Chapter40【救世主】
――数時間前。
天は曇天に覆われ、黒煙のような霧が地平を這っていた。
空は静まり返り、風すらも息をひそめるその時――
聖ルルイエ帝国軍、三十万の大軍勢が突如、レオグランス王国へと進軍を開始した。
その波は怒涛の如く、大地を震わせながら北方辺境都市イリジャへと襲いかかる。
鉄の鎧が陽光を弾き、槍の列が地平線の先まで連なっていた。
抵抗むなしく、イリジャは瞬く間に陥落。
防衛線はあっけなく突破され、そのまま王都へと包囲網が敷かれた。
だが、レオグランスの誇り――王都は簡単には屈しなかった。
王城の周囲には、古代より伝わる聖なる防護結界が張られ、魔法も矢も全てをはじいていた。
天上へと伸びる、青白く淡い光のドームが都を包み、しばしの安寧を与えていた。
しかし――
それは、永遠ではなかった。
重厚な白銀の玉座の間。
床には王家の紋章が刻まれ、ステンドグラスから差し込む光が、絶望の中にわずかな神聖さを残していた。
玉座に座すは、若き女王――アルル16世ヒラリウス。
金のティアラを戴き、長く輝く金髪を纏うその姿は凛としながらも、どこか陰を落としていた。
玉座の下、守護騎士ガブリエルがひざまずき、低く進言する。
「アルル女王陛下……他国への援軍要請を、今からでも……」
その声には、焦燥と希望が滲んでいた。
だが――女王はそっと目を閉じ、かすかに首を横に振った。
「……もう、手遅れですわ……」
その言葉は、まるで鐘の音のように重く響いた。
その瞬間だった。
――パリ……ッ。
静寂の中、結界の空に亀裂が走る音がした。
「……!」
誰もが息をのむ。
空を覆う結界に、蜘蛛の巣のようにヒビが広がっていく。
青白い光が軋みをあげ、まるで都全体が呻いているかのようだった。
外から聞こえるのは、敵軍の鬨の声。
「……我が王国は、終焉を迎えるのか……」
アルルの手は、小さく震えていた。
それでもその瞳は、決して涙を流さなかった。
「……レオグランスは、滅びぬ。たとえこの身が朽ちようとも……」
その瞳には、最後の炎が灯っていた。
城壁の上――。
冷たい風が吹きすさぶなか、七人の戦乙女たちが、矢継ぎ早に命令を飛ばしていた。
彼女たちは王国親衛隊の精鋭、ファランドール七姉妹。
その瞳には恐怖ではなく、燃え上がる決意の光が宿っている。
「結界が破られるぞ!全隊、配備を急げ!弓兵は後列へ、魔導兵は詠唱開始!」
一番姉、イリア・ファランドールの声が夜空に響いた。
姉妹はそれぞれ異なる色のマントを翻し、まるで虹のように城壁を駆け抜けていく。
兵たちは慌てながらも、訓練された動きで次々と持ち場に就いていった。
だが、誰もが内心で感じていた。――これはもう「戦い」ではなく「最後の時」なのだと。
玉座の間では、女王アルルが床に崩れそうな足を必死に支えながら、外の光景を見つめていた。
その目は濡れてはいなかった。だが、絶望が肌からにじみ出ていた。
「ガブリエル……」
その名を呼ぶ声はかすれていた。
「……なんとか……ならないのですか……?」
アルルは、肩を震わせながらガブリエルの傍に跪いた。
その髪は戦場の塵にまみれ、瞳には深い悲しみが宿っていた。
「あなたの……あの恋人……魔王ルシファー殿は……」
アルルは振り返り、うつろな声で続けた。
「……彼はもう、頼りにならないのですか……?」
しばし沈黙が流れる。
ガブリエルはうつむき、重く唇を開いた。
「……はい。魔王殿は、もう……」
「ここ数十年、かつての部下たちの死に心を閉ざされ、自室の間から一歩も出ていないと言われています……」
その言葉の裏に、どれほどの無念が込められていたのか。
「この数十年……私は何百通も手紙を送りました。けれど……一通の返信すらありませんでした」
声が震える。
「……おそらく、もう……頼れる存在ではないのでしょう……」
その時だった。
――パキィィィンッ!!!
