Chapter45【魔王軍三人目の四天王】
戦火の残り香がなおも漂うレオグランス王国の宮殿――かつては白金の壁と瑠璃の天井を誇り、王侯貴族の優雅な談笑の場であったそこは、今や見る影もなく、あちこちが瓦礫と焦げ跡に覆われていた。破られたアーチ、崩れた階段、ひしゃげた玉座……戦の爪痕が深く刻まれている。
だが、その廃墟の中心に、不思議な光景があった。
魔王軍の輜重部隊、不死騎士たちが整然と並び、傷ついた王国兵たちにヒーリングジュースを次々と配っているのだ。瓶を受け取った兵士が緑のオーラに包まれると、傷口がみるみる塞がり、折れた骨すら音を立てて元に戻っていく。
「……治った!? オレの足が……!」
「ありがとう! ありがとう、魔王様……!」
歓喜と驚愕の声が、あちこちで湧き上がった。
その空間の中心、半壊した玉座の前に、魔王軍幹部たちが静かに集っていた。
黒い髪をなびかせ、漆黒の鎧の戦士、飛竜のリヴァイア。
緋色の法衣を纏い、瞳に無限の叡智を宿す大魔導士ラ・ムウと、
その傍らに氷のように冷たい視線を持つ少女、弟子のリリス。
修道女ガーラと、漆黒の戦闘機械、ロボ・アルバス。
そして、黒い鳥の仮面をつけた男、アンドラス――。
魔王ハル子が歩み寄ると、アンドラスは音を立てて両膝をついた。その動作に一切のためらいはない。
「魔王様……このたびの任務の失敗、誠に申し訳ございません……!」
声は震え、悔しさをにじませていた。その仮面の奥で、どれほどの無念が渦巻いているのかは計り知れない。
だが――。
「よい!気にするでないぞ!」
その言葉は鋭く、だが柔らかかった。
ハル子は静かに歩み寄り、アンドラスの肩に手を置いた。鎧越しに伝わる温もりに、アンドラスの全身がわずかに震えた。
「……あやつは強すぎた。致し方ない」
淡々とした口調ではあったが、その奥には、部下への信頼と労りがにじんでいた。
アンドラスは唇を噛み締め、深く、深く頭を垂れた。
「……痛み入ります」
宮殿の一角、かろうじて無事だった大広間の中央。石の床には、魔王軍幹部たちの足音とささやき声が小さく反響していた。夕陽は傾き、廃墟と化した窓から差し込む光が、黄金のように埃を照らしていた。
魔王ハル子は玉座の一段下、瓦礫を避けて立ち止まると、ゆっくりと視線を向けた。
「で、ガーラよ……」
その声に、場の空気がピタリと静まり返る。修道女ガーラがピシっと姿勢を正した。
「此度のお主の働き、実に見事であった!」
その言葉に、ローブの奥でガーラの表情がふわりと綻ぶ。
「はい! おかげさまで……このアルバスも、ようやく手足のように動かせるようになりました!」
その隣に立つ漆黒のロボ・アルバスが、無機質ながらもどこか誇らしげに、ぎぎ……と軽く顎を引いた。
ハル子は――声を張り上げた。
「そこでだ! お主を、我が魔王軍《四天王》に任命する!!!!」
一瞬、時間が止まったかのようだった。
次の瞬間――
「えええええええええ!?」
飛竜のリヴァイアが、思わず大声をあげた。普段は沈着冷静な彼女の顔が、今だけは見事なほど崩れている。
「しょ、少々お待ちください魔王様!? 早すぎでは!? 実績もまだ――」
言いかけたリヴァイアを、ハル子はぐっと見据えた。その瞳は、まるで一度見定めたものを揺るがぬ鋼の意志だった。
「……うむ。我が目に狂いはない!!!」
その気迫に満ちた宣言は、雷鳴のように大広間に響いた。
リヴァイアは口を開きかけたが、視線をそらして腕を組むと、しぶしぶ黙り込んだ。隣で、ラ・ムウがわずかに肩を揺らし、抑えきれぬ笑みを漏らす。
「……あ、ありがとうございます……!」
ガーラは目を丸くしながらも、深々と頭を下げた。小柄な体躯がぴたりと折れ、その姿に偽りはなかった。
アルバスもまた、ぎぎぎ……と音を立てて片膝をつき、主と共に深く礼をする。
