーダも即座に反応し、重く鋭い一撃を跳ね返す。
その動きは決して鈍くはない。
その爪一本一本が、まるで鍛え抜かれた名刀のようにしなやかに、流麗に斬撃を繰り出してくる。
だが――レンの瞳は、揺らがない。
「――十束の舞・三連撃!!」
彼女の声が空に響いた瞬間――
レンの周囲に浮かぶ、幻影のような剣の軌跡が広がった。
一本、また一本……次々と現れる剣筋。
四方八方、空間そのものを裂くようにして繰り出された三十の斬撃が、同時にガルーダを包囲した。
ズバズバズバッ!!!
刃が風を切る音が連続し、ガルーダの黒い鱗を容赦なく切り裂いた。
羽が散り、血飛沫が風に乗って舞い散る。
そして――
「さあ、お行きなさい!!」
レンが叫ぶと共に、白き翼を大きく広げ、
天から降り注ぐようにガルーダの頭上へと剣を振り下ろす!
閃光のような一閃――
「ギィィィィィ……!」
絶叫を上げながら、ガルーダの巨体がぐらりと崩れた。
そしてその体が、まるで霧が晴れるように、ゆっくりと空気に溶けていく。
次元の裂け目と共に、破壊神ガルーダの気配は完全に消え去った。
戦場は、静まり返った。
誰もが、何が起きたのか理解できず、ただその場に立ち尽くす。
その中で、静かに呟く声があった。
「……すごい……まるで、本物の竜神だ……」
それは、かつて誰からも恐れられた海の提督、リヴァイア・サンの言葉だった。
その目に宿るのは、かつてないほどの――誇りと感嘆。
白き竜神は、静かに空を舞い、戦場の空を征した――。
「うおおおおお……そんな……こんな、あっけなく……!」
破壊神ガルーダを倒され、呆然としていた四聖賢ウリエルが、怒りに満ちた目でリヴァイアを睨みつけた。
その顔には信じられぬというより、受け入れたくない現実への狂気がにじんでいた。
「許さん……許さんぞぉぉぉおお!!!!!」
怒号と共にウリエルが跳びかかる。
閃光のごとき剣撃がリヴァイアを襲った。
――しかし。
「カン、カン、カンッ!!」
リヴァイアは片手だけで、余裕をもってその全てを弾き返していた。
白銀の剣の刃が、リヴァイアの竜神の鎧に煌めきを散らす。
「我が魔剣……アスモデウス……」
ウリエルは血走った目で呟く。
その手に握られているのは、漆黒の瘴気を纏った一本の剣。
一度でも傷を負えば、魂そのものを蝕むといわれる――呪いの干渉の剣。
「ひと傷……ひと傷でいいのだ……! それだけで、お前は……!」
それを聞いて、リヴァイアは涼しげな目で言った。
「……ああ、知ってるよ。干渉の剣だろ。いや、アスモデウスだっけ?」
ウリエルの表情が一瞬凍る。
「……なんだと……?」
「アンドラスから聞いてたんだ。その剣のことを‥‥な」
「ええええええええええい!!!!」
憤怒の咆哮を上げたウリエルの姿が、突然、掻き消えた。
――瞬間移動。
一瞬にして視界から消えたかと思うと、次の瞬間。
「――もらった!!!!」
ウリエルはリヴァイアの背後に現れ、勝利の雄叫びと共にその剣を振り下ろした。
しかし。
「ぐふっ……!」
突然、ウリエルの体がよろけ、口から血が溢れた。
「…………な、に……?」
見ると、リヴァイアの背後から伸びていた白銀の剣の穂先が、ウリエルの腹を貫いていた。
「……ああ、それも聞いてたよ。アンドラスがね。
“ウリエルは戦いが劣勢になると、瞬間移動の魔法を使うから気をつけろ”ってさ」
リヴァイアは背後を振り返ることなく、静かに語った。
「貴様……! それを……読んで……背中に剣を……」
口から血を滴らせながら、ウリエルが呻くように言う。
「……ああ。そう来ると思ったよ」
リヴァイアは静かに、だが確かな勝利の余韻を込めて、ニヤリと笑った。
その表情は、まさに――戦場を制する者の顔だった。
「……かくなる上は……」
血を吐きながら、ウリエルは震える手で懐に手を差し込んだ。
そこから取り出したのは、小さな金属製のスイッチ装置――だがその禍々しい赤い光が、ただの道具ではないことを直感させた。
リヴァイアは即座に構えを取った。
「……それは?」
ウリエルは苦悶に歪む口元に、狂気じみた笑みを浮かべた。
「ふふふ……もう、お前たちには止められぬ……」
ウリエルの手がスイッチの上にかかる。
「さあ……目覚めよ、ミカエル!!
この世界を――焼き尽くせえええええぇぇぇぇ!!!!」
カチッ
金属音が、戦場の静寂を引き裂いた。
次の瞬間――
ドォォォン!!!!!!!!
