Chapter29【別れ】
夜明け前、薄紅色の空がイリジャの街を静かに染めていた。
アルル女王一行は、無事にレオグランス王国領の都市イリジャへと到着し、一晩の安息を得た。そして―――新しい朝が訪れた。
街の門前で、旅立ちの準備が整う中、クイが一歩前に出て言った。
「アルル女王陛下、我々は、この家出小僧をニタヴェリル共和国まで送り届けます」
その声には、戦場で見せたものとは違う、穏やかで優しい響きがあった。
「はい、お願い致します……どうか、お気をつけて」
アルル女王は、深く一礼して答えた。彼女の瞳はほんのり潤んでいたが、それを見せまいと、凛とした笑顔を崩さなかった。
「ここでお別れですね、ハル殿」
カイがいつもの明るい調子で言葉を継いだ。
「インペラトル皇国にも、いつか遊びにいらしてくださいね!」
ハル子は少し笑みを浮かべて頷いた。
「うむ。機会があれば、な」
短い言葉に、惜別の情が込められていた。
「では―――」
クイとカイは、ドワーフの少年アルベルトの肩に手を置き、東の街道へと歩き出した。朝日に背を向けながら、彼らの影はゆっくりと小さくなっていった。
ハル子はその背を見送りながら、ぽつりとつぶやいた。
「さて……次はジャンをトスカーナ大公国に送り届けねばな」
そう言って踵を返しかけたその時―――
「あの……!」
控えめな声が背後から届いた。振り返ると、アルル女王が少しもじもじと視線を彷徨わせていた。
その様子を見かねたのか、セラ・ファランドールが一歩前に出て代弁する。
「あの……もしよろしければ、この度のお礼をさせていただきたく……どうか、レオグランス王都までご同行願えませんか?」
風が草を撫でるような静けさの中で、真摯な願いが空に溶けた。
ハル子は一拍おいて、唇の端をわずかに上げた。
「お礼……うむ、では王都まで同行しましょう」
(これは……もしかして、“クリスタル”がもらえるかもしれん)
心の中でひそかに期待しつつ、口には出さなかった。
その返事を聞いた瞬間、アルル女王の顔がぱっと明るくなる。喜びを隠しきれないその笑顔は、どこか少女のようでもあった。
(この女も、少しは男嫌いがやわらいだか……)
ハル子はふと、そんな思いを抱きながら彼女を見つめた。
こうして、アルル女王一行とハル子は、新たな目的地―――
レオグランス王都へと向かい、再び馬車の車輪が静かに回り出す。
そのとき、シャロン平原の彼方では、朝日に照らされた草原が黄金色に輝き、静かに旅の無事を祈るように風が吹いていた。
一行はレオグランス王国へと進んだ。ほどなくして旅路の右手に突如として広がる巨大な湖――
いや、それはもはや海に近い。
果てしなく広がる水面は、遠くの地平線と溶け合い、空と水の境界を見失わせるほどだった。
「……すご……」
ハル子が思わずつぶやいたその時、隣にいたセラ・ファランドールが口を開いた。
「この湖は『フレダフォート遺跡』と呼ばれています。今からおよそ一千年前、我が国の大魔導士、ヘルメス・トリスメギストス様が放った最上級の究極魔法によって形成された地なのです」
その声には誇りと畏敬が混じっていた。
「その魔法が放たれた瞬間、大地が穿たれ、大気が裂け、無限の光と熱が天を突き抜けた。巻き上がった灰と煙は空を覆い、太陽の光が再び地に届くまで……五百年の時を要したと言われています」
ハル子は沈黙したまま湖を見つめた。
(……なにそれ。惑星破壊レベルじゃん……)
