Chapter35【智謀】
帝国軍十四万が怒涛の勢いで魔王連合軍に向け突撃してきた。
先陣を切るのは、鼻息荒く突き進む人族兵たち。
「俺が一番乗りだ!」
「魔王の首は俺のものだ!」
勝ち戦と信じ込み、功績を独り占めにしようとする欲望が、彼らの目を曇らせていた。
――ドガン! ガキン!
大地を震わせる衝撃音が、戦場に鋭く響き渡る。
その最前線には、魔王軍の誇る岩石の軍勢、ゴーレム隊が立ちはだかっていた。
その肌は岩盤のごとく硬く、剣を弾き、魔法を吸収する。
無言のまま、圧倒的な質量で敵を迎え撃つ。
「前列、持ちこたえろ! 援護はすぐだ!」
妖艶なるメデューサ・ベリアルの声に応じ、ゴーレムたちはさらに盾を構え、進撃を阻む壁と化す。その一体一体が巨岩のように重く、敵兵の動きを封じながら、じわじわと後方へ下がっていく。
それは退却ではなかった。罠の布石――誘導である。
剣の閃き、爆ぜる魔法。混乱の中、敵兵たちは気づかぬまま戦場に深く踏み込んでいく。
そして次に現れたのは――帝国兵第二陣。
その黒き影、鋭い爪。帝国の獣人兵であった。
彼らは人族兵とは違い、冷静で無言。狩りの獣のように目を光らせ、隙を探っていた。
「予想通りの展開でございます」
本陣の天幕にて、静かにそう告げたのは、トスカーナ大公の軍師――
名をジャン、今は“太公望”と号する天才軍師であった。
その目は冷静に戦場を見下ろし、すでに次の一手を見据えていた。
「さあ、こちらに」
彼が手を差し伸べた先には、赤く輝く小さな水晶が鎮座していた。
その前に呼ばれたのは、若き獣人の子ケル、そして旧獣王国軍総帥、ツァラトゥストラである。
「さあ、シャオンの水晶よ! 発動せよ――!」
太公望の声が天幕内にこだますると同時に、水晶が赤く脈動し始めた。
轟くような魔力の波動が周囲を震わせ、空気が歪む。
そして次の瞬間――
天空に、まるで神の幻影のごとく、巨大な映像が浮かび上がった。
それは、ケルとツァラトゥストラの姿だった。
彼らは静かに立ち並び、まっすぐに戦場の全兵士たちを見据えている。
帝国軍の動きが、一瞬止まった。
無数の兵士たちが、武器を構えたまま、ただその幻像を見上げる。
動揺が走る。
「ツァラトゥストラ総帥……?まさか……」
「どうしてあの総帥が、魔王軍に……?」
さざ波のように広がるざわめき。
太公望の張った罠が、ついに敵の心を揺るがし始めた――。
「帝国に従う獣人族の者たちよ――!」
ツァラトゥストラの重々しくも力強い声が、戦場の隅々まで響き渡った。
シャオンの水晶が、その咆哮を拡声器のように増幅し、空気を震わせる。
「この者の名は――ケル・ヌンノス!
第十七代ヌンノス女王であられる!」
映し出された少女の瞳が、真っ直ぐに獣人たちを見据える。
その首元には、銀色に輝くフェンリルの首飾り。
王家にのみ伝わる、獣王国、国王の証であった。
沈黙が落ちた。
そして――
「……い、生きていらっしゃったのですか……姫君……」
誰かのかすれた呟きが、風に乗って広がった。
「姫君……だと……?」
「まさか……ケル様が……」
「ヌンノスの血が……!」
そのさざ波は、やがて大きなうねりとなる。
「姫君の御帰還だ!」
「獣王国、復興の時ぞ!」
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
咆哮のような雄叫びが、第二陣の獣人兵から湧き上がる。
剣を捨て、魔王軍に向かって走る者すらいた。
戦場は、想定外の激震に包まれていく――。
「さあ! 貴様ら帝国に従わされし獣人兵どもよ!」
ツァラトゥストラの声が、雷鳴の如く大地に響いた。
「今こそ、己が誇りを思い出せ!
