Chapter43【人質】
一時間前――
灰色の空に雲が垂れ込め、風は不穏な唸りを上げていた。戦の気配が、じわりとこの地を包み始めていた。
そんな中、漆黒の軍勢が音もなく現れた。屍のような沈黙とともに、闇のような軍勢が、レオグランス王国の前線に築かれた高き城壁を静かに登ってくる。その先頭を行くのは、黒き仮面をかぶり、禍々しき気配を纏った男――魔戦軍の将、アンドラスである。
城壁の上では、緊張に満ちた王国軍の兵たちが思わず息を呑み、剣に手をかける。だがその男は、鋭い殺気を一切見せぬまま、ゆるりと近づき、静かに片膝をついた。
「アルル女王陛下。魔王様配下、アンドラスと申します」
低く、だが澄んだ声が響いた。黒い鳥の仮面の奥から漏れる声には不思議な威厳と重みがあり、場の空気を瞬時に支配する。
「我が主よりこの城壁を防衛し、アルル女王陛下をお守りせよとの命を受け、援軍として参上いたしました」
風がアンドラスの外套をはためかせ、不気味に揺れる。その全身を覆う黒装束は、まるで闇夜そのものが形を持ったかのようであり、兵たちは誰も言葉を発することができなかった。
その中で、ただ一人、毅然とした姿を崩さぬ者がいた。
レオグランス王国の若き女王、アルル。銀の髪を風に揺らし、気高さをその瞳に宿す。だがその目も、一瞬だけアンドラスの仮面に宿る不可解な光を見て揺れた。
(……なんという、異質な存在……これが、魔王軍……)
だが、恐れを内に秘めながらも、一国を預かる者として、彼女ははっきりと口を開いた。
「そのお言葉――感謝いたします」
その声には、震えも戸惑いもなかった。凛とした王の声。兵たちはその言葉に導かれるように、顔を上げる。
アンドラスはわずかに頭を垂れ、風に消えるような声で「心得ました」とだけ応えた。
そして戦いの刻は、刻一刻と近づいていた――。
不穏な風が吹きつける中、突如として場の空気が変わった。
ギィ……という城門の軋む音に、兵たちが振り返ると――そこに立っていたのは、どこか異様な気配をまとった白髪の男だった。
その白銀の長髪は風に揺れ、微笑を湛えたまま歩み寄ってくるその姿には、まるで人間離れした優雅さと不気味さが同居していた。
「――あの、ちょっとお取込み中のところ、悪いですが」
その男は、まるで人ごとでも話すかのような軽い口調で言った。
「アルル女王を、いただきにまいりました」
その一言に、場の空気が凍りついた。
アンドラスの目が、鋭く細められる。
「……貴様は……!」
ゆらりと立ち上がったその黒装束の男は、漆黒の外套を翻しながら剣の柄へと手をかける。
「四聖賢――ウリエル!!」
名を呼ぶと同時に、アンドラスは剣を抜き放ち、構えを取った。
対する白髪の男は、少しだけ肩をすくめ、嘲笑を浮かべた。
「ははっ。君みたいな雑魚が、そんな大きな声出してもねえ」
言うや、男は腰に携えた一本の妖しい光を放つ剣を、ゆっくりと鞘から引き抜いた。
刃は深紅に輝き、空気を裂くような異質な波動を放つ。見た瞬間、周囲の兵士たちが思わず数歩後ずさった。
アンドラスの目がわずかに見開かれる。
「……その刀……まさか、干渉の剣……!」
驚愕に染まる声で呟くと、ウリエルはまるで褒められた子どものようににっこりと笑った。
「ほほう。君、よく知ってるねえ」
その表情の下に、狂気がにじんでいた。
「そう、これは“干渉・莫邪”……呪いの剣の一対‥‥“その名は干渉の剣”」
男はその刃を軽く振り、血のような残光を空中に残した。
「……でもね、名前がダサかったから」
ふっと、顔を近づける。
「僕が勝手に“アスモデウス”って名前、つけたの。かっこいいでしょ?」
その声は甘く柔らかいが、底知れぬ殺意が混じっていた。
ウリエルの手に握られたその剣が、空気を歪め、周囲の魔力すら撹乱させ始める。
……アスモデウス―― “干渉の剣”とは、傷つけられたものはその傷は癒える事なくその魂を食らいつくすまで広がると言われる、破滅の刃。
そして今――その刃が、アルル女王を守る者たちに向けて抜かれたのだ。
城壁の上、静寂が支配する中。
アンドラスは剣を握る手に力を込め、低く構えた。
「……貴様をここで止める。どんな刃を持とうと、女王には指一本触れさせぬ」
「へえ、かっこいいこと言うじゃん。でもねえ……」
ウリエルが軽く笑った。
「そういうの、大抵すぐ死ぬんだよねえ」
黒と白、影と光が対峙するように、二人の間に雷鳴のような緊張が走った。
そして、戦いの火蓋が切って落とされるのは、ほんの数瞬後のことだった――。
その時だった――
後方から鋭い声が飛ぶ。
「私を斬りつけたのは、あいつだ!!」
振り返ると、声の主はイオ・ファランドール。まだ若さの残る彼女の瞳が、激情と怨念で燃えていた。
ウリエルの視線が、ゆっくりと彼女の方へ向けられる。白髪の男は目を細め、何かを確かめるように小さくうなずいた。
「……あれ?やっぱり…本当だったんだ」