言葉にこそ出さなかったが、その規模の異常さに背筋が粟立つ思いがした。
「このヘルメス様の存在が抑止力となり、以後千年、我がレオグランス王国は帝国の侵攻を退け続けてこれたのです」
セラの瞳はまっすぐ湖の中央を見据えていた。まるでその深淵に眠る力を、今もなお感じているかのようだった。
一行は湖畔を静かに進んでいく。
湖面は風を受けてきらきらと輝き、周囲には小鳥のさえずりが穏やかに響く。木々の枝先では色とりどりの花々が風にそよぎ、遠くで一頭の鹿が静かに水を飲んでいた。
大地がかつて燃え尽きたとは思えぬほどの、のどかで、優しい光景――。
だが、その穏やかさの底に、かつてこの地を焼き尽くした神話級の力が眠っていると思うと、ハル子は得も言われぬ感情を覚えた。
「ここが、かつて世界の理がひとつ書き換えられた場所か……」
彼女は湖のほとりに立ち止まり、風に髪を揺らしながら静かに呟いた。
(……平和だな)
赤く染まる湖面、柔らかな風、鳥のさえずり。そんな穏やかな光景の中、ハル子はふとそんな感慨を抱いていた――その瞬間だった。
背筋に冷たい悪寒が走った。
「ずいぶん、気が抜けた行軍だねぇ……」
不意に、空から響いた嗤うような声。
その声と共に、紫色の衣をまとい、白銀の翼を広げた男が空から舞い降りてきた。空気が歪み、周囲の気温が一気に下がったかのように感じられる。
「貴様……! 帝国の“サリエル”かっ!」
イリアが即座に反応し、アルル女王の前に立ちはだかる。ファランドール七姉妹もすぐさま防衛陣を築いた。
「そうそう、よく知ってるじゃない。僕の名前はサリエル。覚えておいてねぇ……最後になるかもしれないから」
紫の唇をつり上げ、不気味な笑みを浮かべる。
「さて。エルシャダイ皇帝はねぇ、あなたたちの“愚行”にひどくご立腹なんですよ。」
声色が低くなる。
「――皆殺しにせよ、と仰せになられましてねぇ……だからさ‥‥さっさと死んでくれます?」
そう言ったかと思うと、サリエルは音もなく空を滑り、一直線にアルル女王へと突進してきた。
「アルル様をお守りしますッ!」
イリアが叫ぶと同時に、七姉妹が即座に防御陣形を展開。イリアは剣を抜き、サリエルと激突した。
カキンッ! カキンッ! カキィィンッ!
烈しい剣戟が空気を裂き、周囲の木々がざわめく。
「“不滅の刃”……デュランダルよ、我が心と一つとなれ……《秘儀・アルターエゴ》!」
イリアの姿がぼやけたかと思うと、一瞬で七つに分裂し、幻像が現れた。戦っているファランドールと合わせて十三名が、渦を巻くようにサリエルを包囲する。
「ほう……これはこれは。強いねぇ、君たち」
サリエルは余裕の笑みを浮かべ、斬撃の嵐を次々と捌いていく。
「……でも――そろそろ、遊びは終わりにしようか」
次の瞬間、彼の身体が紫電のように輝いた。
「《ソウル・ヴォルテックス》」
回転するサリエルの身体が暴風と化し、まるで竜巻のような衝撃波を撒き散らす。イリアたちは防ぐ間もなく吹き飛ばされ、地に叩きつけられた。
「ぐっ……うぅ……」
イリアの口元から血がにじみ、剣が手から滑り落ちた。
ファランドール七姉妹――すべて倒れている。
サリエルはゆっくりとアルル女王の前に歩を進めた。
「さて……邪魔者はいなくなった。アルル女王陛下――お命、頂戴します」
紫の剣を構え、突進するサリエル。
「ダメぇえええええええっ!!」
地に伏したイリアが、血まみれの手を必死に伸ばす。だが届かない――。
そしてその瞬間・・・・・
――ガキンッ!!
