Chapter25【救出】
ハル子たちは、教誨師とその従者の姿に身を変え、地下大監獄の重々しい入り口へと向かっていた。空は曇天。日差しは地表に届かず、まるで世界そのものが大罪人の息を潜めるその場所を嫌っているようだった。
石畳の床はひんやりと冷たく、足音だけが響いていた。
「……いたぞ」
セラが低く呟いた。
入り口には、闇の中から浮かび上がるように、漆黒の衣を身にまとった死刑執行人の姿が立っていた。手には巨大な処刑斧を携えている。仮面の下の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「待たせたな、クイ姉……」
忍者のように身を隠していた男が音もなく近づく。今は教誨師の従者の装いだ。
「遅いぞ、カイ!」
鋭くもどこか安堵した声が返る。死刑執行人役の女が言った。
「あっ……」
二人は思わず互いの名前を呼んでしまい、すぐに口を噤んだ。
「カイとクイねぇ……」
ハル子が小さく笑った。頬に浮かんだその笑みは、ほんのわずか緊張を解す灯のようだった。
監獄の前には、鋭い目をした衛兵が二人立っていた。
「本日、以下の者が処刑となった」
カイが落ち着いた手つきで”偽の文書”を差し出す。
「ふむ……ああ、教誨師様ですか……お疲れ様です…」
衛兵は文書をじっと見つめたあと、鍵を鳴らして門を開けた。錆びた金属の音が、まるで何かが始まる合図のように鳴り響いた。
中へ続く通路の先には、無骨な鉄格子がそびえ立っていた。鉄の棒は大人の腕ほどの太さがあり、その表面には錆と血の色がこびりついている。格子の向こうには、鋼鉄の鎧をまとった衛兵たちが二列に並び、じっとこちらを見据えていた。数はざっと二十名。全員が武器を手にし、まるで侵入者を見張る番犬のような視線を向けている。
ハル子は落ち着いた手つきで、偽造された処刑命令書を差し出した。
衛兵の一人がそれを受け取り、訝しげに眉をひそめる。
「……今日はエルシャダイ皇帝陛下の生誕祭だぞ。そんな日に処刑だなんて……」
鋭い沈黙が場に満ちる。周囲の空気がわずかに張り詰め、汗のしずくがハル子の背筋をつたう。
(ダメか……?)
だが、衛兵の目が紙の上を数秒滑った後、ふと表情が緩んだ。
「ふむ……まあ、確かに印章も間違いない。上の判断だ、我らが口を挟むことではないな」
重く響く音と共に、鉄格子がゆっくりと開かれた。軋む音が通路に反響し、まるで亡者の嘆きのようだった。
「通れ」
衛兵が無言で道を開ける。一行は緊張の糸を張り詰めたまま、静かに鉄格子をくぐる。
背後で「ガシャーン」と鉄の門が閉じる音が鳴り響いた瞬間、ハル子は誰にも気づかれぬように口角を上げた。
(よし……!うまくいった!)
心の中で、小さくガッツポーズを決めるハル子だった。
だが、気を抜くには早い。ここからが本番だ。
記憶の地図を頼りに、複雑に入り組んだ回廊を進む。天井は低く、壁は湿気を帯びて苔むしていた。蝋燭の火だけが、薄暗い空間を頼りなく照らしていた。
「イオ……」
セラが静かに呟いた。彼女の声には、かすかな祈りにも似た響きがあった。
通路には鉄の匂いと、長年蓄積した死の気配が漂っていた。壁の隙間からは低いうなり声のような風が漏れ出し、誰かの呻きのようにも聞こえた。
やがて最深部へとたどり着く。そこには二人の衛兵が立っていた。顔には油断の色はない。
「何の用だ……?」
警戒心をあらわにした声が響く。
次の瞬間だった。
クイとカイが同時に動いた。まるで呼吸を合わせたかのように、鋭い小型ナイフが宙を舞い、衛兵の喉元に深く突き刺さる。
「う……ぐ……何者……!」
血の泡を吐きながら、衛兵たちは音を立てて崩れ落ちた。
「急いで」
ハル子は周囲を警戒しながら、錆びついた鉄格子に手を添えた。
「ディストラクション」
低く、囁くように呟くと、鉄格子が白い煙を上げ、細かく砕けて床に散った。
その光景に、クイもカイも、セラも驚愕の目を向けた。
「す……すごい……」
カイが息を呑む。
中に入ると、分厚い鉄の扉が三つ、中央と左右に等間隔に並んでいた。小窓はなく、内部の様子は一切わからない。
「全部開ける……」
ハル子は右の扉に手を当てた。指先が冷たい鉄に触れ、肌にぞくりとする感触が走る。
「ディストラクション」
扉は再び粉々に崩れ、煙を上げて跡形もなく砕け散った。
その奥には、冷たい石床の上に、鎖で両足を縛られたドワーフ族の少年がいた。身体は痩せこけ、肌は土のように青白く、まるで魂を抜かれた人形のようだった。
ハル子は彼のそばに膝をつき、そっと首を支えた。
「さあ、飲んで」
水筒から一口、水を与える。
すると、ふわりと”緑色の光”が少年の周囲に広がり、みるみるうちにその顔色に血の気が戻っていった。
「……あれ……あなたたちは……ぼ、僕を殺しに……?」
ドワーフ族の少年の目がかすかに開き、怯えた声を漏らした。視線は、後方に立つ処刑斧を握ったクイに向けられていた。
「ち、違うよ、我々は君を助けに来たんだ」
ハル子がやわらかく微笑む。だが、心の中では別の疑問が渦巻いていた。
(……で、誰? この子?)
