Chapter49【都市アルマダ】
碧い海を切り裂いて進む大型帆船が、ようやく赤茶けた港へと静かに滑り込んだ。湾岸都市セランの港を旅立ってから二十日。幾度も波と風に揺られ、時に空と海の境すら見失うような日々を越えて——ハル子の乗る船は、目的地である「都市アルマダ」へと到着した。
「やっと……着いた……!」
甲板に立ち、潮風に揺れる髪を押さえながらハル子は小さく息をついた。久しぶりに見る陸地は、それだけで胸が高鳴る。海の上で過ごした時間が、まるで夢のように思えるほど、足元に広がる大地は温かく、懐かしかった。
アルマダの港は、赤レンガで統一された街並みがどこまでも続いていた。建物という建物が、整然とした赤のグラデーションを纏い、夕日に照らされてまるで巨大な炉の中にでも迷い込んだかのような印象を与える。細い石畳の道には、洒落た街灯が等間隔に立ち並び、薄明かりがまるで宝石のように瞬いていた。
ハル子は思わず目を見張った。
「ここ……なんだか、他の都市と違う……」
街灯の支柱や建物の窓枠に使われている金属は、見たこともない光沢を放っていた。青銅とも鉄とも異なるその材質は、どこか近未来的でありながら、どことなく温かみもある。無機質と有機的なものが調和して存在する、不思議な雰囲気。
この街は、今まで訪れたどの都市よりも「進んでいる」——そう感じずにはいられなかった。
船を降りると、ハル子たちはすぐにエルフ族の王子スランと合流した。出迎えに現れたスランは、相変わらず気品に満ちた佇まいで、優雅にハル子たちを迎え入れた。夜には小さな会食を予定しており、その待ち合わせ場所を軽く打ち合わせると、スランは一礼して去っていった。
「じゃあ、少し街を歩いてみようか」
アンドラスが軽く肩を竦めて笑い、ハル子はこくりと頷いた。
そしてふたりは、陽が傾き始めた都市アルマダの街へと足を踏み入れていった。
まるで異国の夢の中を歩くような、不思議で美しい街並みの中へ——。
アーチ型の門をくぐり、ハル子とアンドラスはアルマダの商店街へと足を踏み入れた。
そこには、今まで見たことのない品々が所狭しと並んでいた。精巧に彫刻された異国の工芸品、透明な瓶に封じられた光る液体、羽根のように軽そうな織物や、錆一つない奇妙な金属製の器具まで。目に映るものすべてが、異文化の香りと物語を帯びていた。
そして、道を行き交う人々の顔ぶれもまた、実に多彩だった。褐色の肌に金の瞳を持つ亜人、長い耳を揺らしながら歩くエルフ、ふさふさとした尻尾をぴょこんと跳ねさせる獣人たち。まるで種族の見本市のようで、この都市アルマダがいかに多様性に満ちているかを物語っていた。
「ほらほら見て!!! あれ! あの店、すごく面白そう! 入ってみよう!!」
好奇心が爆発したように、ハル子はアンドラスの手をぐいっと引いた。アンドラスは苦笑しつつも素直に従い、ふたりは鮮やかなブリキ細工の看板が掲げられた店の扉を押し開けた。
中に入ると、からくり仕掛けの小さなおもちゃたちが、棚という棚を埋め尽くしていた。ネジを巻けば歩き出す兵隊人形、羽ばたく小鳥、転げ回る金属製の猫……そのどれもが見事な造形と繊細な動きで、今にも命を持ちそうなほどリアルだった。
「いらっしゃいませ」
奥から聞こえてきた低く朗らかな声に、ハル子が顔を上げる。そこにいたのは、ずんぐりとした体型にふさふさの髭を蓄えたドワーフの店員だった。鉄と油の香りを纏いながら、満足げな笑みを浮かべている。
「うわぁ……これ、全部動くんですか?」
ハル子の目は、まるで子供のように輝いていた。棚のひとつに並べられた自動演奏のオルゴールを見つけ、そっと指で触れるその仕草は、まるで宝物に出会った少女のようだった。
「まるで子供のようですね! お客様!」
ドワーフの店員が、にこにこと話しかける。
「この世界に来て……こんな物を見るのは初めてで……つい、夢中になっちゃって」