大気を割るような、金属同士の衝突音が響いた。
衝撃でサリエルの体が大きく吹き飛び、空中で白い翼をばさりと羽ばたかせて姿勢を立て直す。
「なっ……何者だ、お前は……!」
サリエルが驚愕の声を上げたその視線の先には――
「ハル様っ……!」
恐怖と安堵が入り混じった声で、アルル女王がハル子の胸に飛び込んだ。
その細い体を軽く受け止めながら、ハル子はサリエルをじっと見据える。
「まったく、困ったものですね。人の領地に勝手に入り込んで、女王を暗殺しようだなんて――野蛮にもほどがありますよ」
その声は静かで優雅、だが確かな怒気を含んでいた。
「貴様……雑魚のくせに、よく吠える」
サリエルは剣を構え直すが、その目には一抹の動揺が走っていた。
ハル子は、ため息をつきながら言った。
「……ああ。そうか、君には“これ”が見えていなかったんだね。魔力を遮断するこの指輪のせいで」
そう言うと、左手の指輪をすっと外す。
――ズンッ。
突如として、大地が鳴動したかのような重圧が辺りを包む。
黒髪の好青年の姿から、一変。背後に、黒き瘴気と魔の炎が渦巻く。目は深紅に染まり、彼の周囲の空間が微かに揺らめくように歪んでいた。
まさしく、それは“魔王”の気配。
その場にいた兵士たちも、アルル女王も、ファランドール姉妹すらも息を呑んだ。
「なっ……なんだ、この魔力……!? 人間じゃない……!」
サリエルの顔から血の気が引いた。眉間に冷や汗が流れ、思わず後退りする。
「さて、これでも……まだ戦う気があるのかな?」
ハル子の声音には、確かな“愉しみ”と“余裕”が宿っていた。
「ぐっ……な、なぜこんな化け物が……レオグランスに……!」
狼狽えるサリエル。つい先ほどまでの自信満々な態度は見る影もない。
「今、ここを去るのなら命までは取りません。……決めなさい、サリエル。生き恥を晒すか、ここで灰になるか――」
ハル子の赤い瞳が妖しく輝いた。
「ぐ……こうなれば――我が命を懸ける!」
サリエルは奥歯を噛み締め、懐から紫色に輝く注射器を取り出した。
「二本目は……命に関わる。だが致し方ない」
そう呟くと、自らの胸に迷いなく突き刺し、薬液を一気に注入した。
ゴゴゴゴゴ……
紫だった肌が黒に染まり、筋肉が異様なほどに膨張していく。背からは骨のような翼が生え、頭には捻じ曲がった角が現れる。
――それはもう、かつての人間の姿ではなかった。
悪魔――否、“災厄”そのものだった。
「もう誰にも止められぬ。命尽きるまで――この国を滅ぼしてくれようぞ!」
サリエルの叫びが辺りに響き渡る。
(……これはマズいかも。完全に追い詰めた結果の“窮鼠猫を噛む”状態だな……反省)
心中でそう呟きつつ、ハル子は目を閉じ、小さくつぶやいた。
「……オメガアタック」
――ズゥン!!
空気が赤黒く揺らぎ始め、ハルの姿が赤いオーラに包まれる。
それはまるで世界そのものが拒絶するような、異界の波動。
そして――ハルの姿が一瞬、完全に消えた。
「っ!? どこだ――」
サリエルの目の前に、突如としてハルが現れた。
その刹那、閃光のような斬撃が叩き込まれる。
「ガキンッ!!」
サリエルが剣で受け止める――火花が飛び散り、金属が悲鳴を上げる。
続く斬撃。
「ガキンッ! ギィンッ! ギャインッ!!」
一瞬で数十回にも及ぶ激しい剣戟。空中を舞う二人の戦いは、雷鳴のような轟音をともなっていた。
空が揺れる。大地が呻く。
辺りの兵士たちはその凄まじさに目を開けていられず、ただ遠くから固唾を呑むしかなかった。
しかし――三十秒が経過してしまった。
ハル子はふいに宙から静かに地上へ降り立つ。
「くそ……やはりこの擬人化指輪のステータス半減効果のせいで、押し切れないか…」
と額に汗を浮かべながら、肩を軽く回す。
一方、空中のサリエルは荒く息を吐き、黒い瘴気をまき散らしていた。
「……化け物め……だがまだ……終わらん……!」
その瞳には、狂気と死の覚悟が宿っていた――。