凍てつく音が空に響いた。
王都を包んでいた光の結界に、ついに決定的なヒビが走ったのだ。
ステンドグラスのように煌めいていた光のドームが、砕ける鏡のように音を立てて亀裂を広げていく。
「結界が……!」
城壁上の兵たちの悲鳴が響き渡る。
砕け散る光の破片が、空に舞い上がる。
その向こうには、漆黒の大地に無数の火が灯っていた。
――三十万の聖ルルイエ帝国軍のたいまつが、今や炎の海と化していた。
「……女王陛下、ご命令を」
ガブリエルが立ち上がり、剣の柄を握りしめる。
アルルは静かに、しかし誇り高く立ち上がった。
ティアラの宝石が、砕け落ちる結界の光を映しながら、輝いていた。
「最後の戦いです……レオグランスの名に誓って、一歩も引かぬ覚悟を見せましょう」
その声は、全軍の心に火を灯した。
漆黒の空を切り裂くように、火矢と魔法の光が雨のように降り注いでいた。
聖ルルイエ帝国軍――その数三十万の軍勢が、まるで怒れる神々の化身のように、王都を飲み込もうとしていた。
「火矢だ!防げッ!!」
ファランドール七姉妹の号令が、戦場の喧騒を裂いて響き渡った。
城壁の上――。
矢を構えた兵たちが震える手で弓を引き、魔導兵たちは声をからして詠唱を繰り返す。
だが、空からの猛攻は留まることを知らず、怒涛のように押し寄せてくる。
空に轟く火球、火矢の雨――
一撃ごとに石壁が崩れ、兵士が吹き飛び、城内の建物に炎が広がっていく。
「今だ!応射せよ!放て!!!」
ファランドール長女・イリアが叫ぶ。
白金の髪が風に翻り、蒼いマントが血塗られた石畳を駆ける。
その瞳に映るのは――圧倒的な絶望。
「姉さん!右の塔が崩れたわ!」「援軍は!?」
次女セラからの叫びも、すでに混乱の波に呑まれていた。
――そして。
イリアが玉座の間に状況を伝えるべく走り込んだ、その時だった。
「女王陛下、状況報告を――」
その瞬間、空を裂く轟音とともに、巨大な火球魔法が城の外郭から放たれた。
「イリア様、危ないっ!!!!」
ガブリエルが咄嗟に叫び、女王とイリアの前に飛び出した。
瞬間、燃え盛る火の玉が、まるで死神の鎌のように降りかかる。
――ドゴォォォォォン!!!
玉座の間が、まるで爆風に揺れた。
赤い光が視界を染め、破片が空を飛び交う。
耳が裂けそうな爆音のあと、熱風が部屋を一瞬にして焼いた。
「……ガ……ブリエル……?」
アルル女王が、崩れた石の瓦礫をかき分けながら、よろよろと近づいた。
そこには――
頭から血を流し、床に崩れ落ちたガブリエルがいた。
その胸には、深い火傷と傷が走っていた。
「嘘……でしょ……?」
女王の声は、まるで夢の中で響くように、どこか遠くから聞こえていた。
震える手が、その顔に触れる。
「……なんで……なんで、どうして……」
アルルの目から、大粒の涙が一筋、二筋とこぼれた。
「ガブリエルッ!!」
叫びとともに、その場に崩れ落ちるアルル。
血に染まった床に跪き、幼き日の記憶をなぞるように、その手を強く握りしめた。
――かつて、城の庭で花冠を贈ってくれたあの日。
――剣術の稽古に付き添って、額に汗を光らせていたあの横顔。
――「必ず、貴女を守ります」と、笑って言った声。
全てが今、音もなく崩れ去った。
「……やめて……誰か、もう……これ以上、連れて行かないで……!」
アルル女王は、空に向かって泣き叫んだ。
その声は、崩れた玉座の間に虚しく響くだけだった。
「ハル殿に……ハル殿に救援を……!」
イリアの声は、荒れ狂う炎と絶え間ない魔力の爆音の中でも、はっきりと女王アルルの耳に届いた。
その瞬間だった。
アルルは、ふと――別れ際に渡された小さな巾着袋のことを思い出した。
あのとき、微笑んだ――ハルの顔が、脳裏に浮かぶ。
「これを……もしもの時に使って」と言われた、あの言葉。
アルルは震える手で懐から巾着を取り出し、勢いよく紐をほどいた。
中からふわりと金の光が立ち上り、やがてそれは一羽の鳥の形を取った。
