Chapter39【復活】
その名は、いまや世界に轟く。
魔王ハル子――蟲王の森の支配者、ログエル王国の王、トスカーナ大公国、ユグドラシル獣王国すべてが魔王ハル子の名の下に敬われていた。
しかしその威厳に満ちた肩書きとは裏腹に、いま彼女は――道に迷っていた。
場所は聖なる雪山、カンチェンジュンガ。
朝靄に沈む静謐な森の奥、古より封じられし忠臣を解き放たんと、一人分け入ったはよかったのだが。
「……うーん。やっぱりこの大木、さっきも見た……」
苔むした巨木の根元に立ち尽くし、ハル子は空を仰ぐ。
霧に包まれた空は白く、陽の位置もわからぬ。木々はどれも似たような姿で、方向感覚はとっくに崩壊していた。
風が音もなく枝を揺らし、どこか遠くで鳥の羽ばたく音が聞こえた。
(私って、一人だとポンコツ過ぎない・・・)
と嘆きつつ
黒紫のローブが枝に引っかかり、角が木々の間にぶつかるたびに、ため息がこぼれる。
その姿はもはや威厳ある“魔王”というより、“迷子の旅人”に近かった。
ふと、森の奥から――静かで柔らかな声が響いた。
「……魔王様。どうされたのですか?」
その声に、ハル子の肩がびくりと跳ねた。
今でも耳に焼き付いている――その低く、包み込むような声色。
胸の奥にある封印が、音を立ててほどけていく。
(……ま、まさか……!)
振り向いた先に、朝日を背に立つ一人の男の姿があった。
霧の帳の中、朝の陽光がゆるやかに射し込み、彼を後光のように照らす。
滑らかな黒髪が流れ、漆黒の外套は草葉の露に濡れてきらめいていた。
その瞳は穏やかに笑みをたたえ、静かなる風すら、彼のまわりだけ止まったかのように思えた。
美形青年…蟲王ルイ――
魔王ルシファ―の親友であり、ただ一人、ハル子の心を乱す存在。
「おおっ……これは……! 蟲王ルイ殿ではないですかっ!!」
思わず声が裏返る。そんなことはどうでもよかった。
久方ぶりの再会に、ハル子の胸は早鐘のように高鳴っていた。
ルイは相変わらずの優雅さで、胸に手を当てて深く一礼する。
「お久しぶりでございます。我が親友、ルシファー殿」
その言葉に、ハル子は胸が締めつけられるのを感じた。
(あああ……私が女だって、言いたい……!)
内心叫ぶが、外見は完璧な“魔王”そのもの。
黒き双角、深い紅の瞳、そして圧倒的な魔力を漂わせる威圧感。
その実態は、ただの恋する少女であるというのに。
だが、想いを飲み込み、ハル子は無理やり口角を上げる。
「あー……実はな。カンチェンジュンガ山に封印された我が忠臣、ラ・ムウを目覚めさせに来たのだが……その、場所がわからなくてな……」
言いながら、少し視線を逸らす。
だが、彼はすぐに状況を察したのか、やわらかな笑みを浮かべて一歩、近づいた。
「ふふ……それでは私が、ご案内いたしましょう」
光の中で微笑むルイは、まるでこの森の守り神のようだった。
そのまなざしは深く澄み、全てを包み込むようなやさしさがあった。
(……うわぁ……その笑顔……心に、刺さる……)
ハル子はその瞬間、ほんの一秒、世界が止まったように感じた。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。まるで、凍てついた魔王の心が春の風で解けていくような。
そして、ただ一言。
(……今ここで、爆死してもいい……)
そんな想いを胸に秘めながら、ハル子はルイの後に続いた。
向かう先は、長き封印の眠りから、大魔道士ラ・ムウが蘇る聖なる地。
朝霧に包まれた森の中、ふたりの足音が静かに響いていた――。