人族の鎖を断ち切り、ユグドラシル獣王国を取り戻すのだ!!」
その瞬間――
怒号のような雄叫びが戦場を揺るがした。
「うおおおおおおおおおおおお!!!」
帝国軍第二陣を占めていた獣人兵たちが、一斉に反旗を翻したのだ。
剣を抜き、爪を剥き、牙を剥き出しにして――彼らは現主である帝国兵に襲い掛かる。
隊列は崩壊し、混乱が連鎖する。
帝国兵たちは何が起きたのか理解する間もなく、味方であったはずの獣人たちに押し倒され、蹂躙されていく。
その数――七万を超える。
戦場が、赤黒く塗り替えられていく。
「今です!全軍、突撃せよ!」
本陣の高台で、太公望が鋭く叫んだ。
その声が風に乗り、戦場の隅々にまで届く。
「よし!ゴーレム兵団、前進し敵兵を粉砕せよ!!」
岩のような巨体を揺らしながら、ベリアルの命令を受けたゴーレムたちが地を踏み鳴らす。
「我が百獣軍も続くわよ!突撃ぃぃぃぃ!!」
猛獣のような咆哮と共に、ヴァルフォレが軍勢を率いて走り出す。
獣人、獣騎、猛禽が一斉に飛び出し、大地と空を揺るがした。
その号令が戦場を一変させた。
帝国軍、挟撃。
前方からはゴーレムと百獣軍五万、
後方からは寝返った獣人兵七万が押し寄せる。
一気に数の優位が反転した。
魔王連合軍、十二万。
帝国軍、七万――しかも、その多くが混乱と恐怖に包まれていた。
「な、何が起きている……!?」
「後ろから!?敵!?いや、味方だったはず――ぐあああっ!」
叫びと悲鳴が入り混じり、戦場は地獄と化す。
剣が閃き、魔法が炸裂し、血が宙を舞う。
戦の大局は、もはや動かしようがなかった。
乱戦。
そのただ中で、太公望の目が冷たく光る。
「これぞ智謀――勝ちは我らのものだ」
戦場の地鳴りと咆哮が響く中、ツァラトゥストラは、リヴァイアの眷族――漆黒のワイバーンの背に乗った。その瞳には覚悟と誇り、そして決意が宿っていた。
「ここから先、私は王都奪還に向かいます!」
ケルが小さく頷いた。
本陣からは、太公望の声が響く。
「お気をつけて!作戦通り頼みます!」
「……任せて!」
ツァラトゥストラが振り返り、最後の声を残した。
ワイバーンが、翼を大きく広げる。
その一撃で地面の塵が巻き上がり、兵たちの視線が空に集まる。
バサァア――ッ!!!
轟音とともに、その黒い影は空高く舞い上がった。
ツァラトゥストラを乗せたワイバーンは、燃え盛る戦場を後にして、王都ユグドラシルを目指して飛翔した――
一方そのころ、魔王ハル子は王都カルカソンヌの城下町に――
ただし、完全に迷子になっていた。
「おかしいな……さっきの角を曲がれば広場に出ると思ったんだけど……」
と、自身のカリスマとは裏腹に、路地の中で不安げに呟いていた。
ところが次の瞬間、路地裏からけたたましい悲鳴が響く。
「きゃああああっ!」
「お母さーん!!」
ハル子の表情が一変する。
悲鳴の聞こえた方へ駆け寄ると、そこには高級住宅の扉を蹴破って侵入した帝国兵たちがいた。
「うるせえ!」
帝国兵の一人が、貴婦人らしき女性の髪を掴み、無理やり引きずり出している。
もう一人は、泣きじゃくる小さな女の子――まだ五、六歳ほどだ――を脇に抱え、力任せに連れ去ろうとしていた。
その瞬間、路地の奥から、凍てつくような声が響いた。
「……待てい」
淡い魔力が空気を震わせる。
姿を現したのは、優に2mを超える双角の魔王!――否、魔王ハル子であった。
ただ佇んでいるだけなのに、世界が変わったかのような威圧感。
通りに漂う空気さえも、その存在を前にして息を潜めた。
「だ、誰だテメ――」
帝国兵は声を上げて振り向いたが、視線の先に立っていた魔王を見た瞬間、その言葉が喉に詰まった。
「な……なんだ……こいつ……!」
その足元が、ブルブルと震えている。
空気は冷たく、重く、全身を押し潰すような威圧感に満ちていた。
あまりの異質さに、本能が逃げろと警告していた。
魔王ハル子が静かに歩み寄る。
その瞳は冷たく、だが微笑みを浮かべていた。
「この指を見よ……」
すっ――と手を伸ばすと、帝国兵の額に軽く指を添える。
そして――
「消し飛べ!!!」
パチンッ!
