Chapter51【シドの過去】
朝の光が柔らかく差し込む部屋の中。重く張りつめていた昨夜の空気は、まるで霧が晴れたように少しだけ和らいでいた。
その穏やかな静寂を破るように、ハル子が窓の外を見ながらぽつりと呟いた。
「ここが、世界で唯一のクリスタルが残ってる国なんだよね~」
彼女の声にはどこか浮遊感があり、それがこの世界の現実味のなさを象徴しているかのようだった。
アンドラスが静かに頷き、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「はい……では、少し整理しましょうか」
彼の語り口は理知的で、しかしどこか疲れたような重みも感じられた。
「レペリオの水晶に映し出されたのは、残り『4つ』のクリスタル。つまり、元々この世界に存在したの『7』つのうち”3つ”は、すでに使用されていました……」
ハル子は椅子の背にもたれ、指を折りながら続ける。
「そうそう。まず、ラ・ムウ殿を封印したあの大規模な魔法で1つ。それから、1000年前にレオグランス王国の守護騎士ガブリエル殿が使った隕石を落とす魔法でもう1つ。残る1つは……誰が、どんな魔法を使ったのか、記録にすら残ってないんだよね~」
彼女は曖昧な笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には確かな興味と警戒心が宿っていた。
アンドラスは頷き、眉間に皺を寄せたように、さらに続ける。
「そして残る4つの内、ラ・ムウ様の封印解除に使われたのが3つ……つまり、未使用のクリスタルはこの国にある1つだけということになります。しかし、レオグランス王国では8000年の歳月をかけて人工的に精製していたクリスタル。その8つ目が完成するのは――あと3年後……と」
その話を聞いて、ハル子は小さく首を傾げた。
「うんうん。最初は“世界に散らばる、7つ存在する神秘の結晶”って話だったのに、実は自作してたとか言い出すからさ~。おとぎ話がいきなり手作り感満載になっちゃって、急にロマンが薄れたっていうか……。創造主が願いを叶えてくれるって伝承もさ、実際にそれを作っちゃってるガブリエルも“作り話”って言ってたし……がっかりだよ」
冗談めかした口調で言いながらも、ハル子の目はどこか遠くを見ていた。
――けど私のアルティメット魔法、『ジ・エンド』。
いざという時には、あれを使いたいな~……。
クリスタル、くれるかな~……。
心の中でそう呟いた彼女の思考は、ほんの一瞬、誰にも見せない真剣な表情に変わる。
しかしそれもすぐに、いつもの飄々とした仮面に隠れていった。
そして、ハル子は椅子の上でくるりと向きを変え、興味ありげにアンドラスへ身を乗り出した。
「で、アンドラスはアルティメット魔法、持ってるの?」
その問いかけは軽く、まるで「今日の天気は?」とでも尋ねるような気楽さだった。しかしその裏には、しっかりとした探るような視線が宿っていた。
アンドラスは少しだけ目を泳がせ、口元にわずかな逡巡を浮かべた。
「え……まあ……」
言葉がどこか歯切れ悪く、彼にしては珍しく言いづらそうな様子だった。
ハル子はぐいとさらに身を寄せ、目を輝かせる。
「えーっ、どんな魔法なの?気になる気になる!」
彼女の声には好奇心が満ちていて、まるで宝箱の中を覗き込む子供のようだった。
アンドラスは一瞬視線を逸らし、諦めたように苦笑を浮かべた。
「……恥ずかしながら、自身の肉体が元に戻るという魔法でして……」
「へぇ~すごいじゃん!」とハル子は目を丸くする。
「でもさ、あの“物理無効化”の特性は無くなっちゃうんだよね~?」
その言葉に、アンドラスはしっかりと頷いた。
「ええ。ですので……今のこの姿の方が、魔王様に仕える身としては最良かと考えております」
その声音には迷いがなかった。すでに覚悟を定めた者の静かな決意があった。
しかしハル子は肩をすくめながら、どこか納得のいかない顔でぽつりと呟く。
