Chapter46【湾岸都市セランへの旅路】
出立の朝、魔王ハル子は、レオグランス王国のアルル女王から一人の人物に会ってほしいと頼まれていた。
その名は――守護騎士ガブリエル。
ハル子は魔王の姿のまま、王城の奥深くにある一室を訪ねた。
控えの騎士に導かれて扉をくぐると、静謐な空気が満ちていた。
白いカーテンが朝陽を柔らかく透かし、木製の椅子に腰かけたガブリエルが、窓の外に目を向けていた。
「……魔王ルシファー様は、もうこの世には、おられないのですね……」
ガブリエルの声は静かだったが、確かな哀惜が滲んでいた。
胸の奥に刺さる罪悪感と、それでも進まねばならないという決意。
ハル子は、黙って頷いた。
「昨日……あなたが我が国の兵にお配りした魔法の飲み物を、口にしたのです」
ガブリエルはゆっくりと語り出した。
「私は、深い眠りの底から、ようやく目を覚ましました。……すると…ベッドの傍らに、ひとりの人物が立っていました。仮面をつけ、フードを深く被った者です」
その姿を思い出すように、ガブリエルの瞳が細められる。
「彼は、すべてを語ってくれました。ルシファー様の肉体に、別の魂が宿っていること。そしてその魂は、遠い世界から来た存在であること――」
ガブリエルは、静かにハル子へと視線を向けた。
「体は魔王ルシファー、中は……別の人格。いや、別の人物と言うべきでしょうか」
ハル子は深く頷いた。
その姿には、もはや迷いはなかった。
彼女が誰であれ――今、この世界における“魔王”であるという事実は、変わらないのだから。
そして、ガブリエルはゆっくりと言葉を続けた。
「……中身は違えども、聖ルルイエ帝国、エルシャダイ皇帝を打倒するという意思を受け継いでいる……あなたと、ルシファー様の想いを託すに値すると――その男は、そう申しておりました」
ガブリエルの声は震えていた。
その瞳には、深い悲しみと、それでも託さねばならない覚悟の色が浮かんでいる。
「貴方にすべてを託します! どうか……エルシャダイ皇帝を、必ず討ち果たしてください!」
その一言は、まるで刃のように鋭く、強く、空気を震わせた。
騎士としての最後の願い――その言葉には、幾年にもわたる忠誠と信念が込められていた。
(……いや、思いを託されても……まあ、流れ的にそうなってますけどね……)
ハル子は心の中で微妙な戸惑いを呟く。
だが、その顔には一切それを出さず、堂々と胸に手を当てた。
「はい……必ずや、エルシャダイ皇帝を討ち果たしてみせます」
その声は力強く、魔王としての威厳に満ちていた。
その瞬間、ガブリエルの瞳から、静かに涙が流れ落ちた。
「貴方に託した一撃の死を免れる魔道具……『ケリュケイオンの腕輪』…ルシファ―が私の身を案じ、頂いた物なのです…その腕輪は、かならず貴方の助けになるはずです…そして‥‥」
とガブリエルが顔を上げ、涙を流しながら言った…
「お願いします……ルシファー……」
滲んだ光の粒が頬を伝い、静かな誓いの部屋に落ちていった。
それは、かつての恋人への別れであり、未来を託す者への祈りでもあった。
部屋を出た瞬間、ハル子は肩の力が抜けるのを感じた。
(ふぅ……重かったな……)
あまりに真剣で、あまりに切実なまなざし。
ガブリエルの涙が、ずしりと心に残っている。
けれども、それと同時に、あの仮面の男の姿が頭をよぎった。
(……また出てきたな、あのフード仮面男……どこまで知っているのやら…)
彼の言葉が、脳裏にこだまする。
(「強くなりたければ、ニタヴェリルに向かえ」)と。
(でもさ、本当に強くなれるのかな……? この世界、ゲームと違ってレベルアップとかもしないし……)
ふと、苦笑が漏れた。
どこかで、いまだにこの世界の理不尽さに馴染み切れていない自分がいる。そして今のままでは、あの『ミカエル』を倒す自信もないのも現実だ。
だから、進むしかない。誰かの想いを背負った以上、止まるわけにはいかないのだ。
そして――。
魔王ハル子と、鳥仮面のアンドラスは、王都を後にした。
行き先は、東の果て――海風の香る湾岸都市、セラン。
新たな出会いと、未知なる冒険が、彼女たちを待ち受けていた。
魔王ハル子は、アルル女王から受け取ったピンクの魔法の指輪を右手にはめていた。
その瞬間、彼女の姿は変わり、かつての――転生前の――『池沢ハル子』そのものになっていた。
肩までの黒髪、OLらしいスリムな体型。
見慣れていたはずの自分の姿だが、異世界で魔王として過ごしてきた今では、むしろ懐かしささえ覚える。衣装も、いかにも旅人風で民族衣装を見繕ってもらっていた。
(この体……久しぶり過ぎ!)
