Chapter55【変貌】
畳の上に立つハル子の眼差しは、遠くエルシャダイ帝国の都を見据えていた。
深い決意が、その小さな背中に宿っていた。
「私は……エルシャダイ皇帝を討つ。あの歪んだ”悪”を、この手で正す」
静かに放たれたその言葉は、まるで雷鳴のように、冷えた空気を震わせた。
その瞬間だった。後方から、重い沈黙を破るように、足音が近づいてきた。銀の鎧に身を包んだ二人の戦士――クイナバルシュとカイナシェル。彼らは長くアスタロトの副将として支え続けた存在。そして、誰よりもアスタロトに忠誠を誓った騎士たちだった。
クイナバルシュはハル子を見つめたまま、声を震わせた。
「……あっちゃん……生きて……生きていたんですね……」
その声には、長年の時を越えた再会の喜びと、失った時間への切なさが入り混じっていた。
続いてカイナシェルが、まるで堪えていた感情があふれ出すように、ぽつりと呟いた。
「あっさん……」
その瞬間、彼の目からは大粒の涙が零れ落ちた。無言のうちに、アスタロトの名を、彼は何度も心の中で呼び続けていたのだろう。
ハル子はその姿に胸を突かれ、二人をそっと抱きしめた。懐かしいぬくもりが、心の深くに染みわたっていく。
――クイ、カイ……。
アスタロトとしての記憶はない。だが、彼らの声、温もり、そして気配が、魂の奥底を震わせる。何かを守り、何かと共に戦い抜いた――そんな感覚だけが、確かにそこにあった。
ハル子の瞳にも、気づけば自然と涙が浮かんでいた。
「……クイ、カイよ。私は……アスタロトの記憶がない。でも……心が、この肌が、お前たちを覚えているようだ……」
言葉にすればするほど、胸の奥が熱くなる。まるで、失われた過去の一欠片が、再び心に灯るように。
二人の騎士は、嗚咽を漏らしながらハル子の肩に顔を埋めた。涙が静かに、だが確かに、床に落ちていった。
沈黙の中に宿る絆。血ではなく、記憶ではなく、魂と魂が交わした誓いだけが、そこにはあった。
その後、ハル子は従者に案内され、城の外へと足を運んだ。
石畳を抜け、やがて辿り着いたのは城の背後にある高台。そこからの景色に、彼女は思わず息をのんだ。
眼下に広がっていたのは、インペラトル皇国の精鋭部隊――数十万の兵が整然と整列し、黙々とこちらを仰ぎ見ている光景だった。赤と黒の軍旗が風にたなびき、太陽の光が銀の鎧に反射して、まるで一面の鏡の海のように煌めいている。
「……これが、インペラトル皇国の軍……」
その威容に、ハル子の背筋が自然と伸びた。
そのとき、一人の男が高台へと歩み寄ってきた。引き締まった体に漆黒の軍服。鋭い眼差しと威厳に満ちた足取り――まるで軍神そのもののような雰囲気を漂わせていた。
ハル子が思わず息を呑むと、彼は足を止め、無言で彼女の前に立った。そして――
その場で静かに、片膝をついた。
「……!」
周囲の空気が、ぴたりと凍りついたような緊張感に包まれる。
彼の名は、伊勢双水。この国の統治者である。
大将軍…伊勢双水
彼は静かに頭を垂れ、まるで神への祈りのように、深く厳かに言葉を紡いだ。
「……魔王様。伊勢双水改め、四天王筆頭ベルゼブル……只今帰還致しました」
低く、力強い声が空気を震わせる。
「今より、さらなる忠義の部下として、魔王様の手足となり働きます。我が手中に収めたインペラトル皇国、左将軍・惟任日向守、右将軍・明石掃部――以下、総勢三十万の兵が、今この時より、魔王様の御指揮下に入ります」