とデコピンをした。
その音とは裏腹に、帝国兵の体が弾丸のように吹き飛んだ。
そのまま向かいの家の石壁に叩きつけられ、ドガンッ!!と爆音を立てて崩れ落ちる。
兵士はそのまま地面に倒れ伏し、ピクリとも動かない。
唖然とするもう一人の帝国兵。
ハル子はゆっくりとそちらにも目を向け、笑顔を浮かべながら言った。
「次、お前の番だ……どうする?」
小さな女の子を脇に抱えていたもう一人の帝国兵は、先ほどの光景に顔を引きつらせたまま、ガクガクと後ずさった。
「ひ、ひいいっ……バ、化け物ォォォ!!」
足元に、ぴちゃっ……と不名誉な音が響く。
帝国兵は少女を取り落とすと、その場から転がるように逃げ出した。
情けない悲鳴を上げながら、路地の奥――おそらく王都の方向へと走り去っていく。
ハル子は、ポツンと取り残された少女に近づき、そっと手を差し出した。
「怖かったな‥‥もう大丈夫だ」
少女は泣きじゃくりながらもうなずき、その手をぎゅっと握った。
(……逃げていく方向、あれが王都の中心か。急がないとね)
魔王ハル子は小さく息をつき、少女と母親の無事を確かめると、再び王都の混乱の中へと歩みを進めた。
怯えきった様子の母娘が、まるで今にも逃げ出しそうな足取りで、それでも勇気を振り絞るように、ゆっくりとハル子に近づいてきた。
「た、助けていただき……まことにありがとうございました。どのようなお礼をすればよろしいか……」
母親は深く頭を下げ、その声には震えが混じっていた。そっとその手を握る少女も、きちんとした礼儀作法を学んだのか、小さくぺこりと頭を下げた。まだ年端もいかぬ彼女の頬には、涙の痕が残っている。
「うむ、礼などはよい。ただ――」
ハル子は軽く腕を組みながら、ふと思いついたように小さく首をかしげた。その顔に浮かぶのは、どこかいたずらめいた笑み。
「そうだな……王都カルカソンヌの城まで案内してくれぬか?」
「そ、そんなことでよろしければ……道案内いたします」
母親は少し目を見張ったが、すぐに表情を引き締め、腰を低くして頷いた。そして少女の手を取ると、背筋を伸ばし、迷いのない足取りで城への道を歩み始める。
ハル子はその背を見つめ、ふっと口元を緩めた。
(ふむう。やはり人助けはいいな~。)
自分の中の“評価メーター”が上がっているのを想像して、少しだけ得意げな気分になりながら、ハル子は母娘の後を軽やかに追った。舗装がまばらな石畳の道には、前夜の雨でできた水たまりが残り、歩くたびに靴音がやわらかく響く。
そのときだった。
空が急に翳り、ハル子たちの頭上を、影が音もなく横切った。
「……あれ?」
思わず足を止め、空を見上げたハル子の瞳に映ったのは――漆黒の翼を広げ、悠然と大空を舞う巨大なシルエット。
ワイバーンだ。
(やばっ、あれって……)
ハル子の顔からさっと血の気が引く。
(集合時間……完全に遅刻だ……!)
心の中で思い切り頭を抱えつつも、表情には出さず、やや引きつった笑みを浮かべたまま、母娘に向き直る。
「あの……少しだけ、早歩きでお願いできぬか……?」
「は、はいっ!」
母親はハル子の表情の変化に気づいたのか、緊張した面持ちで頷いた。少女も、それにつられるようにしっかりと手を握り返す。
三人は自然と足を速め、やがて軽く小走りになりながら、王都カルカソンヌへと向かっていった――