森を抜け、岩壁に囲まれた静寂の谷間に足を踏み入れた瞬間、ハル子は目を見開いた。
そこには――見知った顔ぶれが、すでに揃っていたのだ。
魔王軍・四天王のひとり、飛竜リヴァイア。長い黒髪を靡かせ、ハル子の到着に反応する。
氷のような冷気を纏う氷結のリリスは、寡黙ながらも確かな存在感を放っていた。
長い外套に鳥の仮面を被ったアンドラスは、いつも通り得体の知れぬオーラを浮かべている。
その後方には、ログエル王国の老練なる大魔導士――マーリン。
さらに、その隣には漆黒のボディが重厚な存在感を放つロボット兵アルバス、
そして目を輝かせる若き修道女ガーラの姿もあった。
「魔王様っ!!」
リヴァイアがまっすぐに駆け寄り、真剣な眼差しでハル子を見つめる。
「おおお、魔王閣下……お久しゅうございます!」
マーリンは杖をつきながらも歩み寄り、懐かしそうに目尻を下げた。
続いてガーラが一歩前に出て、まっすぐに頭を下げる。
「魔王様、修行を終えました。もしよろしければ、今後は正式にお側に仕えさせてください!」
その笑顔はあまりにもまっすぐで、ハル子の胸を少しだけ打った。
「そうそう、この子は天才じゃ!」
マーリンが手を振ってガーラを指す。
「わしが教えたことを、1聞けば10理解する。常人なら数十年かかる高度魔法を、まるで呼吸するように習得してのぉ……まさしく、逸材じゃ!」
それを聞いたハル子は微笑を浮かべる。
「ふむ、それは頼もしいことだな……期待しているぞ、ガーラ」
その瞬間、背後から機械音混じりの重低音が響いた。
「魔王様も……お変わりなく……」
振り向けば、アルバスが無機質な顔のまま、静かに立っていた。
「ほほう、お前も相変わらずだ‥‥な……」
ハル子が笑みを浮かべると――
(……まあ、ロボットだから変わるも何もないけどね!)
と、心の中で自らツッコミを入れる。
懐かしき仲間たちに囲まれて、ハル子の胸に久しぶりの温かさが広がった。
その時だった。
谷間の奥、封印の石碑が淡く光りはじめる――
いよいよ、伝説の大魔道士ラ・ムウの復活の刻が迫っていた。
「魔王様、これを」
アンドラスがすっと手を差し出し、手のひらに青白く輝くクリスタルを乗せる。
仮面の奥の視線は変わらず読めないが、その仕草には確かな忠誠の念が滲んでいた。
ハル子は頷き、懐から自身が持っていた二つのクリスタルを取り出す。
赤、青、金――それぞれ異なる光を放つ三つのクリスタルが、彼女の掌の上で静かに共鳴を始めた。
「さあ、これで三つ揃った……」
魔王としての威厳を保ちながらも、胸の奥に微かな緊張を感じつつ、
ハル子はクリスタルをマーリンへと手渡す。
「マーリン殿……頼みましたぞ」
「……うむ」
老魔導士は一つひとつのクリスタルを慎重に受け取りながら、しみじみと呟いた。
「この呪文を唱えるのは、おそらく最初で最後じゃろう……わしの生涯の集大成となる、究極魔法じゃ」
そう言って彼は、封印の中心――巨大な氷石の前へと進む。
その氷石はまるで時を止めたように静まり返り、その奥に、白髪と紫紋を帯びた魔道士の姿が、まるで眠るように封じられていた。
マーリンは三つのクリスタルを石の前に捧げ、両手を広げる。
風が止まり、空気が張り詰め、周囲の魔力が一気に集中する。
「――さあ、すべての封印を説くアルティメット魔法……」
マーリンの瞳が金色に輝き、声が次元を震わせる。
「レクルーデル!!!」
その瞬間、三つのクリスタルが眩い光に包まれ、まるで小さな太陽のように空間を照らした。
空が震え、大地が唸る――魔法陣が大地に浮かび上がり、封印の氷石が淡く脈動を始める。
