Chapter32【新たなる出会い】
トスカーナ大公国へと向かう旅路。
魔王ハル子を中心に、一行は風を切って草原を駆けていた。リヴァイアが同行することとなり、飛竜軍の眷族――猛禽ラプトルの背にまたがるその姿は、まるで風を纏う軍勢のようであった。
陽光を浴びて輝く金のたてがみをなびかせ、ハル子は視線の先に広がる果てしなき緑を見つめた。
(うわ……やっぱり気持ちいいなあーーー)
心中ではそう呟きつつも、魔王としての威厳は微塵も崩さない。背筋を伸ばし、冷然とした瞳で遠くの地平を睨むその姿は、まさに“魔王ルシファー”そのものであった。
「さあ、都市ジェリャバが近づいてきました。もうすぐ日が沈みますし、あそこで一晩過ごしましょう」
リヴァイアの言葉に、一同が頷く。遠くには、まだ未完成の外郭城壁が夕陽に照らされて浮かび上がっていた。鋼鉄の骨組みと石壁の隙間を、西陽の朱が柔らかく染め上げている。活気に溢れる工事現場では、職人たちが最後の仕上げに取り掛かっていた。
ラプトルの脚は休まず、わずか五日という異例の速さで、一行は中間地点の都市ジェリャバへと到着した。通常ならば、徒歩で三週間を要する距離である。それを可能にしたのは、ひとえにリヴァイアの眷属ラプトルの疾走力によるものだった。
街の門をくぐったその時だった――。
「魔王様!!!!」
声が響いた。やや枯れ気味の、だが懐かしさを滲ませる声。
ハル子が顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。鳥の仮面を被り、黒衣をまとったその姿――魔王軍のアンドラスだった。
彼は感極まったように駆け寄り、膝を折って頭を垂れる。
「おお……久しぶりだな、アンドラスよ」
ラプトルから軽やかに降り立ったハル子は、彼の手をしっかりと握りしめた。その手は微かに震えていた。
アンドラスの肩もまた、わずかに震えていた。
「はい……魔王様もお変わりなく……ご無事で……本当に……」
言葉の途中、声が詰まり、アンドラスの目に涙が滲む。
それを見て、ハル子は少しだけ申し訳なさそうに目を細めた。
(あら……便りの一つも出さなかったから、心配かけさせてしまったかな)
そんな心の声が漏れそうになった瞬間――
「あああ、私の愛しいルシファー様……♡」
艶やかな声が背後から響いた。振り向くと、そこには妖艶なメデューサ――ベリアルが、流れるような黒髪…いや黒蛇を揺らしながら近づいて来ていた。その瞳はまるで蛇のように艶めかしく、豊満な体を揺らしながらハル子へと迫ってくる。
「えっ……」
ハル子が身構える間もなく、横からスッと身を滑り込ませた者がいた。
「まったく、私が傍にいて良かったです!」
それはリヴァイアだった。すでに彼女はハル子の前に立ちふさがり、腕を広げてベリアルの突撃を遮っていた。
不機嫌そうに頬を膨らませたその様子は、忠誠深い騎士のようでもあった。
「うふふ……嫉妬も可愛いですわね、リヴァイア様♡」
「茶化さないでください!」
二人のやりとりに、周囲の兵士たちは笑みをこぼす。
街の夕暮れが深まり、紫がかった茜色の空に静けさが満ち始めた頃だった。
ふと背後から控えめな声が届く。
「あの……魔王様……ボク……」
振り返ると、そこには闇に溶け込むような黒装束の少女――影偵軍のビゼが、恥ずかしそうに顔を伏せながら立っていた。
「おおお、久しぶりだなビゼも!」
ハル子は目を細めて笑うと、ためらいもなくビゼの脇を抱え、ひょいと軽々しく持ち上げた。まるで小さな妹を迎え入れる兄のように、愛おしげな表情を浮かべる。
「ひゃっ……」
不意の抱擁に、ビゼが小さく悲鳴を上げたその瞬間――
「えっ……」とリヴァイアが呆気に取られた声を漏らす。
続けざまに、ベリアルが妖しく身をくねらせながら駆け寄ってくる。
「ず、ずるいですわ……! 私も抱っこされたいのにっ!」
その場の空気が一気にざわつく。
「い、いや……ビゼは……まだ子供だし……!」
