Chapter50【ニタヴェリル共和国】
空の旅も、今日で三日目を迎えていた。
世界の果てを思わせるような静寂が、飛空艇の甲板を包んでいた。高高度を飛ぶこの船の下には、果てしなく広がる雲海。そしてその上空には、大小二つの月が、互いに違う色の光を放ちながら浮かんでいる。
銀白の大きな月は静寂を、青白く細いもう一つの月は神秘を宿し、重なり合うその光が雲を照らして、まるで夢の中に迷い込んだような幻想的な光景を作り出していた。
ハル子は、飛行甲板に立ってその光景をじっと見つめていた。都市アルマダで買い求めた深紅のコートの裾が、風にふわりと揺れる。首元を温かく包む毛糸のマフラーも、空気に舞いながらその存在を主張していた。
「……綺麗だな」
誰にともなく呟いたその声は、夜風にかき消されるように遠くへと流れていった。
その時だった。
突然、甲板下から伝わる振動に変化があった。
ゴッ、ゴッ、ゴッ……ゴッ……
蒸気機関の音が微かに鈍く、そしてゆっくりとした回転音に変わっていく。
ハル子は眉をひそめ、足元を意識する。飛空艇はゆるやかに、だが確実に高度を下げていった。まるで大きな鳥が羽ばたきをやめ、滑空に入ったかのような優雅な動きだった。
やがて雲の層を抜けると、その先に広がっていたのは、まるで星屑を地上にばら撒いたような、きらびやかな都市の光景だった。
「あれは……!」
思わず声を上げて、ハル子は目を見張った。
眼下に広がる都市の空中を、無数の小さな光が飛び交っていた。赤や青、金色や翠――その一つひとつが意志を持つように宙を舞い、まるで蛍の群れのように幻想的な軌道を描いている。
「なんだろう、あれ!」
彼女は思わず前方を指差した。
背後からアンドラスの落ち着いた声が返ってくる。
「小型飛空艇のようですね。輸送用か偵察用か、いずれにせよこの国の技術の粋でしょう」
振り返ったハル子は、鳥の仮面をつけたアンドラスの顔を見上げた。
「……あんた、こんな暗い中でも見えるんだ?」
仮面の奥の目が、夜の光を反射して一瞬だけ煌めいた。
「霊体ですので、逆に夜の方が視認性が高くて助かります」
さらりと答えるその声は、夜の静けさに溶け込むように穏やかだった。
(……鳥の仮面なのに、鳥目じゃないんだね)
ハル子は小さく笑い、心の中でそんなことを呟いた。
彼女の視線の先、光に彩られた都市――それが、これから訪れる《ニタヴェリル共和国》だった。
飛空艇が都市へと近づくにつれ、街の輪郭が徐々に明らかになっていく。
やがて眼下に現れたのは、煙と光と金属に彩られた、他に類を見ない風景だった。無数の煙突が空に向かって突き出し、灰色の煙を絶え間なく吐き出している。その煙すらも、この都市の空気の一部であるかのように、街の光に照らされながら宙を漂っていた。
建物の多くは金属でできており、錆びた鋼鉄や真鍮の装飾が施され、管や歯車が外壁を這っていた。蒸気が立ち上る音や、重厚な歯車の回転音が時折空気を震わせ、まるで巨大な機械仕掛けの心臓が、この都市を脈打たせているかのようだ。
「……まるで、スチームパンクの世界そのものじゃない」
ハル子は思わず息を呑んだ。
街灯は各所に設置され、ガスと魔導光の融合で温かみのある灯りを放っていた。橙、青白、金色の光が複雑に交差し、煙と霧の向こうに浮かび上がる街並みは、まるで生きているかのように美しかった。
その時、小型飛空艇が二機、左右から並走し始めた。
黒と銀の船体には紋章が描かれており、滑らかに飛空艇の周囲を回りながら、まるで導くように進路を先導していく。
「誘導機か……歓迎されてるってことでしょうか」
アンドラスが呟き、ハル子は無言で頷いた。
飛空艇はゆっくりと高度を下げ、街の中心にある巨大な発着場――金属で組まれたドーム型のプラットフォームへと近づいていった。地面では、光の輪が規則的に点滅し、着艦位置を示している。その光はまるで生き物のように呼吸し、着艦を促すかのように明滅していた。
次の瞬間――
プォオポオオオオオオオオオオオオオオオオ!