その報告を受けた瞬間、ハル子の瞳に力が宿る。長き旅路の果てに、遂に――全ての駒が揃ったのだ。
「……うむ!」
ハル子は堂々と腰に手を添え、空を仰いで高らかに宣言した。
「これで……魔王軍四天王が勢ぞろいした!いよいよ打倒エルシャダイ皇帝に向けた陣容が整ったのだ!」
風が吹き抜け、彼女のマントがはためいた。紅に染まる空を背に、魔王の威厳がその場に立ちのぼる。
「数千年……いや、数万年。人々が積み重ねてきた無念と祈り――その思いを、今ここに果たそうではないか!」
その言葉に、広場に並ぶインペラトル皇国の兵たちが、一斉に武器を掲げて叫んだ。
「おおおおおおおおおおおッ!!」
歓喜と喝采。地鳴りのような雄叫びが、大地を震わせた。
その熱狂の只中で、ベルゼブルは懐からひときわ禍々しい光を放つ一対の剣を取り出した。漆黒の鞘に納められたその剣は、まるで持つ者の運命を呑み込むかのような気配を放っている。
「そして魔王よ。お主に、これを授けよう」
そう言って差し出された剣を、ハル子は両手でそっと受け取った。
「こ……これは……」
鞘の紋章、柄の感触、魂が触れたような感覚に、ハル子は思わず息を呑んだ。
ベルゼブルは深くうなずきながら言った。
「鬼将アスタロトが愛用していた魔剣――莫邪の剣だ」
「……おおお。これが、あの……敵を傷つけると、その者の魔力の根源を断ち切るという、伝説の魔剣……!」
手の中で剣が脈動するような感覚。まるで、かつての己の記憶が刃の奥に宿っているかのようだ。
「この剣の真価――それは斬りつけた相手の魔力を封じる力にある。だがな……」
ベルゼブルは瞳を細め、低く続けた。
「その効果が再び発動するまでには、一年の時を要する。すなわち、一年で一人――それがこの剣の代償だ。斬れば確かに封じられるが、無闇に振るえば真に必要な時を逃すことになる」
剣を見つめる目に、過去を知る者ならではの重みがあった。
「使いどころを、よく考えるのじゃぞ……。それが、お主の勝敗を分ける」
ベルゼブルは懐かしむように笑った。その表情には、かつての主君への深い信頼と、再会の喜びがにじんでいた。
赤く染まった空の下――魔王軍は、いま一つに集い、歴史を塗り替える刻を迎えようとしていた。
一方その頃、聖ルルイエ帝国内。
薄曇りの空の下、広大な宮殿の回廊を、ウリエルは焦った様子で駆けていた。緊迫した足音が大理石の床に反響する。
「ミカエル! ミカエルはどこにいる!?」
彼はまるで祈るように、ミカエルの私室の扉を叩き、開け放った。だが――部屋は静まり返り、主の姿はない。
立ち尽くすウリエルの背後に、控えていた使用人が小さく声をかけた。
「あの……ミカエル様は、数か月前からずっと……ドクター・オオニシの研究所にいらっしゃいます」
その言葉を聞いた瞬間、ウリエルの眉が険しく歪む。
「くっ……! あのマッドサイエンティストがまた、余計なことを……!」
吐き捨てるように言い、ウリエルはマントを翻して駆け出した。向かうは、城の最奥に位置する忌まわしき研究施設――ドクター・オオニシの研究所。
鉄扉の前に立ちはだかる助手たちをものともせず、ウリエルはそのまま足を振り上げ、容赦なくドアを蹴り破った。
「止めてください! 中は――!」
