Chapter28 【六韜三略】
そして、聖ルルイエ帝国軍三千の大軍が陣を敷く広大な戦場の前に、ハルが率いるわずか百騎の重騎兵が姿を現した。
陽光を受けて鈍く輝く金属鎧、整然と揃った騎兵の列。大地を踏みしめる馬蹄の音が、静寂を破って乾いた空に響きわたる。まるで一振りの槍が、敵陣に向かって突き立てられたかのようだった。
帝国軍の前線に立っていた兵士たちは、目を見張った。
「なんだ……? あの少数……我らに挑むつもりか……?」
兵の一人が呆れたように声を漏らす。
その背後、黒い軍装に身を包んだ指揮官らしき男が馬の鞍を鳴らし、前へと身を乗り出した。口元には嘲るような笑みを浮かべ、鋭い目でハルの軍を一瞥する。
「ふん……我らを舐めたものよ。たった百騎で足止めしようとはな……」
男は唾を地に吐き捨てると、馬上で堂々と剣を掲げた。
「相手は百そこらの雑兵。我が軍は三千!数の力で粉砕せよ――全軍、かかれぇい!!」
雄叫びとともに、三千の兵が怒涛のごとく動き出した。無数の鉄靴が大地を揺るがし、埃が天を覆う。波のように広がる槍と剣、その咆哮はまるで地鳴りのようだった。
対するハルの軍は一歩も引かず、隊列を乱すことなく前進を続ける。だが、その数の差は歴然。帝国軍が迫るにつれ、重騎兵たちは次第に包囲され、じわじわと押し込まれていく。
「……囲まれるな……!」
馬上のハルは前方を見据え、歯を食いしばった。
帝国軍の大軍が押し寄せ、戦場はたちまち混沌に包まれた。火花が散り、剣戟の音が空気を裂く。百の騎兵は懸命に応戦するが、徐々に押し切られていく。
「さて―そろそろ潮時か……!」
ハルは剣を高く掲げ、声を張り上げた。
「全軍、退却!このままでは囲まれる!列を崩さず、後方へ――!」
その言葉とともに、ハル率いる百騎は方向を転じ、砂塵を巻き上げながら戦場の後方へと駆け始めた。だが、それは敗走ではなかった。
それは、すべて――敵を誘い込むための、巧妙な偽装退却だった。
「追え! 皆の者、一人足らずとも逃すでない!」
怒号が戦場に響き渡った。鉄の鎧を鳴らし、三千の帝国兵が怒涛の勢いで駆け出す。地を踏みしめる音が重く、まるで大地が唸っているかのようだ。彼らの眼には、逃げるレオグランス王国軍の後背しか映っていない。勝利は目前――そう思って疑わなかった。
だが、その油断こそが、破滅の兆しだった。
やがて、進行方向の右手に鬱蒼と茂る林が現れた。その林は、不気味な沈黙を保ったまま、まるで獲物を待ち構える獣のように静かに佇んでいた。
帝国兵たちは気にも留めず、そのすぐ脇を駆け抜けていく。
――その瞬間だった。
「よし、クイ……今だ!」
鋭く凛とした声が林の奥から響いた。ハルの号令だ。
バサッ、と空気を切る音が重なり、林の中から無数の矢が放たれる。光を反射して輝く矢の群れが、一斉に空を覆い、帝国兵の頭上へと降り注いだ。
「ぐあっ……!」
悲鳴が次々と上がる。鋭い矢が鎧の隙間を貫き、肉を裂き、血しぶきが宙を舞った。兵士たちは成す術もなく次々と倒れ、赤黒い地獄絵図が瞬く間に広がる。
「伏兵だ! 全軍、林に向けて臨戦態勢を取れ!」
咄嗟の判断で指揮官が怒鳴る。冷静さを装ってはいたが、その額には明らかな冷や汗が滲んでいた。軍勢は混乱しつつも、命令に従い、一斉に林の方角へと向きを変える。だがその動きには、もはや最初の勢いはなかった。
