Chapter5【隠密】
それから十日が過ぎた。
柔らかな朝霧が魔王城を包み込む夜明け、静かに、しかし確かな決意とともに、魔王ハル子、四天王リヴァイア、そして仮面の従者アンドラスは、城を後にした。
隠密行動とあって、城の門を守る衛兵たちすら遠巻きにするなか、数名の幹部たちだけが、彼女らを見送っていた。
氷結のリリスは、震える手で両拳を握り締めながら、泣きそうな顔で言った。
「魔王様……どうか、ご無事で……ラ・ムウ様のこと、どうか……」
その声には、不安と祈りが滲んでいた。
ハル子はそんなリリスに優しく微笑むと、彼女の頭にそっと手を伸ばし、優しく撫でた。
「任せなさい。――必ず、無事に戻る」
それは魔王としての威厳と、どこか母性にも似た包容力を宿す言葉だった。
リリスの瞳に一筋の涙が浮かぶのを見送りつつ、ハル子たちはリヴァイアの眷属である巨大な竜にまたがった。
もっとも、"竜"と言っても、見た目は二足歩行の恐竜に近い。
鞍と手綱が取り付けられており、乗り心地も意外に安定している――そして、何より速い!
「リヴァイア、この眷族、とても速いな!」
ハル子が歓声を上げると、リヴァイアはちょっと気まずそうに答えた。
「ええ、眷属の中では最速でして……ただし、スタミナが皆無でして……」
「……まじか‥‥」
ハル子は内心、出鼻をくじかれた気分になった。
(意外と早く目的地に着けるかも、って期待したのに……)
それでも、南への旅立ちは胸を高鳴らせるものだった。
ハル子は手綱を握りながらふと思い出して尋ねる。
「そういえば、この眷族の名前は?」
「ラプトルです。正式名称は――ヴェロキラプトル、と申します」
(……え?ヴェロキラプトルって……ジュラシックワールド!?
知ってるんだけど、それ……!?)
心の中で盛大にツッコミを入れたが、口には出さなかった。
(似てるとかじゃなくて、本物じゃん……!)
── 恐竜の背に乗り、朝日を浴びながら大地を駆ける一行は、
やがて大きな湖の畔へと辿り着いた。
湖面は鏡のように空を映し、小さな港町の桟橋がぽつんと浮かんでいる。
竜から下馬し、手綱を渡して歩み寄ると、アンドラスが恭しく言った。
「魔王様、ここからは海路にて南下いたします。船をご用意しておりますので、どうぞご乗船を」
見れば、湖を渡るための立派な小型船が、桟橋に静かに揺れていた。
その手配の完璧さに感心しつつも、ハル子は堂々と頷いた。
「うむ、ご苦労であった」
魔王らしい威厳を忘れない――とはいえ、内心では(さすが仕事できるなあ)と感心しきりだった。
船に乗り込むと、帆が上がり、風を受けて南西へと滑り出す。
青空には一片の雲もなく、湖面から吹く風は心地よかった。
(うわ~、船って楽でいいなぁ……)
腰を下ろしたハル子は、旅の安堵を感じながら微笑む。
向かいにはリヴァイアとアンドラスも腰を下ろし、静かな時間が流れた。
そんな中、小さな蜘蛛がハル子の膝をちょこちょこと這ってきた。
リヴァイアがすぐに気づき、
「魔王様・・・お膝に蜘蛛が・・・」と言い
慌てて手を伸ばし潰そうとしかけたが、ハル子はすかさず制した。
「よせ・・・」
そっと手のひらに蜘蛛を載せ、窓の外へと逃がしてやる。
「朝の蜘蛛は縁起がいいと、昔、教わったのだ。無益な殺生は控えるのだ」
ふと、懐かしい親の言葉を思い出して口にする。
そしてもう一つ、ハル子は小さな物語を語り始めた。
「昔な、芥川龍之介という者がおった。その者の書いた『蜘蛛の糸』という話では、たった一匹の蜘蛛を助けたことが、地獄に落ちた者の救いになったのだ――と」
リヴァイアは目を細め、柔らかく笑った。
「ふふっ、アスタロト様みたいですね」
「ほう?アスタロトはどんな話をしたのだ?」
興味を持ったハル子に、リヴァイアは懐かしむように語った。
それは、オーガ族の伝説、人間という存在にまつわる忌まわしい記憶だった。
リヴァイアは、どこか遠い空を仰ぎながら、記憶の底を手繰るように語りだした。
「アスタロト様は……オーガ族のご出身でした。そして、根っからの人間嫌いだったと聞いています。たしか、こんな話だったかと……」
湖を渡る涼風が、ハル子たちの周囲をなでていく。
水面がきらめき、船底がきしむ音だけが静かに響いていた。
「昔……オーガが住む島があったそうです。
そこでは、子供たちにこう言い聞かせて育てたといいます——
“人間とは、我ら魔族の想像を絶する悪しき存在だと。
嫉妬、妬み、自己顕示欲に溺れ、仲間同士で血を流し、
果てには架空の神を名乗り、同族を生贄に差し出す。
そんな醜悪で巨悪な種族、それが人間族なのだ。
だから、悪い子は角が生えず、人間にされてしまうぞ”……と」
リヴァイアの語りは、まるで古い子守歌のように、悲しく胸に響いた。
「……そしてある日、若き武者が、犬、猿、雉を従えて島に現れたのです。
