Chapter33【ユグドラシル獣王国の過去】
城内の祝宴が熱を帯びる中、突如として起きた白き獣人の慟哭に、周囲の空気が一瞬にして静まり返った。
煌びやかな宴席の中心で、真っ白な毛並みを揺らし、両膝をついて泣き崩れる獣人の姿に、誰もが戸惑いを隠せない。紅玉のような目からあふれた涙は、絨毯に落ちて小さな染みを作っていた。
魔王ハル子は一歩、彼女のそばに近づき、そっとポケットから白いハンカチを取り出した。
「……いきなり泣き出して…どうしたんだ? まあ、これを……」
差し出されたハンカチを両手で受け取った獣人は、震える手でそっと目元を拭った。そして、ようやく言葉を紡ぎ出す。
「……この子は……この方こそが……」
彼女の視線は、ハル子の隣で首を傾げるケルに向いていた。ケルはまだ状況を理解できず、きょとんとしたままハル子の後ろに隠れている。
「この方は――我らの王が遺された、唯一の姫君であられるのです……!」
その言葉は、静まり返っていた場に衝撃を与えた。
「なっ……なんと……!」
ハル子は思わず息を呑んだ。まさか、ケルが王族だというのか?
あの無邪気でおてんばな少女が……?
ケル本人はというと、なおも状況を掴めず、ぱちぱちと目を瞬かせながら周囲を見回している。
「え? ひめ? あたしが……?」
ハル子は一瞬、何かの冗談かと思ったが、獣人の目には冗談の色など一切なかった。涙で濡れたその瞳には、深い敬愛と、懐かしさ、そして胸を裂くような後悔が滲んでいた。
「私の名は……ツァラトゥストラ・レオグラード。ユグドラシル獣王国の国軍総帥にして、先王の忠臣……」
そう名乗ると、ツァラトゥストラは膝を折ったまま、ケルの前に両手をつき、額を深く床へとつけた。
「姫君……長きに渡り、所在不明となっていた貴女に、ようやく再びお目通り叶いましたこと……このツァラトゥストラ、生涯最大の歓喜にございます……!」
頭を下げたまま震える肩。
ハル子の脳裏をよぎったのは――あの名。我が軍のオネエ将軍、ヴァルフォレであった。
(レオグラード……確か、ヴァルフォレもその血筋の名だったはず。まさかツァラトゥストラと血縁関係……?)
宴の余韻が、静かな波のように遠のいていく。
魔王ハル子は、これから語られるであろう「獣王国の真実」に、背筋を正して耳を傾ける準備をした。
ツァラトゥストラの語る声は、まるで過去そのものが語りかけてくるかのように重々しく、宴のざわめきは遠い潮騒のようにかき消されていった。
「……我がユグドラシル獣王国は、北の聖ルルイエ帝国と、長年にわたり食料供給を軸とした同盟関係にありました」
ツァラトゥストラの声には、静かな怒りと深い悲しみが込められていた。
「しかし……今から五年ほど前のことです。突如として、帝国軍は我が王国を攻撃してきました。盟約を信じ、備えを緩めていた我らの虚を突かれ、駆けつけた時には――王都は、既に灰と化していたのです……」
その言葉に、ハル子は小さく息を呑む。ケルはツァラトゥストラの話を聞きながらも、まだどこか夢を見ているような顔でただ黙って立っていた。
「そこには……我が王、そして王妃の亡き骸がありました。もはや、我が祖国は存在しておりませぬ……」
ツァラトゥストラは絞り出すように言った。
「我ら獣人族は、以降……聖ルルイエ帝国の支配下に置かれ、多くの同胞が奴隷へと堕とされたのです」
その場にいた誰もが言葉を失っていた。ケルだけが、少し震える声でぽつりと呟く。
「……そんな、ひどいよ……」
ツァラトゥストラは頷き、視線をハル子へと移した。
「ですが、もしもの時に備えて、我々は――魔王国との間にも秘密裏に軍事同盟を結んでおりました。魔王ルシファー殿――」
ハル子は驚いたように目を見開いた。
「その際、ルシファー殿は、我が王国の一軍を自らの配下に置くことを要望された。ゆえに、我が弟・ヴァルフォレをその使者として、貴方のもとへと送り出したのです」
(あのオネエのヴァルフォレ‥‥彼がこのツァラトゥストラの弟……。)