空気を裂くような巨大な汽笛の音が鳴り響いた。まるで都市全体が歓迎の声を上げているような轟音に、ハル子は思わず肩をすくめた。
続いて、蒸気の吹き出す音が甲板下から鳴り響く。
プシュー――――
飛空艇はゆっくりとプラットフォームへと降下し、着艦脚が金属の床をとらえると、ようやく静寂が訪れた。
「おおおおお……なんかすごい迫力……!」
ハル子は思わず笑いながら口に出した。
心の中では、まるで機械の神殿に降り立ったかのような感覚に、胸が高鳴っていた。
甲板から降りると、すでに待っていたスラン王子が、礼儀正しく地図を差し出してきた。
「この街でもっとも快適なホテルを予約しております。費用はもちろん、こちら持ちですのでご安心ください」
王子はにこやかに微笑み、手を軽く掲げると、背後に控えていた従者が何かをメモして引き下がっていった。
「私はこれより共和国元首にご挨拶と報告に向かいます。後日、議員会館より正式な使者が参りますので、それまでの間は、どうぞご自由にこの街をお楽しみください」
その言葉には、もてなしの誠意が滲んでいた。
「はい、ありがとうございます。何から何まで……助かります」
ハル子は自然と両手を差し出して握手を交わした。
そして、アンドラスと共に、スチームの街――ニタヴェリル共和国の中心部へと歩みを進めていくのだった。
「うわーーー、なんかすごいなーーーー!」
ハル子は子どものように目を輝かせながら、石畳の通りを歩いていた。
街の両脇には、歯車や煙突を備えた奇妙な建物が軒を連ね、どこからともなく蒸気が吹き出している。歩道の脇には、自動で掃除をする金属製のカートがゴトゴトと音を立てながら通り過ぎ、ガス灯がチリチリと音を立てて揺れていた。
「いろいろな便利な機能が見受けられますね」
アンドラスは鳥の仮面を少し傾け、興味深そうに周囲を観察している。
「魔王城にもこういう機械を導入したら、絶対に快適になるよね」
ハル子は配管だらけの建物を指さしながら言った。
「そうですね。いずれこの国とは正式に国交を結ぶ必要があるでしょう」
アンドラスはローブの袖口から細い指を顎に添え、思慮深く答えた。
通りを歩きながら、ハル子はふと足を止めた。街の灯が琥珀色に染める中、どこからともなく香ばしい匂いが漂ってくる。鼻をくすぐるそれは、明らかに何かが焼ける音と、タレの焦げた匂いだった。
「さて、元首に会うのは何日かかかるって言ってたけど……」
ハル子の声に、胃がぐぅと反応する。
「とりあえずお腹すいたー!」
「では、あそこの酒屋で食事しましょうか」
アンドラスがすっと指をさした先には、風変わりな外観の建物があった。
軒先には木製のテーブルと椅子が並べられ、酒樽が山積みにされている。外壁には古びた帆布が貼られ、風に揺られてパタパタと音を立てていた。入口の上には、金属製の立体看板が据えられ、「レッドギア亭」と刻まれている。
「いいね!こういう海賊酒場みたいなやつ、好き!」
ハル子は足早に店へと入っていった。店内には酔客たちの賑やかな声と、鉄製のランプが放つ暖かな光が溢れている。柱や梁は木製で、空間全体には樽酒とスモーク香の混ざった懐かしい空気が漂っていた。
丸いテーブルに腰を下ろすと、さっそく一人の店員が近づいてきた。
見ると、店員は背丈の低いゴブリンの女性で、エプロンのポケットからメモ帳を取り出すと、しゃがれ声で言った。
「なんにするかい? あんたたち」
「とりあえず……ビール!」
ハル子は即答し、思わず笑みをこぼした。
やがて、木製のジョッキを手にしたゴブリンが戻ってくる。
「はいよっ!」
ドン、とジョッキがテーブルに置かれた瞬間、琥珀色の液体からふわりと立ち上る麦の香りが、ハル子の鼻をくすぐった。
(うわーーー、ビールとか久しぶりなんですけど!!)