「でも……ベリアルの方がもっと不必要っていうか……」
その言葉に、アンドラスはわずかに眉をひそめた。
「……え?なになに?教えて!」
ハル子は椅子から立ち上がりそうな勢いで迫る。彼女の好奇心はもう止められない。
アンドラスは気まずそうに顔をそらし、声を潜めて吐き出すように答えた。
「……あの、ベリアルのアルティメット魔法は……好きな人を一生、自分に振り向かせる魔法……らしいのです」
瞬間、部屋の空気が一変した。
「えええ、それは……怖っ……」
ハル子はガクブルと肩を震わせ、顔を引きつらせた。
その反応にアンドラスも、どこか居たたまれなさそうに視線を伏せる。
その時、不意に――重厚な金属音と共に部屋のベルが鳴り響いた。
ハル子とアンドラスが顔を見合わせた瞬間、扉が静かに開き、礼装に身を包んだ使者が一歩前へと進み出た。
「ハル子様……我がニタヴェリル共和国、元首シド・レヴリー殿がお呼びでございます」
その声は落ち着いていて、しかしどこか厳かだった。
一拍の間を置き、ハル子は「はいはい」と軽やかに返事をしながら、椅子から立ち上がった。
アンドラスは何も言わず、その後ろ姿に一礼を送る。
ハル子は使者に続いて部屋を後にした。
外へ出ると、空は分厚い灰色の雲に覆われていた。
太陽は隠され、昼だというのにまるで夕方のような陰鬱な空気が漂っている。だが、街灯がいたるところで煌々と灯りを放ち、その光が石畳の通りを明るく彩っていた。
行き交う人々の姿はまばらだが、それぞれが目的を持ったように静かに歩を進めている。ハル子はそんな景色を横目にしながら、無言の使者の後をついて行った。
やがて、彼らの前に堂々たる建築物が姿を現した。
白く輝く大理石で造られたその建物は、幾重もの柱と高く伸びたドーム型の天井を備え、まるで神殿のような威厳を放っていた。
その名も――評議会本部。
中へ入ると、音を吸い込むような厚い絨毯が足音を消す。
案内人の導きのまま、広い廊下をいくつも抜け、ついに重厚な扉が開かれた。
評議会の決議室――そこには、各種族の長たちが整然と並んで座っていた。
肌の色も瞳の輝きも異なる彼らは、種族間の緊張と誇りを一身に背負う存在だ。
そして――その中央。
一段高く設けられた椅子に腰かけている男が、間違いなく元首だと一目で分かった。
ドワーフ族 シド・レヴリー。
中年の男でありながら、年齢を感じさせない精悍な顔立ちに、余裕と鋭さを兼ね備えた眼差しをしている。
髪は鋭く逆立ち、額には飛行艇乗りがよく身につけるゴーグルを載せていた。どこか過去の英雄譚から抜け出てきたかのような風貌である。
髭は短く整えられており、それが彼の口元に落ち着いた威厳を与えていた。
身にまとった青の軍装風ジャケットには、銀の装飾が施され、首には淡いシルクのストールがふわりと垂れている。その姿はまるで空を翔ける指揮官――いや、“英雄”と呼ばれるにふさわしい風格を備えていた。
ハル子はしばし言葉を失い、ぼんやりとその姿を見つめた。
(……なるほど、シド・レヴリー。これが、“元首”ってやつか……)
その男の瞳は、まっすぐにハル子を見据えていた。
「――ハル子殿!!」
評議会室に響いた声に、一瞬、空気が震えたようだった。
堂々たる声量と、確かな威厳をもって、その男――シド・レヴリーが立ち上がる。
「我が名は、ドワーフ族・族長・・・そしてニタヴェリル共和国元首、シド・レヴリーと申す」
声に一点の迷いもない。
中年ながら精悍な顔つきに、空を駆けた過去が刻まれたような風貌。そしてその鋭い眼差しがまっすぐハル子に注がれる。
「そして此度は……」
と彼は続ける。
「そこにいるエルフ族代表、ワイゼン殿の命を救い、また――我が愚息、アルベルトも、貴殿の手により帝国の大牢獄より救い出されたと聞いている。ニタヴェリル共和国代表として、深く、心より感謝申し上げる!」
言葉を終えると同時に、シドは背筋を伸ばしたまま、深く頭を下げた。