(えっと……冷静に……)
ハル子は脳内で素早く魔力計算を始めていた。
昨日、《ディストラクション》を5回使用。
――1回につき10%、計50%。
だが、魔力消費半減の指輪があるから、実際の消費は25%。
《オメガアタック》は昨日と今日で2回。
――1回55%、でも半減効果で実質27.5%×2=55%。
そこに一晩の回復で10%……。
(100 - 25 - 55 + 10……残りは、30%か)
《召喚魔法》の消費は45%――無理。
《オメガアタック》は、1回27.5%消費。あと1回しか撃てないか…
(でも……その1回で決着がつかなかったら? 今みたいな互角じゃ意味がない)
視線が手元の指輪に落ちる。
――この《擬人化指輪》。全ステータスを半減する代わりに、魔力の波を封じる。
(……これを外せば、魔力と能力が一気に倍になるはず。だが、同時に“正体”も……)
迷いが生まれる。だが、その思考を断ち切るように――
「《ライト・ブラスト》!」
サリエルが光の魔法を放った。
強烈な閃光。一瞬、世界が白く染まる。
「ぐっ……!」
ハル子が目を細めた刹那――
「ふはは……いただいた」
その声と共に、サリエルの姿が消えていた。
次に視界に入ったとき――
アルル女王の喉元に、サリエルの黒剣が突きつけられていた。
「……っ!」
「まさか、この私と互角とはな……ああ、実に惜しい」
サリエルの顔には薄笑いが浮かんでいた。その瞳には、もう完全な狂気が宿っていた。
「さあ、アルルが殺されたくなければ、剣を置き、ひれ伏すのだ。」
刃先が、アルルの白い首筋をかすめ、うっすらと血が滲む。
「ハル様、もう逃げて……!」
錯綜する声の中、ハル子は歯を食いしばった。
(……クソッ。ここで下手に動けば……アルルが……)
迷いの末――ゆっくりと、剣を地面に置いた。
金属が石畳に触れ、冷たい音を立てた。
「ふふ……やっと素直になったな。人とはもろいものよ」
サリエルの声は勝利の余韻に酔っていた。
だが――ハル子の視線には、まだ消えていない光が宿っていた。
(私が……誰であるか、見せてやる)
その瞬間だった。
――ズドンッ!!
轟音とともに、サリエルの体が宙を舞った。
何が起きたのか、誰も理解できなかった。
ゆっくりと立ち現れたのは、黒いローブをまとい、仮面をつけたフードの男。
「ま……また、出た……!」
ハル子の呟きに、誰もが同じ思いを抱いた。
「また次から次へと……貴様ァァァァ!!!!」
怒声を上げ、狂ったようにサリエルが男へ突進する。だが、その刹那――
「――《ウルティマ》」
その一言だけだった。
――ドゴォォォォォン!!
地が裂け、大気が震えた。紫電が走るような音とともに、サリエルは地面に叩きつけられ、そのまま深くめり込んだ。
沈黙。
風が吹き、砂塵が舞い、ただ地面に埋まったサリエルが微動だにしない。
――まさに、一撃必殺。
(あれだけ手こずったサリエルを一撃で…何者なんだ…)
とハル子は目の前の出来事が衝撃的であった。
「う……うわあああああんっ!」
アルル女王が泣きながらハル子に飛び込んできた。
ハル子は驚きながらも、その肩をそっと抱いた。
そんな中、ゆっくりと歩み寄るフードの男。
「まだまだじゃのう……お主……」
くぐもった声。だが、どこか懐かしい響きがあった。
ハル子の目が一瞬揺れる。
「あなたは……」
だが男は、それに応えることなく、静かに背を向けた。
「お主…強くなりたければ――《ニタヴェリル》へ行け」
「この男は禁断の薬を二度使用している。ここでくたばるであろう…」
そして一呼吸置いたのち
「……では、さらばじゃ」
と言って、黒いマントが風に翻り、男の姿は次第に霧の中へと消えていった。
(ニタヴェリル……? 彼は一体……何者なんだ)
幾度となく現れ、危機を救ってくれた謎の仮面男。
その背に、どこか宿命的な何かを感じながら、ハル子は泣きじゃくるアルルを抱きしめ、遠くに広がる空を仰いだ。