手を見る。
足元を見る。
そして、思わず顔がほころぶ。
(目線、低いな~……でも、なんかウキウキする……!)
現代日本を離れ、何度も戦火をくぐり抜けてきた彼女にとって、この姿はある種の「原点」でもあった。
そんな高揚も束の間、旅路は過酷だった。
敢えて徒歩で進むルートを選んだのは、森を抜けるためと、敵の目を避けるため。
とはいえ、十日にも及ぶ徒歩の旅は、少々池沢ハル子の肉体にはこたえた。
(いやーーー歩いたなあ……マジで久しぶり……足ガクガクなんだけど……)
そのとき、不意に前を行くアンドラス――鳥仮面の従者が静かに振り返り、声をかけてきた。
「さあ、あともう少しで湾岸都市セランに到着です! この森を抜ければ、海と街並みが見えてくるはずですよ!」
「ほんとか!」
思わず声を上げ、ハル子の顔にぱっと笑みが広がる。
疲れも、重い足取りも、一瞬だけ忘れさせる言葉だった。
その視線の先、木々の間から、かすかに潮の香りが流れてきていた――。
すると突然、茂みの影から馬の嘶きとともに、二騎の騎兵が姿を現した。
黒鉄の鎧に身を包み、赤い房飾りをたなびかせるその姿――聖ルルイエ帝国の騎兵だ。
「貴様ら……インペラトルの内偵か?」
長槍の穂先がまっすぐこちらを向き、張り詰めた声が森の空気を裂いた。
「い……いや、違っ――」
反射的に否定しかけたその瞬間、ハル子は横目でアンドラスを見た。
(……いや、ちょっと待って。黒フードに鳥仮面……どう見ても怪しすぎるでしょ!!)
もはや言葉での弁明は通じそうにない。そう察した瞬間――
「やれっ!」
騎兵たちの判断は早かった。二本の槍がアンドラス目がけて突き出され――
「アンドラスっ!!」
ハル子が手を伸ばした瞬間には、すでに一閃――
鋭い槍先はアンドラスの胸を貫いていた。
だが。
「魔王様……お待ちを」
アンドラスは、動じることなく穏やかに語りかけてきた。
「な、なにっ!? 魔王だと……!?」
騎兵の顔が驚愕に染まったその瞬間――
アンドラスはするりと両手を伸ばし、それぞれの騎兵の首を掴んだ。
「ぐ、ぐあっ……!」
馬上から引きずり下ろされ、騎兵たちは地面で足をばたつかせ、苦悶の表情を浮かべる。
やがて、白目をむき、糸が切れたように気を失い――ドサッ、と鈍い音を立てて倒れ伏した。
「アンドラス……胸、貫かれてたけど……大丈夫なの?」
ハル子は、やや引きつった笑みを浮かべながら尋ねた。
「ご心配には及びません。私はすでに“死んで”おりますので。物理攻撃は意味を持ちません。
……いわば、私は霊体――この世ならざる存在、“ゴースト”なのです」
「えっ…………」
ハル子の背筋に、ぞわりと寒気が走った。
(えっ、えっ、えっ!? ちょっと待って……私、今までずっと……幽霊と会話してたの!?)
彼女の脳裏に、これまでアンドラスと共にした日々がフラッシュバックする。
(うわあ……なんか、色々無理かも……!)
「あっ、そ、そうなんだ……ふふ、へぇ~……」
表情を引きつらせたまま、無理やり笑顔を作るハル子であった。
「とりあえず、騎馬が手に入りましたね……これに乗って湾岸都市セランへ向かいましょう」
アンドラスは何事もなかったように馬へまたがる。胸に槍を受けていたのが嘘のような姿だ。
「う、うん……」
未だに“ゴースト”発言を引きずるハル子だったが、渋々と馬に乗り込む。
森をパカパカと駆け抜ける二騎の馬――。
木々のざわめきを越えて、突然けたたましい音が耳に飛び込んできた。
「うぉおおおおおおおおっ!!」
「え、なに!? 戦?!」
そして――
「ボオオオン!!ボオオオン!!」
低く響く法螺貝の音。
視界がぱっと開けた瞬間、ハル子の目の前に広がったのは――
無数の騎馬兵が縦横無尽に駆け、旗が風を裂き、銀色の鎧が陽光を反射する大軍勢だった。
火柱、地響き、喚声、金属の打ち合う音が一面に鳴り響く。
しかし―――その甲冑と兵の背中に靡く旗は転生前に見たことのある甲冑であった…
「な、なにこれ……えっ、日本の戦国時代!?」
あまりの時代錯誤に、驚愕するハル子。
「……あの鎧はインペラトル皇国兵でございます」
アンドラスは丘の上から戦況を見つめながら静かに言った。
「彼らは帝国兵と交戦中のようですが……戦局を見る限り、押されているようです。このままでは、帝国兵が勝利するかと」
まるでチェスの盤面を眺めるように、冷静な声。