「ですが……帝国の侵攻後、我が軍は地下に潜り、抵抗組織として活動を開始しました。幾度となく、魔王城へ援軍を要請いたしましたが……返答はありませんでした。そして……ヴァルフォレは都市バスティーユを失い、命からがら魔王城へと逃れたとも聞いております」
ツァラトゥストラの目には、怒りと諦め、そしてどこかに希望の欠片が見え隠れしていた。
「その後、我らは旧獣王国でレジスタンスとして活動し続けました。すると、つい最近――あの魔王ルシファー殿が、トスカーナ大公国にいるという情報を掴んだのです」
彼女はそっとケルに視線を戻す。
「そして……トスカーナ大公閣下より、貴殿が戻るまでの滞在を許された今、こうして再びお目にかかれたのです……」
ケルは、言葉を失っていた。
「そしたら……まさか、あなたが……ケル……」
ツァラトゥストラの声が震えた。
「……あなたの名前は、ケル・ヌンノス――第十七代、ヌンノス王であられます」
ツァラトゥストラの声は震えていた。だがその目には確かな確信と、再会の喜びが宿っていた。
「……生きておられたのですね……我らが、真の王よ」
彼女はそっと両手を差し出すと、ケルの手を取って包み込んだ。
その手の中に、何年もの無念と祈り、そして希望が宿っていた。
その場を見守っていたハル子は、ゆっくりと前に出ると、晴れやかな声で言った。
「なるほど……そういうことか。ならば――」
ハル子は両手を広げて宣言した。
「我が魔王国、ユグドラシル獣王国の復興に、力を貸そうぞ!」
堂々たるその声に、ツァラトゥストラが膝を折る。
「ま、魔王殿……まこと、お力をお貸しくださるのですか……!? 王女ケル様をお連れ頂いたことだけでも、感謝に尽きぬ恩がございますのに……!」
ツァラトゥストラは、思わずその場に膝をつき、頭を垂れた。感激のあまり、声が震えていた。
ハル子は、ふっと微笑み、視線をケルにやった。まだ困惑しているケルの背中に、そっと手を添える。
「まあ、ここには稀代の天才軍師――ジャン・ズーヤー殿もおられる。知恵をお借りすることにしようか!」
その名が告げられるや否や、宴の向こうから優雅に歩み寄ってくる姿があった。黒髪の軍師、ジャン・ズーヤーが、整った笑みを浮かべて名乗り出る。
「もちろん。魔王様のためなら、どこまでも策を巡らせましょう。獣王国の復興、我が誇りを賭けてお手伝い致します」
その横で、トスカーナ大公も大きく頷いた。
「獣王国と魔王国、そして我がトスカーナが手を組めば、もはや怖いものなどありますまい。我らも全面的に協力いたしますぞ」
「ありがとうございます……本当に……ありがとうございます……」
ツァラトゥストラは、込み上げる涙を拭うこともせず、ただ頭を垂れていた。その姿には、高潔な武人としての誇りと、姫を守り抜く忠義が滲み出ていた。
(……ほんと、この子、よく泣くな……でも、間違いなく強い。あの腕の太さと眼光……只者じゃないな)
ハル子は心の中で肩をすくめながらも、どこか頼もしさを感じていた。
――こうして、魔王国ハル子、旧獣王国軍総帥ツァラトゥストラ、そしてトスカーナ大公国の連合軍が誕生する。
その先に待つのは、かつて滅びたユグドラシル獣王国の復興――そして、クリスタルが封印されし地「世界樹」への新たな旅立ちであった。
翌朝。
トスカーナ城の重厚な石造りの会議室に、緊張感が満ちていた。
大きな円卓の周囲には、魔王ハル子とその幹部たち――リヴァイア、ベリアル、ビゼ。
そしてトスカーナ大公、軍師ジャン・ズーヤー。
さらに、獣王国から来たツァラトゥストラが堂々と立っていた。
彼女の手元には、丁寧に描かれた地図と軍編成の報告書がある。
「さて、我が方の戦力について、昨晩のうちに取りまとめておきました」
ツァラトゥストラが立ち上がり、静かに口を開いた。
「まず、我が旧獣王国から再集結させた残存部隊が――1万」
その言葉に、会議室内の空気がわずかに重くなる。
かつて優に十万を超えていた獣王国軍も、今ではその十分の一しか残っていない。
「そして魔王殿の軍の構成は以下の通りです」
ツァラトゥストラが視線をハル子に向けながら読み上げた。
「飛竜のリヴァイア様率いる《飛竜軍》1千」
