Chapter47【筑前守】
夕暮れの空が、かすかに茜色に染まり始めていた。風には鉄と血の匂いがまだ残っている。だが戦は終わった——ハル子とアンドラスは、沈黙を纏った戦場を背に、インペラトル皇国の本陣へと向かっていた。
本陣は巨大な陣幕に囲まれ、周囲には重厚な甲冑を身に着けた兵たちが警戒を続けている。近づくと、やがて一人の武者が姿を現した。その姿は威風堂々で、煌びやかな金の縁取りがされた黒漆の兜を戴き、まるで歴史書から抜け出してきたかのようだった。
「……あ。貴方が、敵総大将、ウコバクを討ち取った方であったか」
低く落ち着いた声。だがその視線には一瞬の警戒と畏敬が宿っていた。
「……あ、はい……」
ハル子は思わず気まずそうに答える。未だ戦の熱が残る中、己の立ち位置すら定かではないこの状況に、戸惑いが消えなかった。
「では、こちらへ」
武者は無言のまま、静かに陣幕の奥へと導いた。
本陣の中は驚くほど静かで、空気が張りつめていた。中央には豪奢な毛氈が敷かれ、その先に座すひときわ異彩を放つ男がいた。
隻眼に眼帯を巻き、残された片目には鋭い光が宿っている。
「我が名はインペラトル皇国の大将、惟任日向守と申す!此度の戦、実に見事であった」
低く、だがよく通る声で言った。そしてハル子の顔をじっと見据える。
「そちらの御仁……名は何と申される?」
「えっ、あ、ハル子です!」
思わず反射で答えてしまい、すぐに後悔した。
(しまった、もっとこう……偉そうに言えばよかったんじゃ……?)
すると惟任日向守の表情が一変し、鋭く叫ぶように言い放った。
「その侍、ハル子殿!そなたを、敵大将を討ち取った褒美として、インペラトル皇国の『部将』の位を授ける!さらに——“筑前守”と名乗るがよい!」
「え……なに、ぶしょう? ちく……ぜんのかみ……?」
ハル子の顔がひきつる。戦の功績とか、位とか、なんで私が突然、守護大名みたいな称号を受けてるの!?
その様子を見て、後方からくすくすと笑い声が漏れた。カイとクイである。
「おめでとうございます、“筑前守”様」
カイはからかうような口調で、わざとらしく頭を下げた。
「出世なさいましたね、ハル子様。次は大老ですか?」
クイも悪戯っぽく微笑みながら、茶目っ気たっぷりに声をかけた。
自身の想像を超えた戦争も、魔王軍内のやりとりも何度も体験してきたが、
——今ほど「わけがわからない」と思った瞬間はなかった。
祝声とどよめきの残響が陣幕の内にこだまする中、ハル子はクイとカイに手招きされ、本陣の横手にある控えの空間へと連れ出された。そこは人目を避けるように設けられた小さな帳の裏。焚火の火がちらちらと揺れ、辺りはどこか幻想的な空気に包まれている。
クイは扇子を片手に、焚火の赤に照らされた顔でにやりと笑った。
「ふふふ、面白かったぞ。ハルよ……」
「そうですねぇ!」
カイも笑いながら腰を掛けた。「その小娘の姿、一瞬誰だか分かりませんでしたよ!」
ハル子はぴくりと眉を動かし、火を見つめながら低く呟いた。
「……なぜ、わかったんだ?」
クイは目を細め、扇子をひらりと振った。
「だってね。あなたの指揮の仕方……あまりにも、我が主君に似ていたからだ」
「我が主君?」
ハル子は聞き返す。どこか胸騒ぎを感じながら。
「そう。我らがかつて仕えていたお方——魔王軍四天王、アスタロト様です」
一瞬、風が揺れた。火の粉がぱち、と音を立てて宙に舞う。
「……アスタロト……?」
「そう」
クイの声にはどこか懐かしさと、そして哀しみが滲んでいた。
「私たちは、その御方の副軍団長だった。誇り高き魔王軍の一翼を担っていたのですよ」
「ですが……」とカイが言葉を継ぐ。「主君は聖ルルイエ帝国のミカエルによって討たれ、軍は壊滅。私たちも追われる身となりました。あの時、全てが終わったかに見えました」
