Chapter48【エルフ】
ハル子とアンドラスは、都市アルマダを目指して、帆船に乗り込み出航した。
その船は三本の帆を備えた大型帆船で、乗客のほかにも多種多様な貨物を積み込んでいた。船は穏やかな海を、海岸線に沿ってゆったりと進んでいく。
東の水平線の向こうには、ログエル王国の大陸が広がっているのだという。
かつて出会ったアーサー王の姿がふと思い起こされ、ハル子は遠くその方角を見つめていた。
空は青く澄み、海は深く透きとおっている。
かつて地球で見た海とは比べものにならないほど、美しく、神秘的だった。
「ここはソロモン海域って呼ばれております」
アンドラスが船縁から身を乗り出すようにして言った。
「比較的に穏やかだと聞いてるけど……」
ハル子はうなずいた。
このソロモン海域の北には、バルト海域という、海獣たちの棲み処として恐れられる海域が隣接している。
ごくまれにではあるが、そこから海獣が南下してくることもあるという──
「ねえアンドラス……海獣って、どれくらい大きいのかな?」
と、ハル子が海を見つめながら問いかけた。
「さあ……。この船を一口で飲み込むほどだと言われていますから、少なくとも数十倍以上の大きさはあるでしょうね」
アンドラスは相変わらず冷静な口調で答える。
「へえ、そんなに大きいんだ……見てみたいなあ」
ハル子は無邪気な笑みを浮かべた。
「もし見かけたら、この船はきっと食べられてしまいますよ……」
とアンドラスが淡々と告げる。
「それは困ったね~」
と、ハル子は笑いながら肩をすくめた。
その時、進行方向の先に別の帆船が見えてきた。中型の船のようだ。
「あの船……これより少し小さいかな」
とハル子が目を細めて言うと、
「ええ。こちらの方が速度も少し速いようです」
とアンドラスが頷いた。
そして続けてこう説明する。
「都市セランと都市アルマダの間には、まだ陸路が整っていないんです。だから、今は船便だけが唯一の交通手段になっていて、帆船の往来も多いんでしょうね」
「陸続きなのに、まるで島みたいだね~」
ハル子は楽しげに言い、風に髪をなびかせながら、水平線の向こうを見つめた。
すると、海面からぶしゅうっと激しい水柱が吹き上がった。
「すご〜い!!!!! 鯨かな〜!?」
ハル子は目を輝かせて身を乗り出した。
だが、その“鯨”はただの海洋生物ではなかった。
海面にゆっくりと、しかし確実に、その巨体が姿を現していく。
……大きい。
大きすぎる。
白銀の体躯を持つその怪物は、まるで鯨に似た形をしていたが、どこか異様で、自然の生物とは思えない圧倒的な存在感を放っていた。
カンカンカンカンカン――!
突然、甲板にけたたましい警報が鳴り響く。
船員たちが一斉に動揺し、慌ただしく走り回った。
「アルバだ……っ! 海獣アルバが現れたぞ!!」
その声を聞いたハル子は、ますます目を輝かせた。
「見て見て! 本物の海獣だよ!!!」
まるで珍しい動物園の動物でも見つけたかのように、無邪気に声を上げる。
海上を滑るように進むその“アルバ”の姿は、まさに神話に出てくる海の魔物そのものだった。
白く滑らかな肌に、うねるような流線形の身体。
その体長は――五百メートルを優に超えている。
まだ数キロ先ではあるが、アルバは前方の中型帆船に向けてまっすぐ進んでいた。
その巨体が進むたび、海は盛り上がり、船は揺れた。
アンドラスは鋭く目を細めて言った。
「……これはまずい。あの船、逃げ切れないかもしれません」
そして――海獣アルバが大きく口を開いた。
ガシャアアアーーーーーンッ!!!