北の戦場の空に轟音と共に巨大な爆煙が巻き上がった。
空は赤く染まり、まるで天が焼かれたかのような熱風が、戦場にまで届いてきた。
「な……なんだ……!? あれは……!」
兵たちはざわめき、空を見上げた。
ウリエルは血まみれの口元を歪め、満足げに笑う。
「ふふふ……もうこうなったら……誰にも止められはしない……
お前たちには……死……しか……待っていないのだよ……ふふ……ふは……」
その言葉を最後に、ウリエルの体から力が抜け、地に崩れ落ちた。
四聖賢――ウリエル、死す。
だがその最期は、新たな破滅の扉を開け放ったに過ぎなかった。
「ミカエル……」
リヴァイアは呆然と呟いた。
南の戦線――。
濛々と立ち上る煙の向こうに、幾万の怒声が響いていた。
ユグドラシル獣王国の猛き軍勢が、次々と戦線を押し上げる。
だが、そこに立ちはだかる者がいた。
――四聖賢、ラファエル。
純白の甲冑に包まれたその姿は、神域より降臨せし審判者の如し。
彼の周囲では、バッタバッタと獣人兵たちが薙ぎ倒されていく。
巨大な金剛杖を振るうたびに、大地が震え、空気が唸った。
「これが……帝国の四聖賢……!」
獣人たちは恐れを感じながらも立ち向かっていった。
だが、どれほどの数が群れようとも、ラファエルの前では塵芥に等しかった。
その時。
「ラファエル!!!!」
二つの影が、戦場を裂くように突進してきた。
――総帥ツァラトゥストラ。
――重戦士ヴァルフォレ。
「我は王国一の槍使い、ツァラトゥストラ!さあ……受けてみよ!!!」
豪槍「乾坤」を構え、ツァラトゥストラが叫ぶ。
その隣では、漆黒の「戦斧」を携えたヴァルフォレが沈黙のまま踏み込む。
「来るか……」
ラファエルが静かに金剛杖を構えた。
次の瞬間、激突。
ガキンッ!! ガギィン!!!
凄まじい音と共に火花が弾け飛ぶ。
乾坤の槍と戦斧が、ラファエルの金剛杖にぶつかり合い、空間を震わせた。
ツァラトゥストラの突き、ヴァルフォレの斬撃。
二人がかりの猛攻だったが――
「ふっ」
ラファエルはまるで子ども相手のようにその攻撃を捌き、弾き返す。
「ぐっ……!」
次の瞬間、重い一撃が二人を吹き飛ばした。
数メートル後方に転がり、土煙が舞い上がる。
「く……これほど……とは……」
白銀の鬣をなびかせながら、ツァラトゥストラが呻く。
その口元から、一筋の鮮血が零れた。
「……そうね」
ヴァルフォレも静かに息を吐き、ラファエルを見据える。
「姉さん……あれを」
その言葉に、ツァラトゥストラは無言で頷いた。
二人の気配が、一変した。
「――狂戦士……解放。」
静かな呟きと共に、爆発的なオーラが炸裂した。
筋肉が膨張し、身体が一回り――否、二回りも巨大化していく。
ツァラトゥストラの全身は白銀の獣鎧に包まれ、ヴァルフォレの肉体は漆黒の戦魔と化した。
その瞳は獣の本能に満ち、呼吸は唸りのような轟きに変わる。
戦場を包む空気が変わった。暴風のような獣性のオーラが、二人からほとばしっていた。
「……来い」
ラファエルが金剛杖を構え直す。
決戦の幕が、音もなく上がった――。
轟音のような咆哮が、大地を震わせた。
「うぉおおおおおおおおおおっ――!!」
怒涛の雄たけびを上げながら、総帥ツァラトゥストラは戦場を駆け抜け、神速の勢いで四聖賢ラファエルへと斬りかかった。その双眸には、燃え上がる狂気と確信が宿っている。巨大な戦斧を握りしめた腕は、岩をも砕く豪腕。空気を裂く剣戟は、もはや風音では表現できぬほどの凄まじさだった。
その一撃一撃は、先ほどまでの攻防とは次元が違った。まるで重力そのものを乗せたかのような重さと、目で追うことすら難しい速さを併せ持ち、戦場に響く衝突音がまるで雷鳴のようにとどろく。
ラファエルは聖なる杖を構え、必死に応戦するが――。
「う……うぐっ……!」
押し寄せる圧力に、思わず膝が沈む。聖なる加護を帯びた防御障壁が軋み、青白い光を発してひび割れていく。
戦場の空気が変わった。空が悲鳴を上げるように曇り、地鳴りが遠くから響く。時間が止まったかのような一瞬――。
「ぐ……っ!」
鈍い音と共に、ツァラトゥストラの剣戟がラファエルの胸を貫いた。鮮血が聖なるローブを染め、ラファエルの口から微かな吐息が漏れる。蒼穹を仰ぐその目には、もはや戦意の輝きはなかった。