ハル子は両手でジョッキをつかみ、一気に口元へ運ぶ。
ぐびっ、ぐびっ、と喉を鳴らして飲み干し――
「ぷふぁああああああ!!」
思わず声が漏れた。
口の中に広がるほろ苦さと、炭酸の刺激、そして微かに甘い香ばしさ――それらが一気に身体中を駆け抜けた。
「うっま!このビール、なんなん!? 完全に優勝やん!」
陶然とした表情で、ハル子はジョッキを抱きしめるようにして呟いた。
(この世界の食べ物と飲み物、ほんとに……うますぎるんよ!!)
そのときだった。店の奥、丸太で組まれたステージのような一角から、男たちの荒々しい歓声が響いてきた。
「うぉおおおおおっ!!」
「やぉおおおおおおっ!!」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
酒と肉と男臭さが充満したその空間で、ひときわ大きな声が上がる。
「勝者! グラン・パド・ドゥ!!」
場内の喧騒に混じって、甲高い、しかしよく通る少年のような声が響いた。
「さあさあ! 二百九十八連勝中! この鋼の腕を砕ける猛者はいるのかぁっ!!」
その言葉に、ハル子の興味がぴくりと反応した。
「……二百九十八連勝?」
興味をそそられ、ジョッキを置いたハル子は人だかりの間をかき分けて進む。店の中央、即席の舞台のように設けられた酒樽の上には、一人の屈強な男が仁王立ちしている。
それは、筋骨隆々のドワーフだった。白銀の髪と同色の顎髭を蓄え、上半身は裸。年齢を感じさせる皺が刻まれていながら、その身体から放たれる気迫と存在感は圧倒的だった。まるで鋼鉄を鍛えるために生まれたような男。
傍らには、丸帽子をかぶった見覚えのある少年が立っていた。彼が司会役のようだ。
「さあ勝てばニタヴェリル金貨百枚!!参加料は金貨一枚だよ!!!」
と、今度の挑戦者が声を張り上げた。
現れたのは、漆黒の肌を持つオーガの大男だった。巨体はドワーフの倍ほどもあり、背中にはタトゥーのような刻印が浮かび上がっている。挑戦料の金貨一枚を指で弾くと、カラン、と小気味よい音を立てて少年に渡した。
両者が酒樽の上に腕を置き、固く握手する。観衆が一斉に息を呑む。
「さあ、アームレスリング開始の合図だよ!」と少年。
「レディ……ファイト!!」
合図と同時に、ドワーフとオーガの筋肉が隆起した。まるで生き物のように脈打ち、血管が浮き出す。
ぐぅぅぅぅぅ……と酒場全体が沈黙に包まれる。
ハル子も思わず息を呑んだ。
(あのオーガ、マジででっかい……いけるの?)
しかし――
「う、うおおおおおおっ……がっ……!!」
オーガの顔が歪む。力の均衡が崩れ始める。
ぎぃぃぃ……ッ!!
わずかに傾いた腕の角度が、次第に確実にドワーフに押されていく。
そして――
バンッ!!
オーガの腕が板に叩きつけられたかのような音とともに、彼の巨体がバランスを崩し、背中から地面に転げ落ちた。
酒場が揺れるような歓声に包まれる。
「さあ、勝者ぁあああああ!! グラン・パド・ドゥ!!! 二百九十九連勝達成!!」
少年の声がこだますると、周囲の男たちは杯を掲げ、歓喜の雄叫びを上げた。
「グラン! グラン! グラン・パド・ドゥ!!」
ビールの余韻も吹き飛ぶような衝撃を受けつつ、彼女は胸を高鳴らせていた。
「次は三百連勝目前のボーナスだよ!!!なんと!勝者は金貨三百枚! そして参加料は金貨三枚だよ! さあ、だれか強者はおらんかい!」
少年の声が店中に響き渡ると、興奮冷めやらぬ観客たちの間にざわめきが走る。だが次の挑戦者は、なかなか名乗り出なかった。
その沈黙を破ったのは――
「私が相手になろう!!」
すっと人混みを割って前へ進み出たのは、一見ごく普通の女の子。どこにでもいそうな、その小柄な小娘の名は――ハル子。
「ぷっ……ふはははははは!!」
どっと笑いが起きた。男たちは酒で火照った顔を紅潮させ、腹を抱えて笑っている。
「なんだよ小娘!」
「踏み潰されるぞ!」
「グラン様に失礼だろ!」
だがハル子は一歩も引かず、懐から金貨三枚を取り出すと、くるくると指先で弾き、その少年に放った。
「そら、泣き虫アルベルト!」
少年は金貨をキャッチしながら、驚いたように目を丸くした。
「え……なんで僕の名前を……?」
呆然とつぶやくが、すぐに司会としての役目を思い出したのか、表情を引き締めて指を指す。
「さあ、ここに肘をついてください!」
木製の酒樽を指し示すと、ハル子とドワーフ――グラン・パド・ドゥは向かい合い、肘を置き、手を組んだ。
少女と筋骨隆々の巨漢。見れば見るほどアンバランスな組み合わせに、周囲の笑いはますます膨れ上がる。
「やば、腕の太さ3倍くらい違くね?」
「骨折れるぞあれ……」
誰もがハル子の敗北を確信していた。
「さあ、金貨三百枚を懸けた一戦、準備はいいですか!」
アルベルトの声が高らかに響く。
「レディ……ファイトォッ!!!」
――その瞬間。
ドゴーーーーーーーーーーンッ!!!