「君、名前は?」
ハル子が尋ねると、少年は小さく口を開いた。
「ぼ、僕は……アルベルト。アルベルト・レヴリーです。助けてくださって、ありがとうございます……!」
その名を聞いた瞬間、クイの目が鋭く光った。
「もしかして……君のお父さん、シド・レヴリーって言わないか?」
少年は怯えながらも、こくんと小さくうなずいた。
「は、はい……」
「ニタヴェリル共和国で”元首”を務めている御方の息子さん!? こ、これは……」
セラ・ファランドールが息を呑んで呟く。
(へぇ……ただの子どもじゃなかったわけか…)
ハル子は内心でつぶやいた。だが、そうであっても関係はない。今は――生きて、この牢から連れ出すこと。それだけだった。
そして、ハル子は無言で中央の扉の前に立ち、ゆっくりと掌を金属にあてた。
湿った空気と、どこか焦げたような臭いが鼻をつく。扉には無数の爪痕のような傷が刻まれており、それがどれだけの時間、絶望がこの中に閉じ込められていたかを物語っていた。
「……ディストラクション」
静かに呟いたその瞬間、重厚な鉄扉が白煙を上げ、内側から砕けるように粉々に崩れた。
まるで長年の呪縛が解けたかのように、冷たい空気が一気に吹き出し、ハル子たちの頬を撫でる。視界の先――そこにいた。
青年が一人、うつ伏せに倒れていた。長く伸びた黒髪は汗と埃にまみれ、顔には深い影が落ちている。手足は細く衰え、裸足の足首には重々しい枷がついていた。
何より痛々しいのは、その足――腱が断たれ、不自然に曲がっている。喉元も腫れ上がり、赤黒く変色していた。
ハル子は小さく息を飲んだ。
「……まだ生きてるか」
ゆっくりと青年の頭を抱き起こし、指で彼の唇をなぞるように拭う。乾いていた唇に水筒の口を近づけ、一滴、また一滴とヒーリングジュースを垂らした。
その瞬間――
ふわりと”淡い緑の光”が青年の体を包み込む。まるで風に揺れる草原のような穏やかな波動だった。
腫れが引き、傷が癒え、皮膚に血の色が戻っていく。沈んでいた目がかすかに震え、焦点を持ち始める。
「……ジャン・ズーヤー殿。助けにまいったぞ」
薄く目を開けた青年は、光に目を細めた。
「あ…あなたは……?」
「私はトスカーナ大公の命を受けて来た者だ。名は……ハル」
するとジャンはふっと安堵の笑みを浮かべ、震える両手でハル子の手を握った。
「ありがとう……ハル殿……」
その手は冷たく、しかし確かに命の温もりを取り戻しつつあった。
ハル子は黙って頷き、部屋の奥へと目を移した。
石造りの壁の一角――そこに、かすかな魔力の反応を感じた。
「……この奥だな」
掌を当て、「ディストラクション」と再び唱える。
壁が静かに震え、まるで霧に溶けるように崩れ去った。
薄暗い空間の先に現れたのは、小さな部屋――否、祭壇のような空間だった。
中央に、青白く輝くクリスタルが浮かぶように鎮座している。淡い光が、まるで脈を打つように明滅していた。
「ほう……まさか、こんな奥深い場所に隠していたとはな…レペリオの水晶で見たとおりだ…」
ハル子はその神秘的な光景に目を細めた。クリスタルの輝きが瞳に反射し、ハル子の表情もどこか神秘的ですらあった。
ジャンが一歩近づき、口を開く。
「それは……一体……?」
「世界に存在する強大な魔力が込められていると言われる魔石…『七つのクリスタル』のひとつだ。これは、私が追い求めているものなのだ」
ハル子の声に一瞬、空気が引き締まった。
セラ・ファランドールが一歩前に出て、警戒するように言った。
「……では、早く‥‥左の扉も壊してください」
「うむ……最後の扉だな」
ハル子はゆっくりと左側の重厚な鉄扉の前に歩み寄る。扉の表面には血のような赤錆がこびりつき、どこか不穏な気配が漂っていた。
ハル子は静かに手のひらを当て、低く囁くように呟いた。
「ディストラクション」
すると、重たい金属が軋みを上げて砕け散り、断末魔のような響きとともに扉は崩れ去った。
崩壊したその奥――ひんやりとした暗がりの床に、一人の女性が無残にも倒れていた。
「イオ……!」
最初に声をあげたのは、修道士服姿に扮した”女王アルル”だった。目を見開き、我を忘れたように駆け寄ってその体を抱き起こす。