轟音とともに、前方を進んでいた中型帆船の後部が丸ごとアルバの口の中へと吸い込まれた。
木片が空中へと飛び散り、船体が裂ける音が響き渡る。
幾人もの人影が、まるで人形のように宙へ舞い上がった。
「……あ、あれは……」
とハル子が呆然と呟いた。
「エルフ族ですね」
アンドラスが鋭く応えた。
その声には、いつになく緊張が滲んでいる。
空を舞うエルフたちは、悲鳴を上げながら宙で身を翻し、即座に弓を構えた。
矢が次々と放たれ、海獣アルバの白い巨体に突き刺さる。
だが――。
その攻撃は、あまりにも無力だった。
無数の矢が刺さっているにもかかわらず、アルバはまるで蚊に刺された程度の反応すら見せなかった。
「仲間が……呑み込まれたのかな?」
ハル子がぽつりと呟く。
「……そうみたいですね。あの混乱ぶりを見る限り、間違いないでしょう」
とアンドラスは答えた。
アルバはなおも海を進み、破壊された帆船の残骸を押し分けながら、次の獲物を探すように頭をもたげた。
その瞳に、ハル子たちの乗る帆船が映ったかのように――
すると、ハル子はふいに船の先端に立ち、軽やかに――だが大胆に――海へと跳び込んだ。
「ま、魔王様ーーーーーッ!!!」
アンドラスが思わず叫ぶ。
バッサ、バッサ、バッサ――!
宙を舞うハル子の背中から、黒く巨大な羽が展開し、力強く羽ばたいた。
見た目は普通の女の子――だが、その羽が広がる姿は、まさに“異形”。
天使のようであり、悪魔のようでもある。
ハル子は振り返り、ニコリと微笑んだ。
「じゃあ……ちょっと助けてくるね♪」
そう言うと、アルバの方へと一直線に飛翔した。
海獣アルバの上空へと到達すると、眼下に広がるその姿に目を見開く。
「うわぁ……でっか。間近で見ると、ホントすごいな……」
ハル子は思わず感嘆の声を漏らす。
そして――空中で姿勢を整えると、真剣な表情に切り替わる。
「さてと……いきなり全力で行きますか!」
息を深く吸い込み、拳を高く掲げ、叫んだ。
「オメガアタック!!!」
その瞬間、ハル子の全身が赤黒い濃密なオーラに包まれた。
まるで地獄の炎のようなそのエネルギーが、空気を震わせる。
「おらあああああああああああッ!!!!!」
咆哮と共に、ハル子の拳が海獣アルバの頭頂部へと振り下ろされる――!
ズドォォォォォン!!!
轟音と共に、衝撃波が海面に放たれ、波が爆発的に広がる。
ぐぎゃああああああああッッ!!!
アルバが雄叫びを上げ、大きく口を開いた。
その口から、船の残骸、人影、そしてかつて飲み込んだものたちが、ごぽっと吐き出され、海面へと叩きつけられるように放出された。
漂う木片の中に、複数のエルフたちの姿があった。
彼らは咳き込みながらも、必死に海上に浮かび上がろうとしていた。
船上のアンドラスがその様子を見て、息を呑む。
「まさか……一撃で、海獣アルバにダメージを……?」
”それ……”を見たハル子は、すぐさま海中に投げ出された人影に向かって羽ばたいた。
沈んでいくその人物は、明らかに他のエルフとは異なる存在感を放っていた。
水中でもなお輝くエメラルド色の長髪が波間に揺れ、金の刺繍が施された深緑の服がふわりと広がっている。
腕や首には繊細な装飾品が輝いており、まるで貴族――いや、王族のような風格を漂わせていた。
「――っ!」
ハル子は躊躇なく海へと飛び込み、すいっと彼のもとへと泳いでいった。
素早くその身体を抱きかかえると、海面へと浮上する。
水を割って現れた瞬間、近くにいた他のエルフたちが彼女の姿に気づき、ざわめいた。
「おおお……王子!!!」
(え……王子!?!?)