叫ぶ助手の声も虚しく、扉の内側に広がったのは、禍々しい機械と管にまみれた、異様な空間だった。
中央に据えられたポッド。そこに、幾本ものチューブを全身に繋がれたミカエルがいた。
彼の白い肌は青ざめ、白い髪は濡れたように垂れ下がっている。目は虚ろに開かれ、その視線にはもはや人の温かみがなかった。
「これはこれは……四聖賢ウリエル様」
振り返ったのは、白衣に身を包んだ小柄な老人――ドクター・オオニシだった。痩せ細った指先を擦り合わせ、底意地の悪い笑みを浮かべている。
「貴様……いったいミカエルに何をした……!」
怒気を込めて詰め寄るウリエル。だがオオニシは怯えるどころか、ますます愉悦に満ちた顔で語り出す。
「ひっひっひっ……これはですね、憎悪をエネルギーに変換する装置でして。この国に渦巻く、悪意、憎しみ、悲しみ……そういった負の感情を濾過して、ミカエル様の肉体に注ぎ込んでいるのですよ」
彼は恍惚とした表情で指を鳴らすと、背後の管が脈動するように赤黒く光った。
「今や、かつての二倍……いや、三倍以上の戦闘能力を得ております。しかも、不要な倫理や自我といった“雑音”も……すっかり取り除きました」
「……狂ってる!」
ウリエルは剣の柄に手をかけかけたが、その時、ポッドの中から呻き声が聞こえた。
「あ……う……」
ミカエルの瞳が、かすかにこちらを向いた。けれど、それはもう“彼”の目ではなかった。
「……殺す……人間以外は……全部、殺す……!」
感情のない機械のような声。そこにあったのは、聖なる勇者の面影ではなく――ただ“破壊する兵器”としての残骸だった。
「ミカエル……!」
ウリエルの叫びが虚空に響く。
そして、ドクター・オオニシはその光景を見て、静かに呟いた。
「美しい……これぞ、人類の進化の果て……」
研究所の空気が、音もなく変わった。いや、ねじ曲がったと言った方が正しいかもしれない。
ドクター・オオニシは、ウリエルが手の中の銀筒を見つめながら恍惚の笑みを浮かべていた。それは、魔王ハル子の手から奪われた呪いをも解くと言われる液体。
「ひっひっひっ……人こそ最高の存在。人以外は、全て劣等。生きる価値などない――」
博士の声は、狂気に彩られていた。
「それが、我がルルイエ教団の真の教え。その信仰に殉じ、ただ一つの使命を遂行する“死刑執行者”となるのです!」
ウリエルが剣を抜こうとした瞬間、オオニシはすでに行動していた。
いつの間にか、ドクター・オオニシの手元にその銀の筒が渡っていた……そして拘束されたミカエルの口元に、銀筒を傾ける。その中の粘度の高い液体が、喉元に流し込まれていく。
「おいッ!! それは――!」
ウリエルの叫びが届くよりも早く、ミカエルの身体に異変が起きた。
光――緑色の禍々しい光が、ミカエルの肌を覆う。チューブが外れ、管が爆ぜる。そして彼の肉体が、内から膨大な魔力に満たされていく。
「す……すごい……なんという反応数値だ……この力は……この力は……!」
計器に映し出された数値を見たドクター・オオニシは、狂喜したように笑い出した。指先は震え、目は血走っていた。
「ああああ……すごい……すごいぞぉぉぉ!! たった一人で、世界を――滅ぼせる!!」
そう叫んだ直後だった。
ミカエルが、静かに手を上げた。
すると、天井を突き抜けるほどの閃光が発せられ、次の瞬間――大爆発。
ドガァアアアアアアアン!!!!