「しかし今は、インペラトル皇国の大将軍、伊勢双水様の配下としてこの国に仕えているのです」
クイは微笑みながら言ったが、その目はどこか遠くを見ていた。
ハル子は言葉を失っていた。自分が知らない場所で、自分が知らない戦いが確かに存在し、そこで散っていった者たちがいた。そして彼らは今、自分の目の前に——かつての四天王に似た何かを見出している。
「……アスタロト、か」
ハル子はぽつりと呟いた。焚き火の赤い光が、彼女の瞳の奥に小さな影を落とした。
焚き火のパチ、パチという音が、静かな夜に心地よく響く。
周囲はすっかり暗くなり、本陣のざわめきも遠くなっていた。クイとカイに挟まれたハル子は、少し肩の力を抜いて、火の揺らぎを見つめていた。
そのとき、カイが少しだけ真面目な顔をして口を開いた。
「そうだ、ハル殿……いや、ハル子様。正式に自己紹介をしておりませんでしたね」
焚き火の光が、彼の角張った輪郭を柔らかく照らす。
「俺は、カイナシェル・グランバートと申します。鬼人族になります。あ、でも……今まで通り、“カイ”でいいですよ!」
そう言って、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「では、私も」
隣でクイが背筋を伸ばしながら続けた。
「私は、クイナバルシュ・シュベルツ。同じく鬼人族で、カイとは義兄弟の契りを交わした仲にございます」
「義兄弟……」
ハル子は小さく呟いた。異世界らしい重みのある言葉に、一瞬だけ言葉を失った。
「ふふふ。何も血は繋がっておらんよ。ただの誓いだ」
クイは肩をすくめるようにして笑った。
そのまま、カイが冗談めかして言った。
「それにしても、ハル子様の指揮ぶりはアスタロト様そっくりですよ!」
「そうなのか……」
ハル子は微妙な表情で火を見つめたまま答えたが、その心の中では——
(いや……それ、完全に前の職場の松中副部長のせいなんだよな~)
脳裏に浮かぶのは、スーツにネクタイ、眼鏡の奥でキラリと光る眼を持つ中間管理職、松中副部長。
(戦国時代マニアでさぁ……戦国だけじゃなくて、始皇帝やら三国志やら、毎日昼休みに講義みたいに語ってきたんだよなあ……。営業部の打ち合わせでも「敵将の兵糧攻めをせよ!」とか言い出す始末で……)
懐かしいというより、ややトラウマ気味な記憶を思い出しつつ、ハル子はため息をついた。
(まさかそれが、こんな世界で役に立つとは……誰も思わんて)
「ん? どうかなさいましたか?」
クイが首をかしげて尋ねる。
「い、いや……なんでもない。ちょっと昔のことを思い出しただけだよ」
とハル子はごまかすように笑った。
二人は特に深く追及せず、また火を見つめる。
焚火の炎が小さく揺れる。夜の帳の中、星は雲に隠れ、風が冷たくなってきていた。
カイが、少し声を落として問いかけた。
「……ハル子様は、インペラトル皇国の本国にいらっしゃるのですか?」
その問いに、ハル子は首を横に振った。
「いや……私らは、ニタヴェリル共和国へ行く予定なんだ」
その名を聞いた瞬間、クイの表情が翳った。焚火の赤に染まったその横顔が、わずかにうつむく。
「ニタヴェリル共和国……」
彼の声は低く、まるで呪文のようだった。
ハル子は眉をひそめた。
「……なにか、問題でも?」
クイはすぐには答えなかったが、やがて静かに語りはじめた。
「いや……あの場所は、“見捨てられし都”と呼ばれている。入国さえも困難だと聞く」
「え、普通に入れないのか?」
思わずハル子が聞き返す。彼女にとって、“共和国”と聞けば自由と平等のイメージが浮かぶが、どうやらこの世界では違うらしい。