地に倒れた仲間たちの呻き声と、林の奥からさらに迫りくる気配――
「ふふ……かかったな!」
林の中から、凛とした声が響く。ハルが満面に冷笑を浮かべ、右手を高々と掲げた。
「カイよ、突撃せよ!」
その号令と同時に、風がざわめいた。帝国兵の背後、草原の茂み――そこに身を潜めていた三百のカイ率いる重歩兵が、まるで地面から湧き上がるかのように姿を現す。先頭を駆けるのは、漆黒の鎧に身を包んだ将・カイ。冷徹な目に宿るのは、獲物を屠る獣のような光。
「突撃ッ!!背中を見せている帝国兵を討つのだ!」
「なっ……背後だと!?」
帝国兵たちが振り返ったときには、すでに遅かった。鋭い剣閃が背中を裂き、次々と兵たちが悲鳴を上げて倒れていく。
「ぐあああっ……!」
「ひ、引け! 後ろが……後ろがやられる!」
隊列が乱れ、兵士たちの顔から血の気が引く。戦場の熱気が一転し、恐怖が支配しはじめたその瞬間――
「よし! 我が軍も突撃だッ!」
今度は林の奥から、クイの号令が轟く。木々の影から、レオグランス王国軍第二陣、これもまた三百の兵が一斉に姿を現し、剣を振りかざして突撃した。鋭く統率された動きは、まさに狩人が獲物を仕留める瞬間のようだ。
帝国兵は挟撃され、前と左右からの攻撃に完全に翻弄される。恐慌と混乱が広がり、戦場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していく。
完全に浮足立った帝国兵たち。仲間が次々と倒れる中、剣を握る手にも力が入らず、恐怖と混乱に呑み込まれていく。隊列は乱れ、もはや統率は失われかけていた。
「ほ、方陣だ! 方陣を敷くのだッ!」
指揮官の必死の叫びが響く。蒼白な顔に冷や汗を浮かべ、指揮杖を振りかざして部隊を再編しようとする。兵たちは命令に従い、慌ただしく前後左右の間隔を詰め、盾を構えて方陣を形成し始めた。
だが、そこにすかさずハルの冷徹な声が飛ぶ。
「クイ、後方の綻びに矢を放て。敵陣を崩せ!」
「はっ!」
即座に応じたクイは、弓を構え、静かに一呼吸。
「――秘儀、八連奏」
その声とともに、手の中で踊るように矢を番え、一瞬のうちに八本の矢を連射した。風を裂く音とともに、矢は正確無比に敵陣の後方の綻びへ突き刺さる。盾を構える隙間を縫い、兵士の肩や脚を容赦なく貫いた。
「うわっ!」
「ひ、陣が……崩れるぞ!」
整えかけていた陣形が再び乱れ、帝国兵の叫びが戦場に木霊する。
「よし、カイ! 今開いた陣の穴に突撃し、東へ抜けよ!」
ハル子は次の一手を迷いなく指示した。その声には揺るぎない自信と、戦場を掌握する者の威厳があった。
「――あいよ!」
応じたカイは大剣を振りかざし、背後に控える重騎兵たちに号令をかける。地を揺るがすような重い足音とともに、鋼鉄の騎士たちが突撃。開いた敵陣の裂け目へ、怒涛の勢いでなだれ込んでいった。
帝国兵たちはなす術もなく、その勢いに呑み込まれていく。悲鳴、怒号、血飛沫が交錯する中、戦局は完全にレオグランス王国軍の支配下に傾いていた。
敵の陣形は、もはや体をなさなかった。乱れた隊列は瓦解し、帝国兵たちは統率を失い、蜘蛛の子を散らすように各々の命を守ろうと逃げ惑う。
クイは静かに空を見上げ、呟いた。
「これは……アッちゃん……!?」
その声には確信と、どこか切なさが滲んでいた。
カイもまた、血塗られた戦場の只中で、剣を肩に担ぎながら微かに笑みを浮かべた。