頬を赤らめ、ハル子ははにかんだように笑った。その表情に、アンドラスもどこか微笑ましそうな視線を向けている。
やがてふたりは店を出て、商店街の通りを再び歩き始めた。ふと鼻をくすぐる香ばしい匂いに引き寄せられて足を止めると、目の前には見慣れぬ屋台があった。
串に刺された大きな肉の塊が、炭火の上でじゅうじゅうと音を立てている。異国の香辛料がまぶされ、焼けるたびに煙が踊り、見る者の食欲を容赦なく刺激した。
「いただきます!」
ハル子は迷わず手を伸ばし、熱々の串肉にかぶりついた。
「んん〜〜っ! 美味しいっ……!」
頬をいっぱいにふくらませ、幸せそうに笑うその姿は、旅先で心から楽しんでいる一人の少女だった。
陽が傾く都市アルマダの商店街。その赤煉瓦の街に、ハル子の明るい笑い声が、こだましていた。
夜の帳が降りる頃、街灯の光が石畳に柔らかく反射し、都市アルマダは昼とは違う顔を見せていた。温かい灯が静かに灯る路地を抜け、ハル子とアンドラスは、エルフたちとの夕食の約束をしていた店へと足を運んだ。
木製の扉を押すと、小さな鐘の音が澄んだ音色で響いた。
カランカラン——
「こんばんは……」
ハル子が恐る恐る店内へと足を踏み入れると、そこには信じられない光景が広がっていた。
エルフ、エルフ、そしてまたエルフ——。見渡す限り、美しい銀髪や長耳の一族が整然と席に着き、ハル子たちを待っていた。店内は煌びやかな装飾と香ばしい料理の香りに包まれており、まるで王族の晩餐会のような厳かな雰囲気すら漂っている。
「え……貸し切り……!?」
驚きと戸惑いが声になって漏れる。一般客の姿は一人もなく、この広い店内がエルフたちによって埋め尽くされていることに、ハル子はただ目を見張るしかなかった。
「はい、このたびハル子様は、我が王子を救ってくださった。ゆえに、本日は一同で盛大におもてなししようということになりまして!」
白銀の髪を後ろに束ねた若いエルフが、誇らしげに胸を張って説明した。
その時だった。
「ハル子様!!」
店内の奥から、朗らかな声が響く。声の主は、王子スランの妹——リリだった。透き通るような翡翠色の瞳が輝き、彼女はスカートの裾を揺らして駆け寄ってくる。
「こっちです!! 早く早く!」
リリは遠慮のない笑顔でハル子の手を取り、そのまま店の奥の特等席へと導いた。アンドラスが静かに後ろをついてくる。
その先にあったテーブルには、色鮮やかな料理の数々が並べられていた。香ばしく焼かれた肉、ハーブの香りが漂うサラダ、金色に輝くスープ、そして不思議な色の果実酒——。まるで物語の中の祝宴のようだった。
席に着くと、なんとハル子の右隣には王子スランが座っていた。相変わらず気品に満ちた佇まいで、微笑みながら静かにグラスを掲げる。
「ようこそ、ハル子殿。あなたのおかげで、我らが再び希望を持つことができました」
そう言って、彼の前に置かれたワイングラスに、琥珀色の液体が静かに注がれる。次いでハル子のグラスにも、同じワインが満たされた。
香りは芳醇で、少し甘く、それでいてどこか懐かしい。
ハル子は小さく深呼吸しながら、グラスをそっと持ち上げた。
スラン王子が立ち上がると、その場にいたすべてのエルフたちも一斉に腰を上げた。店内には一瞬、神殿のような厳かな静けさが訪れ、ワインの注がれたグラスが一斉に高く掲げられる。
「では——我が命の恩人である、ハル子殿に——」
王子の声が、穏やかでありながらも堂々と響き渡る。
「乾杯!」
その言葉を合図に、エルフたちが一斉にグラスを傾け、透き通るような琥珀色のワインを一気に喉へ流し込んだ。光を受けてきらめくその光景は、まるで舞台の一幕のように幻想的で、ハル子は思わず息をのむ。
続いて自分も手にしたグラスを、口元へと運ぶ。
軽やかな香りが鼻をくすぐり、芳醇な葡萄の味わいが舌に広がる。喉をすべるたび、柔らかな酸味と甘みが心地よく余韻を残し、体の奥まで温かく満たされていく。
「……美味しいっ!」
ハル子は思わずにっこりと笑い、感動を素直に言葉にした。