彼はまるで実験の結果を確認するかのように呟くと、ふふふ……と喉の奥から不気味な笑いを漏らした。
「この“呪いの剣”で斬りつけたというのに、生きてるとは……ほんと、驚きだよ。面白い……実に面白い!」
その笑いは狂気そのものだった。兵士たちが息を呑み、誰もが言葉を失う中――
アンドラスがすかさず跳んだ。
黒装束の裾を風に揺らしながら、彼は音もなく距離を詰め、霊的な気配をまとった剣をウリエルの喉元めがけて振り下ろす。
だが――
「甘いな」
一拍遅れて、ウリエルの身体がしなやかに傾く。
まるで予知していたかのように一歩外し、懐に潜り込むと、仮面の隙間――その眼窩の奥を見据えながら、静かに、だが容赦なくアスモデウスを突き入れた。
ギィン――という金属音に続いて、鈍く濁った音。
刃は仮面の下、首筋をなぞるように滑り、深く切り裂いた。
「……ああ、あ」
ウリエルが小さく嘆くように息をついた。
「これで君も、呪いにかかったね……。この刀に一太刀でも斬られれば、その傷は呪いによって侵されていくのだよ――」
そう語るその顔には、陶酔にも似た愉悦の色が浮かんでいた。
だが――その言葉に、アンドラスは冷ややかに微笑んだ。
「呪い……? それは私には効かない」
低く、落ち着き払った声。
ウリエルの笑みが一瞬だけ引きつる。
「……なに?」
アンドラスの手が仮面を外しかけるような仕草を見せると、彼の身からふっと肉体の感触が薄れ、まるで霧のように揺らぎはじめた。
「気づいたか……そう、私は“ゴースト”――」
「……っ!」
ウリエルが目を見開く。
「……つまり、私は既に死んでいる。肉体も、魂の器もとっくに失っている。だから呪いも、毒も、命を奪う力さえも……私には、通じないのだよ」
声と共に、アンドラスの姿がふっと薄れ、次の瞬間、再び姿を現す。
その剣が、亡霊のごとく静かに、だが鋭くウリエルに切りかかる。
「なるほど……!」
応じるように、ウリエルはアスモデウスを横に払った。金属と金属が激しくぶつかり、火花が飛び散る。
その衝突の余波で、周囲の空気が一瞬だけ揺らぎ、まるで空間そのものが不安定になったかのように、歪んだ。
「ふふふっ……面白くなってきたじゃないか。まさか君みたいな“ゴースト”とやり合うことになるとは……!」
ウリエルの瞳がぎらりと輝く。
対するアンドラスも、無表情の仮面の奥で、静かに戦いの火を灯していた。
亡霊と狂賢者――
呪いと霊、刃と刃、そして過去と現在が交錯し剣戟が響く。
ウリエルが構えた“封呪剣”が幾度となく閃き、アンドラスの黒衣を斬り裂こうとする。だが――そのすべてが虚しく空を切る。
いや、正確には斬ってはいる。確かに刃は届いている。だが、手応えがないのだ。
「なっ……!」
ウリエルの顔に、はっきりと焦燥の色が浮かんだ。
彼の一撃一撃は、まるで霧に触れるように、何の効果も生んでいない。
「どうした?その程度か」
アンドラスが冷たい声で言い放つ。仮面の奥の瞳は、一切の感情を宿していない。淡々と、戦局を見据えるのみ。
ウリエルは歯を食いしばった。だが、やがて彼の体勢は崩れ、後退に追いやられていく。
無数の攻防の果て、ウリエルの背が、ついに石造りの城壁に触れた。
「終わりだな。相手が悪かったな、ウリエルよ」
アンドラスは剣先を彼の喉元に突きつけながら、勝者の声音で告げた。
だが――
「ふふふふ……勝った気でいるのかな?」
と、ウリエルは不気味に笑った。その目が、どこか別のものを見ているように爛々と輝いていた。
――次の瞬間。
彼の姿が、すっと掻き消えた。
「……なにっ!?」
アンドラスの目が細まる。霊的感知にも引っかからない、まるで異なる次元へ飛ばされたような消失。だが、それはすぐに現実の悪夢として現れる。
「くっ……!」
ウリエルは、既にアルル女王の背後に立っていた。王女の護衛すら気づかぬほどの速さだった。
「……ッ!」
女王が振り返る暇もなく、彼はその細い腰に腕を回し、そのまま軽やかに抱き上げる。
「ティレメタフォラス」
低く呟かれた呪文とともに、二人の姿が光に包まれ、瞬時に遥か彼方へと消えた。
(瞬間移動…か!?)
アンドラスの目が光った。
直後――空の向こうに現れるウリエルの姿。
彼の背には、白銀の魔翼が広がっていた。神秘的な光を放つ六枚の羽。まるで天使のような姿。しかし、その瞳には一切の慈愛がなかった。
片腕に抱かれているのは、レオグランス王国の象徴――アルル女王。
「くっ……しまった……!」
アンドラスが呻くように声を漏らした。その声には怒りも、焦燥もない。ただ冷静に、状況の変化を呑み込んだ戦士としての悔いだけが込められていた。
だが、空高く連れ去られる中――
突如、アルル女王が必死の叫びを上げた。
「――助けて!!ハル!!!!!」
その声は、雲を裂き、大地に響く祈りのようだった。
彼女の中にあったのは、王としての誇りでも、民のための責任でもなく――
ただ一人の少女として、かけがえのない存在「ハル」に縋る、魂の叫びだった。