研究所は白い光に包まれ、空間が揺れ、爆音と共に全てが吹き飛んだ。
「ぐぎゃあああああああ!!」
ドクター・オオニシの悲鳴が響いたかと思うと、その体は爆発の光に飲み込まれ、計器ごと粉々に砕け散った。その顔は、最後まで恍惚とした微笑みを浮かべていた。
――狂気に飲まれて死んだ、哀れな男。
かろうじて防御魔法を展開していたウリエルは、その爆風を耐え凌いだものの、全身に火花のような魔力の余波を受け、地に膝をついた。
「……なんという、破壊力だ……!」
目の前に広がるのは、もはや建物の原型をとどめていない瓦礫の山。そして、その中心に立っていたのは――光に包まれたままのミカエル。
「殺す……皆……殺すのだ……」
低く、機械のように抑揚のない声。
ウリエルが叫ぶ。
「待て、ミカエル!! 正気に戻れ!」
だが、もう届かない。ミカエルは何も反応せず、ただ歩き出した。
爆風から逃れ、命からがら生き残った研究所の職員たちが、ミカエルの元へ駆け寄る。
「あ、あの……ミカエル様……!」
希望に縋るように声をかけたその瞬間。
グシャッ。
ミカエルの手が、まるで虫を潰すかのように、職員の頭部を握り潰した。
鮮血が舞う。
「殺す……人間以外は……皆、処刑するのだ……」
その声には、正義も、慈愛もない。ただ、冷徹な命令を遂行する機械のような意志があった。
ウリエルは、瓦礫の中で立ち上がり、拳を握りしめながら、静かに呟いた。
「……もはや、彼はただの殺戮者……だが……その力は、以前とは比較にならん……!」
ウリエルは、その光景をただ黙って見つめることしかできなかった。
彼の足は地に縫い付けられたかのように動かず、唇はかすかに震えながらも、一言も発せず。
衝撃と困惑、そして胸の奥底で渦巻く得体の知れない感情を、ただ黙って飲み込むしかなかった。
一方その頃、魔王ハル子は、インペラトル皇国の首都――
その名も「トウキョウ」にそびえ立つ居城の天守閣にいた。
彼女は高殿の窓辺から街の様子を見下ろしながら、思わず声を漏らした。
「でも……首都の名前が“トウキョウ”って! なんかこう……安直すぎない?」
呆れたように言うハル子に、傍らにいたベルゼブルが、静かに笑って答えた。
「安易に見えるだろう。しかし、それにはある“効果”を狙った意図があるのだ」
彼は歩きながら、天守閣の奥にある戦略地図を指し示す。そこには、かつての日本列島を模したような地形に、"東京"と記された都市が光っていた。
「ハル子よ。お前がこの世界に来るよりも、8年ほど前……私は、あの日この地に再び転生した。そして気づいたのだ。魔王軍に決定的に欠けているもの、それは“兵力”だと」
その言葉に、ハル子も真顔になる。
「確かに……魔王軍の総兵力は、最大でも二十万が限界。一方、聖ルルイエ帝国は――百万人規模の総動員が可能だと言われてる」
ベルゼブルは頷き、続ける。
「だから私は考えた。どうすれば、短期間で質と量を兼ね備えた兵力を得られるか。その答えは……人間だ。特に、この世界で迫害を受けていた“黒髪”の人々に目をつけた」
ハル子は眉をひそめた。
「黒髪の人々……?」
「ああ。帝国では“異端”とされ、徹底的に差別・排除されていた者たちだ。しかし彼らは、本来極めて優れた適応力と生命力を持つ。そして何より、精神が強い――」
ベルゼブルは天守閣から見える市街を指差す。
「私はこの地に“インペラトル皇国”を建国し、わずか8年で黒髪の民を中心に1000万人の人口を築き上げた。そして、彼らに教育を施し、兵としての訓練を与えたのだ」
ハル子はその言葉の重さに息を呑んだ。
「たった8年で……そんなことが……」
「いま、この国の総動員兵力は三十万を超える。魔力が使えないからこその鍛えられた強靭な肉体と、統率された屈強の軍だ。そのインペラトル皇国軍は魔王の傘下に入った今、帝国の脅威に対抗できる力が整ったのだ…」
ベルゼブルの眼差しは、冷徹でありながらも確固たる信念を宿していた。
「さらに――都市を“東京”と名付けたもう一つの理由がある。それは、日本人の“転生者”たちを引き寄せるためだ」
ベルゼブルはそう続けると、意味深な笑みを浮かべた。