「お口に合って、何よりです」
スラン王子が静かに微笑み、姿勢を正して軽く頷いた。その所作一つひとつに気品があり、彼がただの貴族ではないことを、改めて実感させられる。
ワインの余韻が残る中、王子はふと話題を変えた。
「そういえば……ハル子殿は、ニタヴェリル共和国に入国したいと、船上でお話しされていましたね?」
その言葉に、ハル子は少しだけ表情を曇らせた。
「はい。でも……入国審査がかなり厳しいって聞いたんです。だからどうしようかと」
唇をきゅっと結び、困ったように目を伏せるハル子。しかし、スラン王子はその不安を包み込むような笑顔で応えた。
「ご安心を。私はニタヴェリル共和国の評議会議員でもあります。私と共に入国すれば、何の問題もございません。しかも……私の命を救ってくださった功績をもってすれば、共和国の元首から、きっと何らかの褒美も授けられるでしょう」
それはもはや保証に近い言葉だった。
「本当ですか!? それは……本当に助かります!」
ハル子の顔がぱっと明るくなった。喜びが全身に溢れ出し、肩の力が一気に抜けたように感じる。
「それは良かった」
スランは穏やかに頷き、グラスの中のワインをひと口、ゆっくりと楽しむ。
宴はその後も続いた。テーブルには次々と料理が運ばれ、肉は香ばしく焼かれ、野菜は新鮮なまま鮮やかな色彩を放ち、目でも舌でも楽しめる一品ばかりだった。
ハル子は何度も「美味しい!」と声を上げ、アンドラスは苦笑しながらも、それを温かく見守っていた。
気づけば夜は更けていたが、その笑顔と賑やかな語らいが、まるでこの街に祝福をもたらしているかのようだった。
その夜、ハル子はひとときの平穏と温かさに包まれながら、エルフたちとの心の距離を少しずつ縮めていくのだった——。
翌朝。都市アルマダの空は、薄雲がかかりながらも清々しい青に染まっていた。
ハル子はアンドラスと共に、街の中心部へと足を運んでいた。目的地は、飛空艇の発着場。都市の喧騒から少し離れたその場所は、すでに多くの旅人たちで賑わいを見せていた。
視界の先に、巨大な飛空艇が停泊していた。
「……あれが……飛空艇……」
ハル子は思わず言葉を飲んだ。
ゴゴゴゴゴゴゴ……
地面まで震わせるような低音が、空気を振動させている。その飛空艇は見た目こそ巨大な木造の船のようであったが、帆はどこにも見当たらない。その代わり、船体上部にいくつもの巨大なプロペラが上へと向けて取り付けられており、ゆっくりと回転しながら風を切っていた。
後部には、まるで鋼鉄の城塞のような機関部があり、厚い鉄板で覆われた装甲の隙間から、蒸気の唸りと振動が漏れ出していた。そこから伸びる六本の煙突が、斜め上に突き出る形で空へと伸び、黒煙を黙々と吐き出している。
まるで別世界の工業魔導兵器——。その迫力と存在感に、ハル子は言葉を失って立ち尽くした。
発着場の前では、数十人の人々が列を作り、手にパスポートのようなものを掲げて係官に提示していた。民族も装いもバラバラで、この飛空艇がいかに国際的な交通手段であるかを物語っている。
そのときだった。
周囲がざわめいた。
足音も軽やかに現れたのは、見覚えのある一団——エルフ族の一行だった。その中でもひときわ目を引くのは、やはり王子スラン。陽光に輝くエメラルド色の髪、整った顔立ちと気品ある物腰で、彼は堂々と歩み寄ってきた。
「やあ。待たせたね、ハル子殿」
柔らかな笑みを浮かべながら、彼は優雅に歩み寄る。その声はまるで春風のように優しく、しかし胸の奥をくすぐるような余韻を残した。
「い、いえっ! いま来たばかりですっ!」
慌てて答えるハル子の声が、ほんの少し裏返った。顔がじんわり熱くなるのを感じながら、彼女は目を逸らす。
——その笑顔、ズルすぎるって……。
心の中で呟きながら、ハル子はそっと拳を握りしめた。
(くぅぅぅっ……蟲王ルイ殿――――!! いまだけ……ほんの少しだけ……推しをスラン殿に浮気させてくださいっ!)