誰もが思った――これが、魔王ハル子の“眼”なのだと。
破壊された王国の大広間で、確かに新たなる四天王が誕生した。
その名――修道女ガーラ。
陽はすでに地平へと傾き、影が長く伸びる中、魔王軍の未来が、また一歩動き出していた。
そして魔王ハル子は軽く身を乗り出すと、双角を揺らしながら尋ねた。
「それで……リヴァイア・サンがお父さんだって?」
彼女は胸に手を当て、毅然と答える。
「はい。私はレン、リヴァイア・サンの娘です」
その言葉に、場の空気が僅かに揺れる。
「……大魔導士ラ・ムウ様が先に、父リヴァイア・サンとの召喚契約を結んでおられました。父がその後、私を生んだ後に父の双子の兄――バハムート様に召喚契約を願い出たのは……そのためなのです」
説明を終えたレンの瞳は揺るぎなかった。だがその声の奥には、父への憧憬と、どこか満たされぬ寂しさが確かにあった。
その時、ラ・ムウが静かに口を開いた。
「……わしは、元々、冥界の民なのじゃ」
その一言に、全員の意識が老人に集まった。
「ゆえに、この世界で命尽きることはない……。あれは、はるか太古のこと……数千年前の記憶となる」
ラ・ムウの瞳は遥か遠くを見つめ、まるで過ぎ去った時そのものを語るように、静かに物語を紡ぎ始めた。
「わしは――ヴァン神族の娘と恋に落ちた。そして、我が息子アトゥムが生まれた。しかし、その愛は掟に反し、息子はこの地に堕とされることとなったのじゃ……」
誰もが息を飲み、ただ耳を傾けていた。
「だがな……それでも、幸福であった。息子と共にこの地で共に戦い……」
ラ・ムウは、そこでわずかに言葉を詰まらせた。
「ある日、かの勇者――ミカエルが現れた。奴は、正義と信じる剣を振るい、息子アトゥムに容赦なく襲いかかってきた。……そのとき、我が息子アトゥムは、わしを召喚魔法で呼び出し、共に戦場に立った。だが――奴に……目の前でアトゥムが殺されてしまったのじゃ……!」
声がかすれ、ほんの僅かに、老魔導士の目に涙が光った。
「……召喚された者より、召喚者が先に死ねば、契約は断たれ、霊魂は還る……そして、その者はこの地に永遠に囚われる。……わしは、契約の鎖に縛られたまま、この地に残された」
ラ・ムウは拳を握り、震える声で続ける。
「その時、友であったリヴァイア・サンが申し出てくれた。――お前の助けになろうぞ、と…そしてわし、リヴァイア・サンとの間で召喚契約を交わしたのじゃ」
それは、悲しき絆。深き友情と、断たれぬ記憶の繋がりだった。
「その後、リヴァイア・サンが罪を犯し、子供を授かった…わしとの召喚契約がなされている以上、娘との召喚契約を交わすことが叶わぬ‥‥それであ奴の兄がレンを見守る為、召喚契約を交わす事になったのだ‥‥」
その場にいた者たちは誰一人、言葉を発せずにいた。ただ、燃える夕陽が崩れた宮殿の石壁を赤く染め、ラ・ムウの白髪に神々しき光を与えていた。
その背に、千年を越えた戦士の孤独と誇りが滲んでいた――。
重々しい沈黙の中、ラ・ムウはゆっくりと一歩踏み出した。
「それで――お主は、本当にルシファーなのか?」
静寂を切り裂くように、その声が響いた。
その瞬間、空気がぴたりと凍りついた。玉座の間に集う者たち全員が、まるで時が止まったかのように動きを止め、ただその言葉の余韻に耳を澄ませた。
彼の姿、声、立ち振る舞い――どれを取っても確かに「ルシファー」だった。しかし、内面が決定的に違う。あの冷酷で恐ろしい性格が、まるで風が止んだあとに残るぬるい空気のように、優しさに満ちていたからだ。
その不穏な沈黙を破ったのは、ひときわ甲高い声だった。
「魔王様は……その……寝室のベッドから落ちた際に頭をぶつけられて……」
言いながら現れたのはアンドラス。口元を引きつらせながら、まるで即興芝居でも始めたかのように、早口で続けた。