「――四聖賢ラファエル! このユグドラシル獣王国軍総帥、ツァラトゥストラが打ち取ったぞ!」
ツァラトゥストラが天を仰ぎ、咆哮と共に勝利を宣言した。その雄叫びに呼応するように、獣人たちの咆哮が四方から沸き上がる。軍勢は血潮のように勢いづき、戦意は一気に最高潮へと達した。
戦局は動いた。南方戦線――そこは、完全に魔王連合軍の支配下に落ちたのである。
西の戦線――そこは、もはや地獄と化していた。
かつて二十万の兵を誇った帝国軍は、いまや見る影もなく、戦場には焼け焦げた甲冑と折れた槍、そして兵士たちの屍が無惨に転がっている。風に乗ってただようのは、鉄と血の匂いではない。異様な、鼻を突く腐臭。湿った音と共に地を這う影が、どこまでも続いていた。
その原因は――蟲だ。
黒く蠢く無数の甲殻、鋭利な肢、空を覆う羽音。あらゆる想像を凌駕する不快さと恐怖を伴って、蟲の軍勢が西から突如として現れ、帝国軍を蹂躙した。蟲王ルイの指揮するその軍団は、数で押し潰すだけでなく、組織的に標的を包囲し、喰らい、飲み込み、残骸さえ残さない。
今、この広大な戦場に生き残っている帝国の戦力は、ただ一つ――融合体《カマエル=クシエル》のみであった。
「くっ……こんなことが……!」
カマエルの理知とクシエルの激情が一つとなったその存在は、右手に漆黒の剣を、左手には焔のように蠢く鞭を構えていた。彼の周囲は既に蟲に食われ尽くし、死体さえ見当たらない。足元にあるのは蟲の抜け殻と、蒸発した血液の跡だけだった。
そして、その地獄の中心に、ひときわ異様な存在が立っていた。
それが、蟲王ルイである。
人の姿をしていながら、異様なまでのオーラを発している。そして、まるで貴族のような静かな口調と、瞳の奥に宿る悪意が、敵にただならぬ寒気を与える。
「さて……貴方が、ここを率いる“大将”ですか?」
蟲王ルイの声は囁きのように静かだったが、その言葉はまるで全方位から響いてくるかのようだった。無数の蟲が彼の背後から這い出し、まるで意思を持つように蠢いている。
カマエル=クシエルは反応できなかった。喉が乾き、声すら出ない。威圧ではない。これは、狩人が獲物を前にしたときに放つ“絶対の捕食者”の気配。身体が無意識に恐怖で硬直する。
次の瞬間、空気が裂けた。
――バチィッ。
光のような速さで放たれたのは、透明な糸。ルイの指先から無数に放たれたその糸が、瞬く間にカマエル=クシエルの四肢を捕え、まるで蜘蛛の巣のように宙へと固定する。
「……ッ!」
糸は次第に締まり、身体に食い込み、軋む音と共に筋肉が引き裂かれていく。そして、最後に一筋――首へと巻き付いた糸が、静かに、だが確実に締め上げていく。
「が……ぁ……ッ」
空は血のように赤く、蟲たちの羽音が、不気味な祝祭の合唱のように響き渡る。
西の戦線も、また――終わろうとしていた。
静寂が、地獄と化した西の戦場を包み込んだ。
無数の蟲が大地を覆い尽くしていた数分前の喧噪は、まるで幻だったかのように消え去り、あたりには奇妙な静けさが漂っていた。
「さあ……片付きましたね」
糸を巻き取るようにしなやかに指を動かしながら、蟲王ルイは柔らかく微笑んだ。口元には微かに血がついているにもかかわらず、その笑顔はまるで花のように穏やかで、戦場の恐怖とまるで釣り合っていない。
その背後に、風を切って着地する影があった。
モイラ三姉妹――姉のメラ、妹のメル、末っ子のメロ――そして、白銀の装甲を持つ《アルバス》搭乗している修道女であった。
「さすがですっ、ルイ様!!!」
三人の姉妹が声を揃え、目を輝かせて蟲王を褒め称える。その声には敬意と憧れが入り混じり、ルイの足元を跳ねる蟲たちすらも嬉しげに蠢いているかのようだった。
「……やっぱり…この人は……すごい……」
白銀の装甲を持つ《アルバス》の操縦席に座るガーラが、ガラス越しにルイを見つめる。その瞳は驚愕と好奇の色を湛え、ただ無言で、目の前に現れた“異質なる王”の存在を目に焼き付けていた。
黒いローブを揺らして、ルイはひとつ息をつく。まるで茶会が終わった後のような仕草で、何事もなかったかのように戦場を振り返る。
――そして。
血に染まった西の地を背に、彼らの視線は遠く、北の空へと向かっていた。
戦線は、いま――北の戦場へと移ろうとしていた。