「……あの地には、かつて各地で帝国に虐げられ、迫害され、居場所を追われた民が集まってできたのだ。ドワーフ、ゴブリン、オーク……最近では、エルフまでもがその中に加わったと聞く」
クイの言葉には、どこか過去への悔恨と同情が滲んでいた。
「そうした経緯から、外部からの者に対しては非常に警戒心が強い。入国審査は厳重で、通行証のない者は門前払いだ」
「……そうか」
ハル子は軽くため息をついた。やはり、簡単にはいかないか。
すると今度は、カイが焚火を見つめたまま口を開いた。
「それに……あそこへは、普通に“行く”ことすらできない」
「どういう意味だ?」と傍にいたアンドラスが首をかしげた。
カイは少し首をすくめてから言った。
「陸路は、北に“腐敗の森”が広がっている。常に毒の瘴気が漂い、生き物は数刻もすれば命を落とす。仮にそれを抜けたとしても、この国で最も険しい山脈“雲穿ちの峰々”が壁のように立ちはだかる」
「では、海路は?」
今度はアンドラスが食い気味に問う。
カイの顔がわずかに曇った。
「海路も……厳しい。バルト海域には、“アルバ”と呼ばれる白く巨大な海獣が棲みついていて、これまで何隻もの船が奴に喰われた。しかもその海域は、渦潮と激しい海流が絶えず発生していて、船をまともに進ませることすらできないんだ」
「つまり……」
ハル子がまとめるように言う。「行く方法も、入る方法も、すべてが閉ざされているってことか」
ハル子はふと、笑った。小さく、しかし確信を帯びた声で。
「……面白いじゃないか。そういう困難なところこそ、行きがいがあるってもんだろ?」
その言葉に、クイとカイは目を見合わせ、やがて笑った。
「さすが、ハル子様だ」
「ほんと、アスタロト様を思い出すよ……」
そんな会話の中
「実はね、一つだけ行く方法があるんだ」
とクイは静かに目を細め、少しだけ得意げに笑った。
「それは……空路だよ」
「空路?」
ハル子は目を瞬かせる。
「そう。ここ湾岸都市セランから船で北上し、港町アルマダへ向かう。その町には、ニタヴェリル共和国の入国審査機関があって、正式に申請を出せば、場合によっては……」
一度、クイは言葉を切り、火の粉が弾けたのを見つめてから続けた。
「物資輸送用の飛空艇の定期便に、便乗を許されるかもしれません」
「飛空艇……」
ハル子は言葉を反芻しながら、どこかワクワクとした気持ちが胸の奥に広がっていくのを感じた。機械と魔法が混ざり合ったこの世界ならではの乗り物だ。空を飛ぶという、それだけで冒険の匂いがした。
「よし!」
ハル子は焚火から立ち上がり、マントを翻した。
「とにかくそのアルマダという都市に向かって、船で北上しよう!そこで道が開けるかもしれん!」
「了解しました、魔っ…いや、ハル子様!」
アンドラスは勢いよく敬礼すると、ぱたぱたと陣幕の方へ駆けていった。
ハル子は振り返って、にこやかにクイとカイを見た。
「ありがとう、クイ、カイ。君たちの情報がなければ、きっと途方に暮れていたよ」
カイが笑顔で頷く。
「では、ニタヴェリルに行った次は本国──インペラトル皇国の首都で会いましょう!」
「はい。……ところで首都って、どこなのです?」
何気なく聞いたハル子の問いに、カイはさらっと答えた。
「首都の名は……“トウキョウ”って言います!」
その瞬間、時が止まったような感覚にハル子は陥った。
(……とうきょう……!?)
どくん、と心臓が鳴る。
(えええええ!? 東京って!? 絶対、絶っっ対、転生者いるじゃんそれ!!)
だが、あえてそれを顔には出さず、ハル子は深呼吸をして静かに呟いた。
「……じゃあ、その“トウキョウ”とやらも……楽しみにしておきましょう!」
そうして、ニタヴェリル共和国を目指す新たな旅路が、静かに、しかし確実に動き出したのだった。




