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Chapter44【本当の狙い】

 曇天を裂くように、二つの影が空で対峙した。


 一方は、闇の深淵から舞い戻ったかのような存在。漆黒の翼を大きく広げ、空気を震わせるように羽ばたくその姿は、ただそこにいるだけで世界を圧迫する異様なオーラを放っていた。魔王――ハル子。漆黒の衣を翻し、炎のように揺れる紅い瞳が怒りと焦燥に揺れている。


 対するは、天界より遣わされたと謳われる四聖賢ウリエル。彼は純白の翼を背に、光をまとったような気高い佇まいで空に浮かんでいた。その腕に、恐怖に満ちたアルル女王の姿がある。彼女の顔にはかすかな痛みの痕跡が刻まれ、その唇は真白に乾いていた。


 天使と悪魔——その言葉が具現化したかのような光景が、空の高みで繰り広げられていた。


「貴様……その手を放せっ!!」


 ハル子の怒声が雷鳴のように空を裂く。燃えるような怒りがその言葉に宿り、黒い羽が一層荒々しく風を切った。


 対して、ウリエルは不敵な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を傾けた。その瞳には狂気にも似た喜悦(きえつ)の色が宿っている。


「ふふふふ……とうとう現れたな……ハル。いや、……魔王ルシファーよ!」


 その名を口にした瞬間、空気が震えた。


「さあ、この呪いの剣が……おまえの“お姫様”を傷つけてしまっても、いいかなあ?」


 ウリエルは微笑みながら、一本の黒く脈動する剣を掲げた。まるで生きているかのように、剣身から紫黒の(もや)が立ちのぼっている。


「やめろっ!!!」


 ハル子は叫び、無意識に手を伸ばしていた。だが、それは一瞬で見透かされる。


「おっと、近づくんじゃない……」


 ウリエルの声は、妙に穏やかだった。だがその裏には、鋭利な刃物のような威圧が潜んでいる。


「私はね……取引をしに来たのだよ」


 その一言に、ハル子の動きが止まる。黒き羽がはらはらと舞い、空中に一瞬の静寂が訪れた。


「……取引、だと?」


 唸るような声で問い返すハル子。


 空は今にも泣き出しそうな灰色に覆われ、風だけが真実を知るかのように静かに、しかし絶え間なく吹いていた。


 ウリエルの白き翼が、風に乗ってふわりと舞った。鋭く吊り上がった唇の端には、不気味な笑みが浮かぶ。その表情は、まるで自身の策がようやく実を結ばんとする者の歓喜と、残酷な確信に満ちていた。


「そうそう、今回の侵攻の目的は……()()()()()()()()などではないのだよ」


 低く、そしてどこか愉悦を滲ませた声が空気を切り裂くように響く。


 ウリエルの目が、鋭くハル子を射抜いた。何かを見透かすようなその眼差しは、敵意というよりもむしろ、懐かしき旧友を見つめるような奇妙な情感(じょうかん)すら含んでいた。


「我が友……勇者ミカエルを、救うために——お前に、会いに来たのだよ」


 その言葉に、ハル子の瞳がわずかに揺れた。


「……ミカエルを、救うため……?」


 過去の記憶が、脳裏に浮かぶ。彼の名が持つ響きが、胸奥のどこか深く、封印されていたものを揺り起こすように。


 ウリエルは得意げに頷くと、手にした黒剣を掲げた。剣身に絡みつくような瘴気が空を這い、空間そのものがひび割れそうな圧力が放たれる。


「そうとも。この剣を探し出すのは……骨が折れた。だが、やっと手に入れた。我が封呪剣——《アスモデウス》……いや、《干渉》の剣だ」


 そう呟くと、彼は空を仰いだ。遠くを見つめるその目は、過去という名の深い奈落へと沈んでいく。


「太古の時代……この世界に秘匿されていた二振りの対の剣、《干渉》と《莫邪(ばくや)》……。その存在は神話の彼方に葬られ、誰もその真価を知らなかった。だが、二十数年前……」


 風が止み、空が沈黙する。


「……あのとき、勇者ミカエルが魔王領に侵攻した際、あ奴は鬼将アスタロトと相まみえた。あの化け物が持っていたのが、もう一つの呪われし剣、《莫邪》だったのだよ」


 ウリエルの声に、かすかな憎悪と後悔が滲む。


「莫邪に斬られれば、その者は一生、魔力を封じられる……。癒えぬ呪いを宿した、最凶の剣だ。ミカエルは、確かにアスタロトを討った。だが、代償はあまりにも重かった。莫邪の一閃は、彼の魂を焼き、魔力の(みなもと)を封じた……」