それは一国の元首とは思えぬほど率直で、真摯な礼だった。
周囲の議員や将校たちが一斉にざわめき、会議室にどよめきが走る。
そして次の瞬間――。
「そこで我々としては、わが国の”名誉国民”として、称号を授与する!」
高らかに宣言したシドの合図と同時に、側近の衛兵が進み出て、銀と青で彩られた美しい勲章を持ってハル子の前に差し出した。
「名誉国民?」とハル子は首をかしげ、差し出されたバッジを受け取った。
それは月の紋章と飛行艇をかたどった意匠が刻まれており、職人の手によって丁寧に磨かれたことが見て取れる。小さな宝石が埋め込まれており、それが会議室の光を反射して、さりげなく煌めいていた。
「そのバッジを身につけていれば、国内の宿泊・食事、移動費用などは全て共和国が負担する。いわば……無料ということだよ」
と、シドはウィンク気味に笑いながら言った。
「へぇ~」とハル子は口をとがらせて眺めたが――
(いや、昨日300金貨もらったばかりだし……正直、お金には困ってないんだよね)
内心ではそう呟きながらも、表面上は礼儀として軽く頭を下げた。
だが、シドは彼女の顔を見逃さなかった。
そのわずかな間――勲章を受け取った後の、物足りなさそうな表情を。
「……なんだ。なんか、不満そうな顔だな。もしかして……他に、なにか望みでもあるのか?」
彼は冗談めかしながらも、どこか本気の色を滲ませて尋ねた。
「望みといえば……」
ハル子は少し声を小さくし、視線を伏せながら口にした。
「クリスタル……を所望できれば……と……」
申し訳なさそうに、囁くようにそう告げた。
その瞬間だった。
「…………」
元首シド・レヴリーの表情が、見る見るうちに変わっていく。
そして――机に手をついたかと思うと、そのまま額を木の天板に打ちつけんばかりの勢いで、深く頭を下げた。
「……申し訳ない。それだけは……」
低く震えた声。だが、それは決して怒りではなかった。
やがて、彼は顔を上げ、目に滲む涙を拭おうともせず、語り始めた。
「私は……千年以上前、一人の女性を愛していた。あの時代、まだこの国が国家と呼べる形を成していなかった頃……だが、私たちは共に未来を夢見ていた」
彼の声は、今や会議室の誰の耳にも静かに、深く染み込んでいく。
「だが、帝国の侵略によって……彼女は――私の妻は、殺された。目の前で、だ」
その瞬間、ハル子は言葉を失った。
壇上の男が、かつてただの青年であったこと。愛し、そして喪ったという現実。その重みが、痛いほど伝わってくる。
「私は、ずっと後悔していた……もし、あの時、力があれば……と。だが、やがて私はアルティメット魔法を手に入れた。特定の人物を蘇らせる魔法だ」
そこまで言うと、シドはゆっくりと席を立ち、天を仰いだ。
彼の瞳には確かな光が宿っていた。それは絶望の果てに見た微かな希望の光。
「だが、その魔法にはクリスタルが『二つ』必要なのだ。そして今、私の手元には一つ。もう一つは……三年後に、レオグランス王国で完成する予定のものだ…」
彼の声は少し震えていた。だが、その想いはまっすぐだった。
「私は、待ち続けた。気が狂いそうになるほどの時を……千年という月日を……あと三年、あと少しで……妻に、もう一度、会えるんだ……!」
言葉を結ぶと、シドの頬を一筋の涙が伝った。
評議会室の空気が張りつめ、誰もが声を発せず、ただその悲願を見守っていた。
ハル子は言葉が出なかった。
ただ一つ、脳裏に浮かんだのは――あの時、ガブリエルと話した内容。
(ガブリエルが言ってた……盟友から依頼された“8つ目”のクリスタルって……このことだったんだ……)
(千年も……たった一人の人を想い続けるなんて……)
胸の奥が、じんと熱くなった。知らず、拳をぎゅっと握りしめていた。
そのとき、シドが再び口を開いた。
「それで――ハル子殿。そなたがクリスタルを所望したということは、そなたにも……アルティメット魔法があるのか?」