「伊勢双水という名を名乗ったのは、かの有名な『伊勢宗瑞』からであり、戦国時代を生きた者ならば、その名を聞いたことがないほど有名な人物でな、そして思惑通り、現れたのが――惟任日向守と明石掃部だったのだ……」
「これとう、ひゅうが? あかし、かもん……?」
初めて聞く名前に、ハル子は首をかしげた。
「ふむ、無理もない。惟任は……“明智光秀”と言った方が分かりやすいかのう」
「えっ!? あの明智光秀!? 本能寺の変で織田信長に謀反を起こして討ったっていう、あの裏切りの……?」
ハル子の言葉に、ベルゼブルは笑いながら首を振った。
「いやいや、これがまた面白くてな……本人はあまり語りたがらんが、実際は“嵌められた”らしいぞ。表に出た史実とは違う“真実”があるんだと」
「へぇ~……歴史って、深いんですね……」
とハル子は言いながらも、戦国武将にそこまで強い興味はなかった。ただ、話を聞いているうちに、どこか現実味を帯びた重さを感じ始めていた。
「そしてもう一人、明石掃部――これは歴史マニアでないと難しいかもしれんが、“明石全登”という宇喜多家に仕えた猛将じゃ。キリシタンでもあった、義と武を兼ね備えた男だ」
「戦国武将が……時空を超えて転生してるってことですか?」
「そうじゃ。彼らは、この地に転生したあとも、その才と経験を活かしてこの“インペラトル皇国”にやってきた。やがて力自慢の男たちを訓練し、屈強な兵へと育て上げたのだ」
語るベルゼブルの姿は、まるで日本にいた頃の松中副部長のようで、どこか懐かしさすら感じた。
そして‥‥ふと、ハル子は気になっていたことを口にした。
「あの……、フードを深くかぶったあの仮面の男って……」
ベルゼブルはわずかに口元をゆるめ、短く頷いた。
「うむ……察しの通り、それはわしじゃ」
低く響く声には、どこか懐かしむような響きがあった。
ハル子が目を見開く間もなく、ベルゼブルは腕を組んで小さく肩をすくめると、
やれやれといった様子で口を開いた。
「いやぁ――転生後のおぬしは、実に危なっかしくて見ておれんかったぞ」
そう言って、ベルゼブルは小さく笑う。
それを聞いたハル子は、思わず「ふふっ」と短く笑い、少しだけ頬を染めた。まるで思春期の少女のような、無防備な照れ笑いだった。
(結局、転生前の日本でも、転生後のこの世界でも、私を見守っていたのね!)
ハル子は心の中でベルゼブルに深く感謝した。
そしてハル子は目線を城下へ向けた。天守閣から見下ろす『東京』の街並み――そこに広がるのは、まるで江戸時代にタイムスリップしたような光景だった。瓦屋根が連なり、清らかな水路が町を縦横に走っている。
広場では蒲焼きの香りが漂い、屋台の周囲には大勢の人々が集まり、笑い声が響いていた。子供たちがはしゃぎ、商人が声を張り上げ、町人たちが穏やかな日常を謳歌している――
「この国も……平和なんだなぁ」
ハル子はそっと呟いた。
その瞬間、ハル子の胸を貫いたのは――帝国の記憶だった。
奴隷制度。
容赦ない差別。
そして、抑圧と暴力が日常に溶け込んだ、血と涙にまみれた“地獄”のような現実。
石畳の路地裏で、擦り切れた衣をまとう子供たち。
抵抗すればその場で処刑され、従ってもなお搾取される人々。
逃げ場のない世界で、それでも懸命に生きようとする姿が、今もハル子の記憶の奥底に焼きついていた。
私は‥‥あの痛みに、あの叫びに、触れてきたのだ。
「……こんな世界を……守りたい。私の手で」
胸の奥から、熱が込み上げる。
それは怒りではなく、使命だった。
誰かに与えられたものではない、自分自身で選び取った願い――
それが、ハル子の中で明確な意志となって灯った。
かつて、自分はただのOLだった。
毎日、電車に揺られ、PCと書類に囲まれ、誰かのために働いていた。
平凡な、けれどどこか空虚な日々。
だが今、自分は“魔王”として、この世界に立っている。
ならば、自分にしかできないことがあるはずだ。
この混沌とした世界で、何を遺せるのか。
誰かの痛みを、どれだけ癒せるのか。
自分が歩んできたこの道に、意味はあったのか――。
ハル子は、そっと顔を上げた。
彼女の視線の先には、深く群青に染まった空が広がっていた。
星ひとつ見えぬ空の果てに、それでも希望の光があると信じて。
彼女は静かに、未来を見据えていた。