その姿を目にしたセラは一瞬言葉を失い、そしてはっと顔を上げた。
「あ……アルル女王様!? なぜ、ここに……!?」
混乱と驚きの入り混じった声で駆け寄る。どうやら、いつの間にか従者たちに紛れ、共にここまで来ていたのだ。
(……これは、完全に計画外だね…)
ハル子は内心で舌を巻きながらも、表情は変えなかった。
イオ・ファランドールの身体は――惨憺たるものだった。背中には鞭打ちの痕が何本も走り、目は腫れ上がって原形をとどめず、両足の腱は断ち切られ……まさに拷問の果てにある姿。
それを見たアルルは、嗚咽を漏らしながら膝をつき、イオを抱きしめて泣き崩れた。隣に立つ姉のセラも、声を殺して涙をこぼしていた。
「イ……イオ……ごめんなさい……私が……私がっ……」
その声に反応するかのように、イオの顔に涙が落ちていく。
「ハル殿……! 先ほどの水筒を、もう一度!」
セラの切迫した声に、ハル子はすぐに頷き、首にかけたヒーリングジュースの水筒を手に取った。
そしてそっとイオの唇に注ぐ。
……しかし、何も起こらない。
緑のオーラが現れるはずの身体に、沈黙が続く。
「ど、どういうことなの……!? これは、効く薬なのでしょう!」
アルルが取り乱し、ハル子の腕を掴んで詰め寄った。
「ま、待ってくれ……!」
ハル子は眉をひそめながら、イオの紫色の傷をじっくりと見つめる。
そして、どこか既視感を覚えた――そう、あの時のケルと同じ。
癒しを拒む“何か”が、体の中に潜んでいる。
「……これは呪いだ。通常の傷ではない。呪詛が込められた武器で受けた傷……」
そう呟くと、ハル子は懐から小さな木箱を取り出し、中を開け銀の筒を取り出した。アレッサンドロ伯爵より渡された特別な薬――万能治療薬の一つであり、本来なら温存すべき秘蔵の品。
(……まったく、もう二つ目か。けれど……仕方ない)
心の中でそう呟くと、あああああ……と泣き崩れるアルルとセラを横目に、ハル子は筒の栓を開け、中の濃緑色の液体をイオの口へと慎重に注ぎ込んだ。
すると――
ぶわっと、まるで命そのものが芽吹くように、”濃い緑の光”がイオの体から噴き出した。
幾重にも波打つようなオーラが彼女を包み、裂けた肌が癒え、傷んだ腱が再生し、血色がほのかに戻っていく。
少女のまぶたが微かに震え、ついに――目をぱちりと開いた。
「……あ……あれ?…アルル様……?」
その瞬間、アルル女王の叫びがこだました。
「あああああ……イオ……! 本当に……イオなのね!」
セラも声をあげて、二人は涙を流しながらイオに抱きついた。
崩れ落ちるような感情が、その小さな空間を満たしていく。
振り返ったセラは、涙で濡れた頬をぬぐいながら、ハル子に歩み寄り、震える手でそっと手を握りしめた。
「あ……ありがとう……ハル様……。あなたのおかげで、妹は……」
ハル子は無言で頷くと、目を伏せた。
その心には、まだ続く戦いの重みと、守るべきものの確かさが、静かに降り積もっていた。
「さあ、ここからが本番だよ!」
クイが処刑人のフードをはらい、鋭い笑みを浮かべて言った。
その声を皮切りに、一行は駆け足で地下回廊を走り抜ける。
重い足音、脈打つ鼓動、天井からぽたぽたと水滴が落ちる音が、緊張を倍増させていた。
やがて、出口の広間が見えてきた――しかし、その前に立ちはだかる影があった。
「……っ!」
鎧をまとった兵士たちが、びっしりと出口を塞いでいた。その数、およそ百。鋼の如き威圧感と、密集する武器の光。抜け出すには、戦うしかなかった。
中央に立つ一人が、前に出る。顔全体を覆うフルフェイスの兜に、長い槍を片手で軽々と携えていた。
「……ふん、貴様ら。処刑の命など、最初から出ておらん。偽の文書で騙すとは……見くびったな」
冷たく言い放つと、槍の切っ先をゆっくりと前に向ける。
「皆の者――殺してよい。かかれい!」
その一声で、地響きのような足音が鳴り響いた。
兵士たちが怒涛のごとく押し寄せる。
「来たぞォォ!」
クイが咆哮とともに、巨大な斧を振り抜いた。唸りを上げる刃が兵士を吹き飛ばす!