 そして、沈痛(ちんつう)な声で続けた。


「……以後、彼はただの人間と化し、かつての輝きも、力も、すべてを喪った。あれほど世界に絶望を与えた男が……」


 言葉の尾が風に溶けて消えた。だが、その言葉の重みは、空に残響(ざんきょう)となって漂う。


 ハル子は、ただ黙ってその話を聞いていた。


 ウリエルが掲げる《干渉の剣》。それが、何を意味するのか。

 彼が何を求めて、ここに来たのか。

 その全貌は、まだ(きり)の中にあった——


 ウリエルは、一度だけ深く息を吸い込んだ。白い翼がふわりと揺れ、沈黙の中で風のざわめきが舞い上がる。


「封呪剣『干渉と莫邪』――かつて、『陽』と『陰』の剣と称されたこの二振り……」


 彼の声は低く、だがその奥には燻る炎のような激情が宿っていた。


「私は信じていた。陽剣《干渉》こそが、陰剣《莫邪》の呪いを解く鍵であると。だから、私は旅に出た……砂を()むような年月を超えて、世界の果てまでも」


 彼は語る。無数の廃墟を、古代の神殿を、言葉を失った古代語の碑文を解読し、死者の墓をも掘り返した年月を。


「そしてついに、南方の砂漠都市アレッサンドリアの地下の迷宮の最奥で……私はこの剣を手にしたのだよ。干渉の剣をな」


 そう言うと、ウリエルは剣の刃先を見つめた。その黒く艶めく刃は、血を吸い、記憶を喰らい、主すらも(むしば)むような禍々しさを放っていた。


「……だがな」


 その声には、苦笑すら混じっていた。


「この剣は、呪いを解く剣などではなかった。莫邪と同じ呪いを持っていたのだ……。干渉の刃に斬られた者の傷は癒えぬ。癒えるどころか、じわじわと全身へと腐蝕が広がり、やがてその命を奪う……死の刻印を刻む剣だったのだ!」


 彼は苛立(いらだ)たしげに剣の柄を(ひね)る。その動きには、自らの過ちと絶望をどうにもできなかった男の悲哀が滲んでいた。


「私は……怒りに呑まれた。何のために旅をした? 何のために絶望を乗り越えてきた? その答えが、この“(あざけ)りの刃”だと知ったとき、私は人としての(かせ)を失った」


 風が、急に冷たく吹いた。


「私は……斬った。手当たり次第に。アレッサンドリアの路地裏で、逃げ惑う者を。帝都の闇市で、口をきいた者を。罪ある者も、ない者も……獣人も、囚人も……」


 彼の目が一瞬だけ、かつての自分を思い出すかのように遠くを見た。だがその目は濁ってはいなかった。ただ、真実を吐き出す者の瞳だった。


「私の怒りは……もう、誰にも止められなかった。自分すらも、だ」


 刃を下げ、ウリエルは空を仰ぐ。どこか懐かしさすら感じさせる目で。


「そんなときだった。サリエルが……あの冷酷な武闘家であった我が弟が死の間際に、一羽のピジョンを放った」


 その口元にわずかな笑みが灯る。それは怒りでも憐れみでもない。希望という名の、かすかな灯火だった。


「そして……我が“希望”をもたらしたのだよ。魔王よ!」


 視線がまっすぐにハル子を射抜く。


「貴様が——呪いを治せる《秘薬》を持っていることを、我々は掴んでいる。そしてそれが……!」


 彼は指を突きつけるように、怒気と焦燥を滲ませて叫んだ。


「……あと一つしか残っていないことも、だ!」


 瞬間、空気が凍りついた。ハル子の赤い瞳がわずかに見開かれる。


(なっ……何‥‥知られていた、か)


 内心の声が、静かに響く。だがその言葉の奥には、激しい緊張と怒りが渦巻いていた。


(ピジョン……サリエルの使い鳩……そうか、鳩を使って……監視されていたというのか)


 あの、いつものように城の塔に舞い降りた一羽の白い鳩。無邪気に見えたその瞳の奥に、冷たい視線が潜んでいたというのか。


「……そうか。」


 ハル子は静かに懐から取り出した。深紅の紐で封じられた、小さな黒い木箱。アレッサンドロ伯爵から手渡された、二つ使用し、残された唯一の究極のハイポーション。封の隙間からはかすかに甘い香気が漂い、それがただの薬ではないことを物語っていた。