激しい衝撃音とともに、土煙が舞い上がった。酒樽が砕け、木片が宙を舞い、静寂が酒場を包み込む。
誰もが目を見開き、声を失っていた。
そして――煙の向こう、倒れていたのは。
筋肉の鎧を纏った男、アームレスリング無敗の英雄――グラン・パド・ドゥ。
彼は仰向けに倒れ、天井を見つめたまま、目をまん丸にしてぽかんと口を開けていた。
「……え?」
観客たちも、誰一人として動けない。
「な、なんだ今の……」
「グラン様が……一撃で……?」
「腕、砕けた音してね……?」
絶句の中、ハル子はそっと立ち上がり、パンパンと手を払ってから、にっこりと笑って言った。
「いや〜、ちょっと加減したんだけどなぁ……おっちゃん、骨大丈夫?」
静寂を破ったその一言に、酒場全体がようやく呼吸を取り戻す。
次の瞬間、嵐のような歓声が巻き起こった。
「ひ、姫ちゃんヤベええええ!!」
「人間じゃねぇ!」
「グランが! あのグランが負けたぁああ!!」
新たな伝説が、ここに誕生した。
「勝者は……あれ? お名前は……?」
土煙が晴れ、驚きと歓喜が渦巻く中、少年がハル子の腕を掴んで尋ねた。
「ハル子です!」
彼女は胸を張って、はっきりと名乗った。
「勝者はハル子ーーーーー!!! 金貨三百枚ゲットだーーーー!!!」
少年の声が酒場に響き渡る。
「わああああああああああああああああ!!!」
店中が揺れるほどの大歓声が巻き起こった。男たちはジョッキを高々と掲げ、酒を撒き散らして踊り狂う。
「ハル子! ハル子! ハル子!」
自然発生したコールが空気を震わせ、彼女の名を祝福のように繰り返した。
その時――。
「ハル子……ハル……???」
少年が、ぽつりとその名を繰り返した。
ハル子は一瞬だけ目を見開き、うっかり口を滑らせたことに気づく。
「あれ? ばれちゃった……?」
次の瞬間、少年の瞳が潤んだ。
「会いたかったです……!」
そして彼は、ハル子に抱きついてきた。小さな肩が震え、ぽろぽろと涙が彼女の服を濡らす。
「おい、アルベルト! その方を知っているのか?」
ドワーフのグラン・パド・ドゥが低く唸るように問いかける。
アルベルトは涙を拭いながら、顔を上げて答えた。
「はい……この方は、僕を帝国の地下牢から救ってくださった、命の恩人です!」
酒場が再び静まり返る。
その場の空気が、一変した。
「……ああ、そうか。貴方様が……」
グラン・パド・ドゥの顔に、深い尊敬の念が浮かんだ。
「なるほどのう。その強さ……合点がいったわい!」
そう言って、豪快に笑い出す。
「ガッハッハッハ!! あれほどの力、ただの旅人ではないと思ったわ!」
そして酒樽を拳で軽く叩きながら、
「早速、あやつ――シドにも伝えんとな!!」
と目を輝かせた。
突然の展開と、予想外の盛り上がりに、ハル子はただ、肩をすくめて小さく笑うしかなかった。
「ええっと……お騒がせしました……」
その小さな呟きも、観客たちの歓声にかき消された。