「まるで……アッさんの指揮みたいだ……」
二人の視線は、まっすぐハル子の背中を見据えていた。懐かしい過去――かつて仕えた主の影を、ハルに重ねていた。
その間にも戦況は容赦なく進む。レオグランス王国軍の怒涛の突撃の前に、帝国兵たちは次々と斃れ、数千いた軍勢も、もはや数百を残すのみとなっていた。
「くそっ……!」
指揮官は歯噛みしながらも、周囲を見渡す。味方はすでに四散、方陣も壊滅。もはや勝機はないと悟ると、彼は無言で踵を返し、一人戦線を離脱した。
「お、お待ちください!」
その姿を見た部下たちは動揺し、指揮官の後を追うように北へと逃亡を始めた。
だが――
そこに立ちはだかったのは、ハル率いる百の選抜兵だった。冷たい風が吹き抜け、空気が張り詰める。
ハルは馬上から彼らを睥睨し、静かに、しかし凛とした声で言い放った。
「指揮官が退却命令も下さず、一人逃亡とな……。それが貴様らの“正義”か?」
ハルの瞳が、まるで裁きのように帝国兵を射貫く。
「――皆の者、一人残らず、討ち取れ!」
「う……うぎゃあああっ!」
悲鳴が戦場に響き渡る。無残に崩れた帝国兵の残党は、最後の抵抗も空しく、次々と討たれていった。
かくして、帝国軍三千は――
レオグランス王国兵によって敗北した。
風は止み、血に染まった大地の上に、ようやく静寂が訪れた。
戦の喧騒が収まり、死と勝利の匂いが混じる空気の中、後方に控えていた兵三百と、アルル女王が乗る白銀の馬車が、ゆっくりと近づいてきた。車輪が血と泥をはねるたび、戦いの現実を静かに刻むようだった。
その馬車の脇に並んだジャン・ズーヤーが、馬上から戦場を見渡しながら、感嘆の声をもらした。
「お見事でございました……。ここまでとは……」
静かだが、心の底からの敬意が込められた声だった。
ハル子は振り返り、彼を見つめて微笑みながら応じた。
「いや……貴殿の策こそ、まことに見事であったぞ。さすがは、かのトスカーナ大公国が大望し、幾度も帝国軍の侵攻を阻止した天才軍師、ジャン・ズーヤーであるな!」
その言葉にジャンは一瞬だけ目を伏せ、慎ましく頭を下げる。
「とんでもありません。ハル様の指揮力には、ただただ驚愕いたしました。あの混乱の中、戦場の呼吸を完全に掴んでおられた……まるで、名将の生まれ変わりのようでした。」
その言葉に、カイがふと呟いた。
「そうなんだ……まるで、アス……」
だがその先を言う前に、隣のクイが小さく手を伸ばし、カイの口元をそっと塞いだ。
それを見ていたハル子は、あえて何も聞かず、少しだけ口元を緩めた。
「カイ殿も、クイ殿も……軍を率いたときの方が、ずっと強かったぞ?」
その一言に、二人はばつが悪そうに顔を見合わせ、頬をかすかに赤らめる。
「そ、そうか?」
「そりゃ……ま、嬉しいけどよ……」
その姿に、兵たちも安堵の笑みを浮かべ、戦の終わりを肌で感じ取っていった。
ジャンは一度深呼吸すると、背筋を正して言った。
「ともあれ、帝国の脅威は、これで一旦去りました。さあ、レオグランス王国の領内、都市イリジャまでは、もうすぐです。行きましょう、ハル殿」
「うむ。北へ向かおう」
アルル一行は、再び進軍を開始した。
そのころ、シャロン平原の彼方では、落日の光がゆっくりと大地を染めていた。赤く燃えるような夕日が、戦いを終えた草原に長い影を落とし、静かなる夜の到来を告げていた。