「我が弟のヴァルフォレ率いる《百獣軍》……2万」
「妖艶のメデューサ・ベリアル様の《ゴーレム軍》……2万」
「黒影のビゼ様の《影偵軍》……1万」
それぞれの名が挙がるたびに、該当する幹部たちは軽く頷いた。
「トスカーナ側からは、ナージャ将軍殿が率いる軍、1万」
「つまり、我ら連合軍の総兵力は――7万1千」
次いで、ツァラトゥストラの表情が険しくなった。
「対する旧獣王国の現支配勢力――帝国軍の情報ですが……」
彼女は一呼吸おいて、名を告げた。
「四聖賢の一角――サマエル率いる主力軍……8万4千」
その名を聞いた瞬間、会議室の空気が一変した。
「続いて、《赤鎧》の異名を持つ将軍カマエルの軍……3万」
「さらに、《炎鞭》将軍クシエルの軍……3万」
「総計14万4千――我らの約2倍強です」
重い沈黙が落ちた。
数字の重みが、誰の心にも現実として突き刺さる。
ハル子は軽く唇を噛み、それからゆっくりと前を見据えた。
「ふむ……我が軍の2倍強か‥‥数では劣勢だが、捨て身の正面衝突をするつもりはない。知恵と奇策、そして――我らの絆で勝つ」
ハル子の瞳には、確かな決意が宿っていた。
「そうです。しかし相手は14万――ですが、そのうち半数、7万は“奴隷兵”です。獣王国の民たちを強制的に徴用した、いわば縛られた戦士たちで構成されております。」
軍師ジャン・ズーヤーが静かに口を開いた。
その声は落ち着き払っていたが、含まれた情報の重さに、室内の空気が一変する。
「しかし…獣人は、一騎当千。人間の三倍の戦闘能力を持つと言われています」
……(ヴァルフォレよ。なんで、そんな人間相手に負けてんだ……)
ハル子は小さく溜息をつき、ヴァルフォレを思い浮かべた。
ジャンは続ける。
「されど軍とは、兵の数や強さではありません。いかなる強き兵であろうと、愚かな将に率いられれば敗北する。逆に、才ある軍師と、志ある指揮官が揃えば、数倍の敵にも勝つ。……それが、戦です」
その言葉に、皆が息を呑んだ。
「私は自身が記した兵法書『六韜』『三略』を完成させました。この兵法が正しいか、今ここで、それを実戦にて示しましょう」
ハル子が興味深げに目を細めた。
「ほう、六韜と三略」
「ジャンよ、お主の名前をそこの布に書いてみせよ」
「はっ‥‥」
ジャンが戸惑いつつも筆を取り、布に一文字ずつ書き記す。
『姜子牙』
「……おおお!それって、あの‥‥!?」
ハル子は目を輝かせ、次の瞬間、筆を奪い取るようにして自ら文字を書いた。
『太公望』
ジャンが思わず声を上げる。
「これは……?」
ハル子はにやりと笑った。
「太公望――トスカーナ“大公”が“望”んだ賢者という意味だ。」
「そんな・・・恐れ多い・・・しかしながら命の恩人、魔王様の命名ならば、喜んで」
ジャンは深々と頭を下げ、神妙な面持ちで口にする。
「タイゴンウォン……」
「違う違う。『たいこうぼう』ね?」
「『たいこうぼう』……かしこまりました、魔王様」
ハル子は満足げに頷いた。
「――で、本題に戻ろう」
重く沈黙していた会議室の空気を、ハル子の声が切り裂いた。
「太公望よ。そなたに、獣王国復興の秘策があるのでしょう?」
その問いに、軍師ジャン・ズーヤー――いや、“太公望”は静かに一度頷いた。
「……はい。王都を奪還し、聖ルルイエ帝国の支配を排除する秘策が――ございます」
その一言が放たれた瞬間、部屋の空気が変わった。
扉を開く前の静寂。
弓を引き絞ったままの緊張。
火蓋が切られる前の、ただならぬ沈黙。
誰一人、声を発さない。
ただ、太公望の口から語られる“秘策”を待つ。
そこにいた全員の心に――今、確かに火が灯った。
――この瞬間から、獣王国復興作戦は、静かに、だが確実に始動したのであった。
(あ……そういえば、ヴァルフォレ……)
ハル子はふと我に返り、心の中で小さくため息をついた。
(頭数に入ってるんだった。呼ばなきゃね、あのオネエ獣将)
にやりと笑みを浮かべた。
(さて――全員そろえて、いざ“逆転劇”の幕を開けましょう)
心の中で思うハル子であった。