まばゆい光の翼を広げたそれは、まるで“命の風”そのもののようだった。
「お願い……ハル様……どうか……!」
女王の祈りの声が届いたかのように、光の鳥は天を仰ぎ、
次の瞬間、風を裂いて西の空へと一直線に飛び立った。
王城の上空に、火と煙が渦を巻く。
しかし、希望はまだ残っていた。
城壁の上――その希望を守るべく、ファランドール七姉妹が、必死の奮闘を続けていた。
「弓兵、後退!魔導部隊、左翼に集中して!」
長女・イリアの声は、血に濡れた唇から絞り出されていた。
その額からは流血し、左肩はすでに鎧ごと裂かれている。
次女・セラは矢で右腕を負傷しながらも、味方に防御魔法を張り続け、
三女・イオは膝を引きずりながら、仲間の回復魔法を繰り返していた。
しかし――四女・ロイと五女・ロミは、すでに意識を失い、衛兵に抱えられて後方で手当てを受けていた。
「くそっ……このままじゃ全滅する……!」
イリアが歯を食いしばる。
空からはなおも炎の雨が降り、敵兵が次々と城壁をよじ登ってくる。
そんな中――
アルル女王自身が城壁へと駆け上がってきた。
豪奢なドレスの裾は焦げ、白い肌には煤がついていた。
それでも彼女は、血まみれの兵士に膝をつき、懸命に包帯を巻きながら声をかけ続けていた。
「しっかり……あなたはまだ、生きてる……!」
その目に浮かぶ涙は、悲しみと怒り、そして希望を込めて揺れていた。
「どうか……どうか、来て……ハル様……あなたが最後の希望なのです……!」
「あ……あれは……」
傷ついた体を支えながら、セラ・ファランドールが呆然とつぶやいた。
西の空――
血に染まる戦場の空を裂くように、突如として現れた無数の影。
最初はただの点にしか見えなかったそれは、やがて10万を超える軍勢であることが誰の目にも明らかとなった。
「……鳥……いや飛竜、魔王の飛竜軍だわ……!」
誰かがそう叫ぶ。
その言葉通り、数百、いや数千のワイバーンが空を覆い尽くし、その中心――
漆黒に染まる一際巨大な影が、風を断つように羽ばたいた。
「魔王……!?」
セラが空を指差し、嗚咽まじりに名を呼ぶ。
その瞬間――
漆黒の飛竜が一気に急降下し、城の外縁部に陣取る帝国軍の魔導師部隊に向かって、轟音と共に灼熱の業火を吐き出した。
「ぐあああああああああ!!」
「火だッ!飛竜が火を吐いてくる――っ!!」
地上でうごめく聖ルルイエ帝国兵たちは、突如降りかかった天の怒りに似たその一撃に、次々と焼かれ、混乱の声を上げた。
「援軍だ!!! 魔王軍の援軍だぞ!!」
誰かが叫ぶ。
その声に、城壁にいた兵士たちはまるで夢から醒めたかのように顔を上げた。
「見ろ! 空の中央に立つ、あの黒き装束の者……!」
兵士たちが指差すその先――
黒い双角の兜を戴き、真紅のマントを翻し、風を切って飛ぶ一人の人物。
その圧倒的な存在感と、魔力の奔流は、誰の目にも“ただ者ではない”と理解させた。
「……まさか……」
アルル女王もまた、思わず呟く。
「……あれは……魔王……いやハル様?」
セラが、言葉に詰まりながらも確かめるように答えた。
「……魔王様、なのですね……ハル様が……」
その瞬間、兵士たちの間から歓喜の声が湧き上がった。
「魔王様が来られたぞーーーッ!!」
「我らを見捨てなかった!!」
「魔王軍、万歳!!魔王様、万歳!!」
喜びと感涙、そしてどこか信じがたいような“神話の再現”を見るような眼差し。
**
魔王軍は次々と降下を始め、
大地を揺るがすような一斉攻撃が始まった。
不死騎軍が大地を踏み鳴らしながら帝国兵を蹴散らし、
上空からは飛竜軍が炎を撒き散らす。
そして――
「我が名は、魔王ルシファー――なり!!」
ハル子の声が空を裂き、全戦場に轟いた。
その声は、雷鳴の如く力強く、兵士たちの心に刻み込まれた。
「貴様ら、我が同盟国を襲ったその罪――魂に刻んで後悔せよ!!」
その一喝に、帝国兵の士気は音を立てて崩れ、
たちまち前線が瓦解し始めた。
――戦場に希望が、降り立ったのだ。