 ウリエルの目が鋭く光る。


「そうだ……それだ。呪いを打ち破る唯一の《希望》。いまや、この世界に一滴しか残されていない神の奇跡」


 彼の声が急に低くなり、重く、切実な響きで語られる。


「その一滴があれば、ミカエルは救える……もう一度、あの男は立ち上がれる。彼さえいれば、この世界を人族が支配する世界へと変えられる…そう…この世を、征服できるのだ……」


 ウリエルの腕の中でかすかに(うめ)くアルル女王の姿に、ハル子の瞳が鋭く細められる。


「だが、私は……その秘薬と引き換えに、この女王を解放しよう。さあ選べ、魔王よ!」


 その声には、嘲笑(ちょうしょう)も挑発もなかった。ただ、必死なまでの真剣さが滲んでいた。


 空に静寂が戻った。風も止み、世界がその選択の瞬間を見守るかのように、時が凍りつく。


 ハル子の手が、秘薬の箱を握る力を強める。


(魔王軍四天王の鬼将アスタロトをも倒す勇者ミカエル…そいつの復活は……まずい、か)

ハル子の心は揺れた。


「だめ……私はいいから……」


 アルル女王のか細い声が、空に震えるように響いた。彼女の瞳には涙が溜まり、頬を伝って風に舞う。


「ミカエルが……復活などしたら……それこそ、世界は……滅びてしまいます……」


 彼女は泣きながら、必死に魔王ハル子を見上げ、懇願した。その声には、王としての責任でも、命惜しさでもない。ひとりの人間として、誰かを守るための決意が込められていた。


 その決意に意を決し、ハル子は目を伏せた。静かに手を掲げ、言った。


「……よかろう。では、今から三つ数える。互いに、所望しているものを離せ」


 その声は冷静だったが、どこか張りつめたものを孕んでいた。


「よろしい……では」

 ウリエルが一歩引いたように答える。


「……3、2、1――」


 ハル子の指先から、黒い木箱がふわりと宙へ舞い上がった。宝石のように煌めきながら、太陽の光を浴びて落ちていく。ほぼ同時に、ウリエルの腕からアルル女王の身体が放たれた。


「きゃあああああああああ――!」


 風を切る悲鳴が空を裂く。


 落下するアルルへ、ハル子は一気に加速した。漆黒の翼を羽ばたかせ、空気を裂き、まるで稲妻のような速さで女王に迫る。


 地表が迫る……あとわずか、あと一瞬――


「アルルっ!!」


 その声とともに、ハル子の腕が彼女をがっしりと抱きとめた。風圧で髪が絡まり、心音が重なったまま、二人はしばし無言で空を滑る。


 だが、次の瞬間。


 ふと視線を上げたハル子の目に、眩しい逆光の中、再び上空へと飛翔する白い影が映る。

 ウリエルだった。


 彼の手には、あのハイポーションの箱がしっかりと握られていた。


「はははははっ! これで、目的は果たされたぞ!」


 彼の高笑いが、空を震わせる。


「いよいよ勇者ミカエルの復活の時だ……! さあ、再び世界を照らせ、光の英雄よ――!」


 歓喜に満ちたその声を残し、ウリエルは南の空へと消えていった。翼が白い光の尾を引き、彼の姿は遠くの雲へと溶けていった。


 その背を見送るハル子の腕の中で、アルル女王が泣いていた。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 彼女の肩が震え、涙がハル子の胸元を濡らす。その声は、自責と無力感、そして恐怖の混ざった、悲痛な懺悔(ざんげ)だった。


 ハル子は、ふうっと息を吐いた。


(……ま、アルル女王が助かったなら、それでいいかな。にしても、ミカエル復活はまずいな…)


 苦笑混じりに心の中で呟いたハル子は、ふと南の空を見上げた。


(あとでアンドラスにでも詳しい話を聞くかな?)


 ゆるりと翼を広げ、風に乗ってふわりと上昇していく。


 その頃、戦場に広がる帝国兵の軍勢――三十万の兵士たちは、もはや統制を失い、群れをなして南方へと逃げ出していた。武器を捨て、甲冑を投げ捨て、恐怖と混乱にまみれて散り散りに。


 逃げ惑う兵士たちを、夕陽が紅く染め上げていた。


 まるで、すべてを照らし出す“審判の光”のように。



挿絵(By みてみん)

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