彼は鉢巻を締め、勇ましくも容赦なく、オーガ一族を討ち滅ぼし、
島の財産を根こそぎ奪っていったと……」
そこまで聞いて、ハル子は目を瞬かせた。
「あれ……これって、芥川龍之介の書いた『桃太郎』じゃん……」
思わず口をついて出た独り言に、リヴァイアはきょとんとしたが、
ハル子は(ほんと、この世界、日本と似すぎだよね……)と、
内心、ますます奇妙な感覚に包まれていた。
(それにしても、夢にしてはリアルすぎる……長すぎる……)
(これ、本当に夢なのかな……)
そんな風に考えていると、不意に、川岸の方角から騒がしい声が聞こえてきた。
「……あっちだ!追え!!」
距離にして三百メートルほど。
森の際あたりで、複数の人影が何かを追い立てている。
ハル子は身を乗り出すように立ち上がり、リヴァイアも鋭い目で眺める。
「あれは……帝国兵ですね。追われているのは……蜘蛛、でしょうか」
リヴァイアの報告に、ハル子は目を細めた。
確かに、銀灰色の蜘蛛のような生き物が必死に逃げ回っている。
だが、兵士たちは数の優位にものを言わせ、徐々に包囲網を縮めていた。
(……見過ごせないな)
ハル子は静かに、しかし確固たる決意とともにスキルを発動した。
背中から、黒く艶めく翼が一対、生え広がる。
次の瞬間、ハル子の体はふわりと宙へ浮かび上がった。
颯爽と空を切り裂き、彼女は帝国兵たちの前へと舞い降りた。
「なんだ……貴様は!」
動揺する兵士たちに向かって、ハル子は堂々と人差し指を突きつける。
漆黒のオーラをまとい、圧倒的な威圧感を放ちながら、静かに告げた。
「虫一匹に対して、この人数……恥を知れ。
そして今すぐ手を引け。命が惜しければな」
だが、帝国兵たちは嘲笑を浮かべた。
「へっ、珍味なんだよ、あの蜘蛛は!
たかが貴様一人に、黙って引き下がるかよ!」
兵士は7〜8人。
数にものを言わせる、卑小な強気。
それが人間というものだった。
ハル子は、静かに目を細めた。
「……やっぱり、そう来るか」
そう呟くと、小声で一言、合言葉のようにささやいた。
「ハチャトリアン」
その瞬間だった。
ハル子の身が霞み、閃光が走る。
刹那、一瞬。
帝国兵たちは、何が起きたのかもわからぬまま、ばたばたと地面に崩れ落ちた。
「おおっ、さすが魔王様!!」
船上から、リヴァイアの歓声が上がった。
そんな中、一匹の大きな蜘蛛が、ハル子に近づいてきた。
思っていたよりずっと大きく、全長二メートルはあった。
蜘蛛は、前脚を揃え、深々と頭を下げた。
「あの……助けていただき、誠にありがとうございます。
ご恩は、必ずお返しいたします。
……ただ今は急ぎ、父のもとへ戻らなければならず……これにて失礼いたします」
蜘蛛は礼儀正しく告げると、素早く森の中へ消えていった。
ハル子は、もう驚かなかった。
(この世界の生き物……喋るんだよね、普通に……)
半ばあきれつつ、背中の羽を大きく広げ、ふたたび船上へ飛び戻った。
「魔王様、あれは……私との戦いで見せなかった技ですね!
一瞬で帝国兵を制圧するとは……やはり、魔王様は偉大です!」
リヴァイアは尊敬の眼差しを向けるが、ハル子は心の中で小さくため息をついた。
(いや、あれ必殺っていうか、相手を気絶させる峰打ち剣みたいな技だし……)
(ほんと、魔王スキルって変なのばっかり……)
やがて、船は巨大な森にたどり着いた。
そこには古びた桟橋と、鬱蒼と広がる深い森。
空気は湿って重く、虫の羽音すら響かない。
下船したハル子たちに、アンドラスが冷静に進言した。
「ここからが本番です。
この森は“蟲王の森”と呼ばれ、誰一人として帰還した者はおりません。
迂回する場合は、西へ抜けて山を越えるルート。
しかし、こちらは登山家すら尻込みする難路です」
アンドラスは続けた。
「もう一つは東から海路を使うルート。
ただし、そこにあるトスカーナ大公国は、人間族の国です。
もはや帝国側に寝返っている可能性もあります」
一同が重苦しい沈黙に包まれる中、リヴァイアが朗々と割って入った。
「ふふん、ならば真ん中を突っ切ればいいじゃないか!」
ハル子とアンドラスは顔を見合わせた。
(……もしや、そう来るとは思ったけど……)
嫌な予感が、首筋を這い上がる。
「我らには、魔王軍最強と謳われた三名がいる!
蟲王?出てくるなら叩き潰して進めばいいだけの話だろう!」
リヴァイアは誇らしげに胸を張ると、
「さあ、行きましょう!」と、ずんずん森の中へ進み始めた。
ハル子は、ぐぬぬと呻いた。
押しに弱い——これが、彼女最大の弱点だった。
こうして魔王一行は、
生還者ゼロ、危険度極大の“蟲王の森”へと、足を踏み入れていく——。
(ああ、絶対ヤバいやつだよねこれ……)
ハル子は心の中で、そっと泣いた。
──続く。
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