「以前とは別人と言うか、優しい、部下思いの……その、ええと、魔王に……生まれ変わったのです!」
場に妙な空気が流れた。苦し紛れの言い訳というより、もはや一種の悲壮な芸だった。
(え……なにそれ……その思いつきフォロー……)
傍らで見ていたハル子は、唖然としたように目を見開き、そして堪えきれずに小さく苦笑した。彼女の目には、もはや茶番としか映らないやりとりが繰り広げられていた。
だが、当のラ・ムウはというと――。
「ふほっほほほ! そういうことにしておくかのう!」
まるで全てを見透かしていたかのように、肩を揺らしながら朗らかに笑った。その笑いは、茶目っ気すら含んでいたが、その奥底にはやはり、老将としての深い思慮が潜んでいるようにも見えた。
こうして、真偽も定かならぬまま、「優しい魔王ルシファー」は、何食わぬ顔でその場に立ち続けるのだった――。
ざわついていた空気がふたたび静まり返る中、柔らかな靴音が玉座の間に響いた。
絢爛なドレスの裾を翻しながら、一人の女性が静かに歩み寄ってくる。その気品と威厳に満ちた姿を見て、誰もが自然と道を開けた。アルル王国の若き女王――アルル・ヒラリウス。彼女は迷いのない足取りで魔王の元へと近づいていった。
「ハル!!!!」
その声は、抑えきれぬ感情があふれたように鋭く、けれど温かかった。
次の瞬間、魔王――いや、彼を「ハル」と呼び、強く抱きしめた。その姿に周囲の者たちは息をのんだが、誰一人として言葉を発する者はいなかった。静かに、ただ静かにその瞬間を見守った。
やがて、アルル女王はそっと身を引き、魔王の瞳を見つめて、深々と頭を下げた。
「此度は、我が王国の存亡をお救い頂き……まことにありがとうございました。」
彼女の声は震えていた。誇り高き女王であるはずの彼女が、感情を抑えきれないほどの安堵と感謝を、素直に言葉にしていた。
少しして、彼女はハル子へと視線を向けた。
「これから……ニタヴェリル共和国へ向かうと聞きまして……」
その問いかけに、ハル子は頷き、静かに口を開いた。
「はい。ですが、この地の復旧と防衛がまず急務です。我が軍をここに残していきます。その指揮は……大魔導士のラ・ムウに託しました。どうぞ、彼を頼りにしてください。」
その言葉には揺るぎない信頼と覚悟が込められていた。ハル子の瞳は真っ直ぐで、アルル女王もまたその誠意を感じ取ったのか、唇を震わせた。
「そんな……いたれり尽くせりで……わたくし、感謝しきれません……!」
彼女の目には、ついに涙が滲んでいた。瞳を潤ませながら、それでも微笑みを称えた女王の姿は、気高さと人間らしさが同居した、まさに真の王者のそれだった。
そしてその場にいる者すべてが、その瞬間、ひとつの絆で結ばれていた。
玉座の間の空気が、ふたたび和らいだ空気に包まれていく中、アルル女王は誰にも言わず、一つのスーツケースを侍女から受け取ると、自らの手でそれをハル子の前に差し出した。
「ニタヴェリル共和国は、ドワーフをはじめとする工業都市であります。」
彼女の声には誇りと敬意、そして感謝がこもっていた。
「これを、此度の礼として授けます!」
静かに、しかし重みのある音を立ててスーツケースがハル子の前に置かれた。見た目からしてただの旅行用の荷物ではなかった。厚い金属の縁取りと魔法の刻印が施された特注の品であり、開ける前からその中身の特別さを感じさせた。
ハル子は少し戸惑いながらも、ゆっくりと留め金を外し、蓋を開けた。
瞬間、煌めきが弾けた。
中には、見たこともない美しさと力強さを宿した宝石や鉱石が、整然と並べられていた。赤、青、金、黒――様々な色彩の原石が、まるでそれぞれ意思を持つかのように、微かに光を放っている。
「こ……これは……」
思わず漏れた言葉は、驚きと感嘆に染まっていた。