慌ててハル子が言い訳すると、今度は背後からマントの裾をぎゅっと引っ張られた。
「ハル……女たらし……」
振り向けば、そこにはじと目で睨むケルの姿が。頬をぷくりと膨らませ、唇を尖らせている。
「あ、あー……こ、子供は子供で仲良くね!」
バツの悪そうな笑みを浮かべながら、ハル子はビゼをそっとケルの隣へ降ろした。
そのやりとりを見ていた一行は、どこか微笑ましさを覚えつつも、少し騒がしすぎる魔王の取り巻きたちに困惑気味であった。
やがて場の空気が落ち着くと、ハル子は真顔になり、問いを投げかけた。
「で……何故、お前たちがこの都市ジェリャバにいるのだ?」
問いかけに答えたのはベリアルだった。軽やかな仕草で胸元を撫でながら、声を落ち着ける。
「あれから何度も、帝国軍がこの都市ジェリャバを奪い返そうと大軍を送り込んできたのです。
この街の城壁は低く、防衛には不安があったため、魔王城からアンドラス殿とビゼ殿をお招きし、強化工事と防衛をお手伝いして頂いていたのです」
「ほう……何度もか。マルボルクでも帝国軍の侵攻があったからな……やはり連中は執拗だな」
ハル子は静かにうなずきながら、次の問いを投げた。
「で、防衛の対策はどうなっている?」
今度はアンドラスが前に進み出て、恭しく答える。
「八割がた完成しております。水堀を街の周囲に巡らせ、城壁は従来の二倍の高さと厚さに強化されました。
いずれ鉄壁の守りとなりましょう」
「そうか……それは頼もしい限りだな」
満足げに頷くハル子は、軽く視線をずらして、ジャン・ズーヤーを手で示した。
「我らはこの御仁、トスカーナ大公国の道士、ジャン・ズーヤー殿を首都に送り届けねばならん。よって、明日早朝にはここを発つ予定だ」
その言葉を聞いて、反射的に二人の声が上がる。
「私もお供します!」とベリアル。
「ぼ、ぼくも!」とビゼ。
「い、いや……そんな大勢で行っても……」
戸惑いながら、ハル子はアンドラスへ視線を送る。その視線にははっきりとしたメッセージが込められていた。
(なんとかしなさい! アンドラス!)
しかし――
「……あの、ここは私が仕上げます。残る部隊でも十分守り切れると思いますので……
どうか、皆様を連れて行ってあげてください」
アンドラスは静かに、だが確固たる意志を持って答えた。
「やったわぁ!」
ベリアルが高々と両手を挙げ、満面の笑みを浮かべる。
「やった……!」
ビゼも小さく拳を握って喜びを噛みしめる。ケルがそれを見て、肩をすくめた。
日が沈みきり、空は紺に染まり、街には灯火がぽつぽつと灯り始めていた。
その夜――ハル子は久方ぶりに臣下たちと杯を交わし、夜更けまで笑い声と共に語らい合った。
魔王軍の再会と再結集を祝う、ささやかな祝宴であった。
そして、夜明けの鈍色が空を染めるころ――
魔王ハル子を中心とする一行は、都市ジェリャバの東門を静かに後にした。
朝靄が街を包み、まだ人々の営みが始まらぬ中、魔王軍の影はまるで幻のように道を進んでいく。
羽ばたくことなく大地を駆ける眷族ラプトルの背に、彼らは悠然と跨っていた。
その旅路は、空と地の狭間を駆けるような幻想に満ちていた。
かつての戦地を越え、草原を突き抜け、廃墟となった村を通り過ぎる。
霧深い森では無数の鳥たちが木々の間から飛び立ち、風が過去の記憶をささやいていた。
そして――七日後。
彼らはついにトスカーナ大公国の心臓部、白き城壁に囲まれた首都に到着する。
城の手前の広場に入ると、そこに立っていたのは、壮麗な鎧に身を包んだトスカーナ大公。
その左右には、長身の軍司令官シン・グンバオと、紅蓮のマントをはためかせる将軍ナージャ。
さらに、整列した数百の兵士たちが、槍を立て、整然と一行を迎えた。
魔王ハル子は、ラプトルの背からまっすぐに前を見据えた。
風になびく黒きマントが朝日を受けて輝く。
その隣には、竜の化身たるリヴァイア。
魅惑の微笑みを浮かべるベリアル、静かに周囲を警戒するビゼ。