思考の中で土下座しながらも、心臓の鼓動はどんどん高鳴っていく。
飛空艇はすでに出発準備に入り、搭乗を待つばかりとなっていた。
「さあ、こちらへ」
スラン王子が手を差し伸べ、ハル子を乗船検問所の方へと導いた。背筋を伸ばしたまま歩く彼の姿は、どこか誇り高い騎士のようにも見え、ハル子はついて行きながらも思わず背筋を正してしまう。
だが、列の前に近づいたとき、ふと不安が胸をよぎった。
「あれ、私……パスも切符も持ってないんですけど……」
不安そうにスランに耳打ちすると、彼はくすっと笑い、軽く肩をすくめた。
「心配いりません。すでに手配してありますよ」
その言葉の直後だった。
「ああ、ワイゼン様はこちらへ」
係員が一礼しながら、一般の列から分かれた専用通路へと彼らを案内した。その道は赤絨毯こそ敷かれていないが、明らかに別格の対応だ。
(うわああ……顔パスに、別ルート……完全にVIPじゃん!!)
心の中で叫びながら、ハル子は無意識に胸を張っていた。王子の後ろについて歩くだけで、まるで自分も特別な存在になったような気がした。
階段を上り、船内に足を踏み入れた瞬間、シュウウウウウウ……!と蒸気の音が周囲を満たした。金属の配管が複雑に入り組み、蒸気が絶えず脈動している空間はまさに“空飛ぶ機関都市”といった趣だった。
「すごい音……会話もまともにできないね」
ハル子が驚いたように言うと、アンドラスも苦笑しながら頷いた。
「ええ……私もこのような飛空艇は初めてで……正直、ちょっと怖いですね」
会話を断ち切るように、さらに大きな蒸気のうねりが船内を揺らした。ハル子は思わず飛空艇の上部、デッキへと足を進めた。
そこは、古びた木の板張りの床が広がり、風が自由に通り抜ける空間だった。足元を見れば、板の隙間から下の世界がちらりと覗き見え、その不安定な感覚に思わず手すりを握る。
「この巨体……本当に飛ぶのかな……?」
不安そうに呟いたその声に、アンドラスも同じように空を見上げて答えた。
「私も……ちょっと信じられませんね……」
その瞬間——
ゴオオオオオオオオオオオ……!
ピィィィィィィィィィ……!
出航を知らせるサイレンが轟いた。プロペラが轟音と共に回転を強め、地面が揺れたかと思うと、飛空艇の巨体がゆっくりと浮かび上がり始めた。
「わわっ……う、浮いてる!!」
柵にしがみつきながら、ハル子は叫んだ。重力が少しずつ遠のいていく感覚。足元から都市アルマダの街並みが小さくなっていく。視界の先には、広がる雲の海。そしてついに——
飛空艇は雲の上にたどり着いた。
朝日が静かに雲を照らしている。金と白のグラデーションが果てしなく広がり、飛空艇はその雲海の上をゆっくりと進んでいた。まるで空を割って進む神話の船のように。
「……きれい……」
思わずこぼれたその言葉に、誰も応えなかった。ただ、風の音と蒸気の唸り、そして雲のきらめきが、答えの代わりとなってハル子の頬を撫でた。
その瞳には、まるで子供のような純粋な輝きが宿っていた。