ハル子は一瞬ぽかんとしながらも、すぐに状況を理解しようとする。
(このキラキラした服……まじで王子っぽいが……)
だが今は問いただしている暇などない。
背後では自分の乗っていた船が徐々に近づいてきていた。
ハル子はエルフたちに向かって大声で言った。
「後ろから私が乗っていた船が来てます! 彼をそちらに運びますので、ついてきてください!」
エルフたちは迷うことなく頷き、ハル子の後に続いた。
その目には、警戒と感謝、そして――希望の光が宿っていた。
…
船に辿り着いたハル子は、慎重にそのエルフ――を甲板に寝かせた。
すぐに駆け寄ってきたのは、まだ若いエルフの少女。
長い髪に薄緑色のリボンを結び、瞳に涙をたたえている。
「スラン兄さん……!」
少女は震える声で呼びかけ、王子の傍らにひざまずいた。
アンドラスが状況を確認し、冷静に言った。
「……大量の海水を飲んでいます。意識もない。危険な状態です」
「人工呼吸だ!!」
ハル子が即座に叫んだ。
その言葉に、エルフたちはもちろん、船の乗員たちまでもがきょとんと目を丸くした。
(……まさか、この世界には人工呼吸の概念がない!?)
「……なら、私がやるしかない!」
ハル子は膝をつき、ためらわずスラン王子に人工呼吸を施した。
息を吹き込み、胸の動きを確認し、再び息を――。
数秒後――。
「グハッ!!」
王子の身体が震え、口から勢いよく海水を吐き出した。
「兄さん!!」
少女が叫び、スランの胸にしがみついた。
「……リリ……?」
スラン王子がかすれた声で呟く。
その瞬間――。
周囲にいた約二十名のエルフたちが、声にならない声を上げ、拍手と歓声を巻き起こした。
「王子がご無事だ!」
「奇跡だ……!」
「命を救ったのは、あの黒い羽の少女……!」
やがて、それは船の乗客たちにも波及した。
「おい、あれを見たか!? あの子が……」
「まるで天使みたいだ! 羽は黒いけど!」
「何者なんだ……?」
甲板がざわめきに包まれ、ハル子の名は、たちまち船中に広まっていった。
「この御方がお救いになられたのです!」
リリが振り返り、堂々とハル子を指し示した。
その視線を受けて、王子――スランが静かに顔を上げ、かすれた声で尋ねた。
「……お名前を、お聞きしても?」
咄嗟にハル子は背筋を伸ばし、
「は……ハル子です」
と、少しぎこちなく答えた。
するとスランは、ゆっくりと微笑みながら口を開いた。
「ハル子殿……あなたは、私の命の恩人です。
私は旧アルフレイム精霊国の王の子、スランドゥイル・ツィゴイネル・ワイゼンと申します。
お気軽に、スランとお呼びください」
その隣で、リリが深く頭を下げた。
「私はスランの妹、リリ・ブーランジェ・ワイゼンと申します。
このたびは兄をお救いいただき、心より感謝申し上げます……!」
その瞳には涙が光っていた。
「は、はは……」
ハル子は照れ笑いしながら後ろ頭をかいた。
だが内心では、
(うわ~……またイケメン登場だよ!
ていうか私、この王子に口づけしたんだよね……人工呼吸ってやつで……!)
と、顔を真っ赤にしていた。
その頬を夕日が優しく照らし、赤らんだ表情がさらに朱に染まった。
風に揺れる黒い羽も、どこか神秘的な輝きを帯びていた。
そのとき――。
視線の先、海の向こうには、白く巨大な海獣が悠々と北へ泳ぎ去っていく姿があった。
それは、ハル子の拳を受けて退いたアルバ。
沈みゆく夕日を受け、アルバの白い巨体は淡くピンク色に染まり、海と空の間に幻想的なシルエットを描いていた。
誰もがその光景に息をのんだ。
船上では、今だ鳴りやまない歓喜の声と波の音だけが響いていた。