獣耳を揺らすケルは、緊張と興奮が入り混じった面持ちで空を見上げていた。
そして――
その場にいた全員が息を呑む中、ジャン・ズーヤーが竜の背から飛び降りた。
駆ける。
その道士の姿は、風よりも速く、ためらいの一片もなかった。
「シン!!ナージャ!!」
「ジャン……!」
次の瞬間、軍司令官シン・将軍ナージャが駆け寄り、二人は強く抱き合った。
互いの肩に顔を埋め、嗚咽を堪えきれず涙を流す。
「無事で……本当に……!」
言葉は交わさずとも、二人の間には確かな絆と、長き別離を越えた再会の喜びがあった。
その様子を見ていたトスカーナ大公は、一歩前に出ると、魔王ハル子の前で深々と頭を垂れた。
「魔王様……このたびの、我が腹心ジャン・ズーヤーの救出……心より感謝申し上げます」
その声は震えていた。
そして――地面に手をついて礼をするその姿から、ぽたぽたと落ちた涙の痕が、白い石畳ににじんでいた。
兵士たちが静かに槍を下げ、街全体が一瞬、敬意の沈黙に包まれる。
ハル子はその光景を見つめながら、小さく息をつき、目を細めて答えた。
「礼など不要だ。貴殿は我が魔王国との同盟国、助けを求める者を見捨てはしない。
……それだけのことだ」
その言葉に、兵士たちの間にどよめきが走る。
まるで戦の炎ではなく、誇りが胸に宿ったような――静かな感動であった。
その後、一行はトスカーナ城へと案内された。
その夜、トスカーナ城を中心に、都市全体が祝祭の熱気に包まれていた。
道士ジャン・ズーヤー帰還の報はあっという間に市中へ広がり、通りには灯籠が並び、色とりどりの旗が風に舞っていた。人々は音楽に合わせて踊り、広場には大きな火が焚かれ、子供たちの笑い声が響いていた。
城内の大広間でも、盛大な祝勝会が催されていた。
大理石の床に敷かれた豪奢な絨毯の上には、ずらりと立食用の円卓が並び、そこには海の幸をふんだんに使った料理が山のように積まれていた。巨大な丸焼きの魚、金箔をあしらった刺身盛り、芳香を放つ貝のスープ、焼いた甲殻類の香ばしい匂いが漂い、客人たちの食欲をそそってやまない。
魔王ハル子も、そのひとときは戦の緊張を解き、杯を傾けながら料理に目をやっていた。
ふと、あるテーブルに並んだ赤身の刺身に気づき、彼女は思わず立ち止まる。
(……これは、マグロか? 刺身なんて、久しぶりだ……)
懐かしさがこみあげ、そっと箸を伸ばそうとしたその時――
「……あっ」
「おっと、すまない」
手がぶつかり合った。
顔を上げると、そこにいたのは、真っ白な毛並みを持つ獣人の女性だった。鋭いがやわらかな金の瞳、背にたなびく黒模様の尻尾は、まるでホワイトタイガーを思わせる気品と力強さを宿していた。
「おお……獣人の方であるな」
そうハル子が声をかけると、彼女は一瞬警戒したようにまばたきし――すぐに落ち着いた声で返した。
「……失礼‥‥。!?‥‥魔王様で‥‥?」
その瞬間、ハル子の脳裏にある子の姿がよぎる。
「……実は、この子なんだが……」
魔王ハル子は振り返り、少し離れた席でビゼと一緒にデザートを食べていたケルを呼び寄せた。ケルは手に持ったプリンを名残惜しそうに見つめながらも、素直にハル子のもとへと歩み寄ってきた。
「紹介しよう‥‥」
その瞬間――
「……そのネックレスは……」
獣人の女性の目が見開かれた。ケルの首にかかる、銀の鎖に刻まれた複雑な紋様。その四葉の紋をまじまじと見つめ、彼女はかすれた声で訊ねる。
「あなたの名は……?」
ケルは、不思議そうに首をかしげながらも、笑顔で答えた。
「ケルだよっ!」
その言葉を聞いた瞬間――
「ああ……なんてこと……まさか、こんな場所で巡り会えるなんて……!」
白き獣人の女性は、膝をついて泣き崩れた。
誰もが突然の涙に驚き、視線を集める中、ハル子も思わずたじろいだ。
(な……なにが起きたの……?)
彼女の胸中に、淡い予感が広がる。
それは、ケルの出生にまつわる、新たな物語の始まりを告げる涙だった――。