ハル子は、一瞬言葉に詰まり、それでも正直に答えた。
「いや……その、エルシャダイ皇帝を倒すときの……切り札になるかなって……」
――その瞬間。
静寂が、爆音のように破られた。
「なっ……あの……聖ルルイエ帝国の皇帝を……打倒する!?」
シドの声が驚愕に震えた。
周囲の評議員たちも仰天し、ざわめきが一気に巻き起こる。中には目を剥いて立ち上がる者さえいた。
「わはははははは!!」
シドが突然、大声で笑い出した。
「お主は……すごいことを言うな!魔王ルシファ―ですら成せなかったことを、やろうというのか!」
その笑いには呆れと感心、そしてわずかな希望が混ざっていた。
「い、いや……そんなつもりじゃなくて……」
ハル子は両手を振って否定しようとしたが、時すでに遅し。言葉はもう、広く、深く、この場の空気に刻まれていた。
(ああ……とんでもないこと、口走っちゃった……)
そう思いながら、ハル子は思わず頬を染め、バッジを見つめてごまかすしかなかった。
すると、その場に控えていたアンドラスが静かに一歩前へ出た。
「ハル子様……」
彼は恭しく言いながら、重そうなスーツケースを目の前に運んできた。
ハル子はその姿を見て、ぽんと手を打った。
(あっ……そっか、忘れてたわ……これ)
銀の金具がきらりと光るスーツケースを見て、ようやく思い出した。アルル女王から頂いた、希少な鉱石と宝石たち――。
「それでは、このスーツケースに入っている宝石や鉱石で、魔道具を作ってもらえないでしょうか…」
彼女はスーツケースのロックを外し、ぱかん、と中身をシドの前に開いてみせた。
その瞬間、シドの目が見開かれた。まるで宝の山を目の前にした子供のように、彼は即座に席を立ち、ハル子のすぐ傍まで歩み寄る。
そして、胸元の内ポケットから取り出した眼鏡をぱちんと開き、鼻にかけた。透き通るレンズ越しに、スーツケースの中をまじまじと覗き込む。
「これは……すごい……!!」
彼の声には、本物の興奮が滲んでいた。
「機械の魔力回路を増幅させる幻の鉱石……竜族の潜在能力を著しく向上させる琥珀の竜宝玉……そして、これは……まさか……全ステータスを倍化させる“神鉱イムリウム”まで……!?」
言葉が止まらない。鼻息すら荒くなり、シドは今にも飛び跳ねそうな勢いだった。
「よし!!これほどの素材が揃っておるのなら――わしの工房で!このシド・レヴリー自らが専用の魔道具を制作しようではないか!腕が鳴るわい!!!!」
喜びを爆発させるように、シドは高らかに宣言した。
「ぜひ、よろしくお願いします!」
とハル子は頭を下げながら、内心ではガッツポーズを決めていた。
(やった……フード仮面男が言ってた“強くなる”って、このことかも!)
希望に胸が膨らみ、彼女の心はうきうきと弾んでいた。
(そうだ、機械系なら……ガーラを呼ばなきゃ。そして竜族といえば……リヴァイア!)
ふと思い出し、すぐにシドへと向き直る。
「シド殿、私の友人たちをニタヴェリル共和国に呼びたいのですが……」
するとシドは「うむ」と頷きながら尋ねた。
「よいぞ。どこにいるのか?」
「レオグランス王国に」
そう答えると、シドは大きく頷き、嬉しそうに笑った。
「ならばちょうどよい。我が家には通信機がある。レオグランス王国と繋がっておるゆえ、それで直接話すとよいぞ」
「えっ!? 通信機……?」
驚愕の表情を隠せないハル子の顔に、さっと困惑と驚きが浮かんだ。
(え~~~~!? 通信機!? この世界、鳥が伝令手段の主流かと思ってたのに!? 魔法とか飛脚とかじゃなくて、機械で繋がってるの!?)
信じられないという風に、目をぱちくりさせる。
(それ……もっと早く言ってほしかったよ!!)
心の中で叫びながらも、ハル子はにこやかに頷いた。
「ありがとうございます、すぐに連絡してみます!」
そして彼女は、未来の自分たちが手にするであろう「力」へ思いを馳せながら、シドの屋敷へと向かうのだった――。