ヒビが、ひとすじ……ふたすじ……
「パリ……パリリ……!」
鋭い音を立てて、氷の表面がひび割れていく。
光がその隙間を走り、全体を覆っていくと――
「パリンッ!!」
粉雪のように、氷石が四散した。
その瞬間——
ふわりと宙から舞い降りるようにして、一つの影が地表に降り立った。土埃が静かに舞い上がり、重力の支配を無視したかのような滑らかな着地。その男こそ、魔王軍四天王の一角にして“大魔導士”の異名を持つ者——ラ・ムウであった。
身の丈は優に二メートルを超え、魔王ルシファーと肩を並べるほどの威容。長く伸びた白髪と、それに連なる立派な白鬚が風にそよぎ、その厳つくも知性を宿した顔つきは、歴戦の老戦士を思わせた。
彼の身を包むのは、漆黒に紫を滲ませた魔導士のローブ。見る者に得体の知れぬ不気味さと威圧感を与えるその衣は、ただの装飾ではない。数千年を生き、幾千の術式を極めた者だけがまとうことを許される魔法織の装束であった。
そして、何より異様だったのは、彼の放つ魔力だ。
空気がねじれ、地が震え、見えぬはずの力が周囲に満ちてゆく。ラ・ムウの身体から放たれるその圧倒的なオーラは、時に魔王すらも凌駕する。空気は重く、まがまがしき力の奔流が、場の空間そのものを変質させていった。
やがてラ・ムウは、静かに片膝をついた。長い年月を封印の中で過ごしていたとは思えぬほど、堂々とした所作。威厳を崩すことなく、臣下の礼をとるその姿には、周囲の者すら息をのんだ。
「魔王ルシファー様……そして大魔導士マーリン様。並びにここに集いしすべての方々に、心より感謝申し上げます」
深々と頭を垂れるラ・ムウ。その声は低く、よく通る。そしてその言葉の奥には、封印の歳月を乗り越えた者の誇りと決意が宿っていた。
静寂を裂くように、乾いた足音が響いた。
「タッ…タッ…タッ…」
硬い石の床を走るその音は、焦りにも似た熱を帯びていた。場の空気を支配していた荘厳な静けさが、足音に導かれ、わずかに緩んでゆく。
次の瞬間——
「お師匠様ぁっ……!」
声と共に、その小さな影は勢いよくラ・ムウの胸元に飛び込んだ。
それは、魔王軍不死騎軍副軍団長——氷結のリリス・カスミ。
普段は冷酷無比な氷の魔女として名を轟かせ、髑髏の仮面で素顔すら隠していた彼女だったが……今はその仮面を外している。
仮面はどこかに放り投げられ、紅く潤んだ瞳からは涙が次々とこぼれ落ちていた。
その姿は戦場に立つ冷たい魔女などではなく、ただただ、大切な人を失いかけ、ようやく再会を果たした――ひとりの少女にすぎなかった。
「……さあ、泣くでない……泣き虫カスミよ」
ラ・ムウは静かに微笑むと、大きな手で彼女の頭を優しく撫でた。
その仕草には、かつて数多の弟子たちを導いた師のぬくもりと、失われていた時間を惜しむ想いが滲んでいた。
「会いたかったです……ずっと、ずっと……」
リリスの肩が震える。涙は止まる気配もなく、彼女はただ、師の胸の中で嗚咽を漏らし続けた。
それを、少し離れた場所から見守っていた者がいた。
四天王—飛竜の—リヴァイア。
こぼれる涙を袖でぬぐいながら、そっと目を閉じる。
「……よかったな、氷結のリリス・カスミよ」
小さな声が風に溶けていった。
静寂が戻ったその場に、温かな涙の気配だけが、しばし残された――。
こうして、ついに魔王軍四天王のうち二人が、再び一堂に会した。
魔王ハル子は、ラ・ムウの出現と、その存在感に心の奥がざわついた。
(……魔力やば……!)
表情には出さぬまま、ハル子は内心で呟いた。
(私より……圧倒的に強いよね、この人……!)