一方、ハル子はその足元に広がる"現実の死闘"に、ただただ息を呑むしかなかった。
(この世界……やっぱゲームじゃない……本物の、血の戦だ……)
握りしめた手に、じんわりと汗が滲んでいた。
目を凝らして見ると――
「あれは……!」
ハル子の瞳が一人の女武将を捉えた。
「いやっ!!」
思わず馬に気合を入れ、ハル子は一気に丘を駆け下りていく。
その背を見て、アンドラスもすぐに追いかけた。
二騎は戦場へ突進――。
敵味方の入り乱れる混沌の渦。その中で銀の甲冑をまとった“日本の騎馬武者”に近づくと、ハル子は叫んだ。
「クイよ! 聞け! 帝国兵前線の東前方に向かって弓を射かけよ!!」
その名を呼ばれた女武将――インペラトルの忠将、クイが目を見開く。
「ん?……あんたは……?」
甲冑越しに見下ろしたのは、見知らぬ女性の姿。しかしその目には、あの魔王ハル子の光が宿っていた。
クイは一瞬迷いながらも、なぜか抗えない力を感じ、その指示に従った。
「我が特殊弓兵隊、聞け! 東前方、敵の前線に矢を――放てェ!!」
空を裂いて矢が唸る。
ハル子はさらに戦場を見渡して叫ぶ。
「カイ!!! カイはどこだ!!!」
すると、青い鎧をまとった騎馬隊が駆けつけ、その先頭から一人が名乗りを上げた。
「はっ、只今参上いたしました!」
姿勢を正して礼をする青年武将――カイ。だが顔を上げた瞬間、目の前の少女を見て戸惑う。
「へ??……誰……?」
「今、クイが射かけた帝国軍前線の東前方から突撃し、南へ抜け! 敵本陣を急襲せよ!!」
ハル子の声は稲妻のように響いた。その迫力にカイは無意識に背筋を伸ばし、言葉を飲み込む。
「はっ! 仰せのままに!」
即座に隊を振り向かせ、叫ぶ。
「皆の者! 我が隊は東前方より奇襲をかける! 付いて参れェ!!」
青の騎馬隊が一斉に走り出す。地を蹴る音、戦場を割るような疾走――。
「よし! では我は……!」
ハル子は南へ馬首を向け、さらに戦局を動かすべく、行動を開始した。
(あれは……ハル……アス様?)
(間違いない……あの気迫、あの指揮は――)
クイもカイも、心の中で確信していた。
たとえ姿が変わっていようとも、あれは間違いなく“我らが主の指揮”だった。
ハル子の采配により、カイの突撃隊は帝国軍の本陣を貫き、敵の背後を脅かした。
その混乱の中――
「……陣が崩壊していく……一旦、立て直す……! 我が本陣は後退せよ!」
帝国軍の総大将・ウコバクは、焦りを隠せぬ顔で退却の号令を発した。
しかし、遅かった。
すでにハル子とアンドラスは、背後の高台から彼の退路を塞いでいた。
「さて――あんたを討てば、この戦、ウチの勝ちだね?」
丘の上から睨み下ろすハル子の声は、風を切るように鋭く響いた。
「なにを……小娘風情が……!」
ウコバクは怒りに顔を歪め、剣を引き抜いて馬を走らせる。
「見た目で判断しない方がいいよっ!」
ハル子も馬首を切り、彼の突撃に応じた。
ガキィン!!
金属が交錯する鋭い音が、戦場に鳴り響いた。
すれ違いざま、ウコバクの剣は空を切り――
「……う……うぐっ……!」
肩口を斬られたウコバクは、その衝撃で馬上から転げ落ち、無様に地面を転がった。
「敵総大将――討ち取ったり!!!」
アンドラスの雄叫びが、空を裂く雷鳴のように戦場に轟いた。
その言葉は一瞬にして、帝国軍の隅々まで衝撃となって駆け巡る。兵たちの心に突き刺さったのは、ただの敗北ではない。指導者を喪ったという絶望だった。
「うわあああああっ!!」
「総大将のウコバク様が……やられたぞぉぉぉっ!!」
絶叫が次々と空に消え、騎馬は前線を捨てて逃げ出し、兵たちは剣を落とし、盾を放り投げ、整然としていた陣形はみるみるうちに瓦解していった。
陣を崩した帝国兵は、足元の泥に足を取られながらも我先にと逃げ惑う。塵のように舞い上がる砂煙。折れた旗印が風に翻り、まるで敗北そのものが形を持って宙を漂っているようだった。
ハル子は、戦場の縁に立つ馬上から、その破滅の光景を静かに見下ろしていた。
血と鉄の臭いが漂う冷たい風が頬をかすめる。濃紅のマントが風にはためき、その影に射すような笑みが浮かぶ。
「これで終わりよ、帝国さん――ご苦労さま」
彼女の声は誰に届くでもなく、ただ風に溶けていった。
夕陽は、崩壊した軍勢を黄金色に染め上げ、影を長く伸ばしていく。戦場に響いていた喧騒も、今は遠く、まるで物語の幕がゆっくりと降りていくように、すべてが静かに沈んでいった。