するとアルル女王は、嬉しそうに頬を緩め、胸を張って説明した。
「これらの宝石や鉱石は、我が領内にあるエルツ山地でしか採れない、極めて貴重なものです。魔王様が身に着けておられる腕輪や指輪――あれも、ドワーフの職人たちが丹精込めて作り上げたものなのです。」
彼女の瞳がきらきらと輝いていた。まるで幼い子が宝物を見せびらかすような、無垢な誇らしさだった。
「これがあれば、より強力な武具や魔道具をお作りいただけると思いまして……少しでもお力になれればと。」
その言葉に、ハル子は思わず背筋を正し、深々と頭を下げた。
「おおお……それは助かります! アルル女王陛下、ありがとうございます!」
魔王ハル子の声には、礼節と感謝が溢れていた。その言葉の端々には、ただの武力ではない「信頼」という絆が育ち始めていることを、誰もが感じていた。
そしてスーツケースの中に光る原石たちは、まるでこれからの旅路を照らす灯火のように、静かに、そして力強く輝いていた――。
「あと、それと……これを。」
そう言って、アルル女王はもう一つの品を差し出した。掌に乗る小さな指輪――それは可愛らしいピンクの宝石が嵌め込まれた、どこか儚げな光を放つ魔道具だった。
「これは?」
ハル子が不思議そうに尋ねると、アルルはふわりと微笑んで答えた。
「擬人化と魔力オーラを封じる魔道具です。この指輪をはめると、その間は、女性の姿へと変化します。ただし……全ステータスが半減するというリスクがあるので気を付けて下さい。」
それを聞いたハル子は
(へ~黒と赤の指輪の合体バージョン…上位指輪かな?)
とその指輪を見つめ感心した。
そして、アルル女王はいたずらっぽく言葉を続けた。
「ぜひ、目の前でつけてください!」
その無邪気な期待に押され、ハル子は小さくため息をついてから指輪をそっと薬指にはめ込んだ――。
瞬間、眩い光が魔王を包み込む。
淡い桃色の輝きが花びらのように舞い上がり、魔王ハル子の姿を覆った。衣が風になびき、魔力の奔流が空間を揺るがせる。そして光が静まったとき――。
「わあああああああああ!」
「おおおおおおお!」
周囲の者たちから驚嘆の声が一斉に上がった。
「ふはははははは!」
その中でひときわ大きな笑い声を響かせたのは、リヴァイアだった。肩を震わせながら、彼女は嘲るように叫んだ。
「魔王様!弱そうですね、その見た目!」
軽口を叩かれたハル子は、一歩、壁際の鏡へと歩み寄った。
そして、その中に映った自分を見た瞬間――彼女の目が見開かれる。
「ええええええええええええ!」
思わず叫んだその声すら、自分に聞き覚えがあった。
鏡に映るのは、かつての自分――日本にいた頃の、転生前の姿。池沢ハル子、そのままだった。
(うわああああ……ここでこの姿!? まちがいない、この世界……やっぱり夢だわ……)
心の中で叫びながらも、なぜか頬が熱くなっていく。
その時、一人の男がハル子の前に進み出た。
「魔王様……ニタヴェリル共和国へは、私が……私が必ずお供いたします! この命に代えてでも、汚名を晴らさせてください!」
それはアンドラスだった。厳しい顔に決意をにじませ、深々と頭を下げる。
「あ……うん。任せたよ!」
少し戸惑いながらも、ハル子はそう答えた。
……その声は、もう魔王ルシファーのものではなかった。
(あああ、この声だよ……この声……!)
懐かしい、自分の声。その響きに、ハル子は心の中で大はしゃぎしていた。
「はは! 一命を賭してお守りいたします!」
アンドラスが胸を張って場を締めると、その場には確かな熱気と、新たな旅立ちの予感が満ちた。
さあ、この姿で向かうは、ニタヴェリル共和国。
工業と鍛冶の民、ドワーフたちが待つ未知の地へ――。
春の陽気のように、軽やかに満ちていくハル子の心は、もう誰にも止められなかった。