比べ物にならないほどの魔の密度。姿を見ただけで、肌が粟立つ。
これほどの存在が封印されていたとは――まるで一つの神話を目の当たりにしているようだった。
そしてその時、ラ・ムウが再びゆっくりと立ち上がった。
落ち着いた眼差しを魔王に向け、その唇が静かに動き出す。
「魔王ルシファー様……いや……」
そこで彼の言葉が止まった。
微かに眉が動く。
何かを、察したのだ。
長い封印の眠りから目覚めたばかりのラ・ムウであったが、その知恵と洞察は錆びついていない。
眼前に座す「ルシファー」を見つめるその視線が、わずかに揺れた。
その眼には、ただの忠臣としてのまなざしではなく、
“何かを見透かす眼”の光が宿っていた――。
その時だった。
ラ・ムウの言葉に詰まりが生じたまさにその瞬間、天より光を放ちながら
一羽の鳥が舞い降りた。
その鳥は静かに魔王の肩に降り立ち、鈴の音のような声で、一声――囁いた。
“魔王”ハル子の表情が、一変した。
凍りつくような焦りが、その顔を走った。
「……緊急事態が発生した!!」
その声は場を裂き、空気を一気に張り詰めさせた。
剣より鋭く、魔力より重く、その命令は、軍勢すら押し黙らせるほどだった。
「復活したばかりで申し訳ない、ラ・ムウ殿……!だが時間がない!我が魔王軍、直ちにレオグランス王国へ進軍する!」
瞬間、場が凍ったように静まり返る。
誰もが耳を疑い、言葉を失った。
魔王が、ここまで切迫した声を上げるとは――ただごとではない。
「良いか、聞け!」
ハル子は振り返り、魔王軍の将たちに鋭く命じた。
「ラ・ムウ殿の指揮する《不死騎軍》、リヴァイアの《飛竜軍》、そしてアンドラス率いる《魔戦軍》! ただちに軍を整え出撃せよ! 緊急事態だ、最速で向かうぞ!!」
次々と指名される将たち。
その名に呼応するかのように、周囲の空気が動き出す。
かつて世界を震撼させた魔王軍の力が、再び牙を剥く時が来たのだ。
「蟲王ルイ殿、ありがとう。そしてマーリン殿も感謝いたす!」
そう言い残すと…
次の瞬間、空が轟いた。
黒き飛竜――バハムートが、リヴァイアの召喚に応じて天を裂き現れる。その背に飛び乗る魔王ハル子とリヴァイア。巨体を揺らしながら、バハムートは天へと舞い上がり、雷光を伴って北東の空へ飛翔した。
それを黙って見送る蟲王ルイ。その視線の奥には、無言の祈りがあった。
「私を、置いていかないでぇーっ!!」
甲高い声が響くと共に、修道女ガーラが漆黒の巨大ロボに飛び乗った。
ジェットパックから吹き出す魔力の炎を背に、彼女もまた空へと舞い上がり、二人の後を追ってゆく。
そして地上では、まだ微笑みを絶やさぬラ・ムウが、静かに呟いた。
「目覚めてすぐ戦争とな……ふ、肩慣らしにはちょうど良いわい」
隣で瞳を輝かせるリリスも勢いよく言い放つ。
「私もお供しますっ!」
ログエル王国の大魔導士マーリンは長い杖をつき、空を見上げながら深く頷いた。
「……なにか、とんでもない事態が起きたようですな。お気をつけて……」
その言葉にラ・ムウはただにっこりと笑い、ゆっくりと一礼した。
そして右手を掲げ、短く詠唱を紡ぐ。
「飛翔」
空気がねじれ、風が巻き起こる。次の瞬間、ラ・ムウとリリスの身体はふわりと浮かび、風を切るようにして、北東の空へと駆けていった。
こうして、再び動き出す――
レオグランス王国に迫る“何か”に向かい、魔王軍は今、最大戦力をもって集結しつつあった。