カイは矢尻を指で弾くように投げ、的確に敵の目元や喉を撃ち抜いていく。
セラとイオは姉妹ならではの絶妙な連携で、魔法と剣技を交錯させ、敵を切り崩していった。
「ぐ……こいつら、ただの脱獄者じゃない!」
敵兵が一人、震えながら後退する。
すると――
「く、くく……ここまでとはな」
後方から隊長が、フルフェイスの兜を脱いだ。短く刈られた金髪、鋭い片目には深い傷跡が走っている。
その顔からは、人を殺すことに何のためらいもない、修羅の気配が漂っていた。
「我は、このアルカトラズ大監獄の警備隊長”ヴォルフガング”である」
「さあ……いくぞ!!」
叫ぶと同時に、彼の槍が風を裂いた――!
「っぐわあああ!」
クイとカイが横殴りに吹っ飛ぶ。まるで爆風のような一撃。二人は壁に叩きつけられ、呻きながら膝をついた。
「こ…こいつ……ただものじゃねぇ……」
歯を食いしばりながら立ち上がるカイの隣で、クイが血をペッと床に吐く。
その刹那――ヴォルフガング隊長が標的を定めた。
真っ直ぐに――アルル女王と、彼女にしがみつくようにいた小さなアルベルトに向かって突撃する。
「くるな……!」
ファランドール姉妹が連携を取りながら応戦するも、その隊長の槍の一撃が速く、そして重く彼女たちの剣が弾かれ、地面に転がされた。
そして、槍が――アルル女王に向かって一直線に突き刺さろうとした。
その時――
カキィィィィィィン――――!!
耳をつんざくような金属音が響いた。
閃光の中、アルルが瞳を開く。
そこに立っていたのは、全身に光を浴びたハル子の姿だった。
その背中に、全てを守るという意志が宿っている。
「さて……こいつが最後か」
ハル子の静かな声が、戦場の喧騒を一瞬で押し黙らせる。
「ハル様、お気をつけて……そやつ、尋常ではない!」
セラが叫ぶが、ハル子はちらと笑って返した。
「ふふん、まあ見てなさい」
その目が鋭く細まり、呟く。
「――オメガアタック」
ハルの体から、赤黒いオーラが噴き出す。熱風のような魔力の圧力が空間を揺らし、床に亀裂が走る。
その一撃は、音すら置き去りにして放たれた。
「がっ……!」
拳が隊長の胸部にめり込む。鎧は砕け、彼の身体は何十メートルも宙を舞い、天井近くの壁に叩きつけられた。
ドガァーーーーーン!!!
その巨体が壁にめり込み、しばし静寂が広がった。
「……す……すごい……」
誰かが呟いた。言葉を失ったように。
(……擬人化指輪でステータス半減中でも、この威力……やっぱり、オメガアタックは別格か)
ハル子は胸の内でそう呟き、衣服を整えるように軽く肩を払った。
「さ、片付きましたね。予定通り、帝都脱出とまいりましょうか」
その余裕たっぷりの笑みに、アルルの胸が高鳴るのを止められなかった。
「……はい」
地下の重苦しい空気を抜け、地上に出ると、まばゆい陽光と共に騎馬の蹄の音が響いた。
そこには、銀の鎧に身を包んだレオグランス王国の騎兵隊が隊列を組み、風にたなびく王国旗の下に立っていた。
その先頭には、小柄な獣人の少女――ケルがいた。白ピンク色の毛並みが陽光に輝き、尻尾がゆらりと揺れる。
「さあ、こっちだよ!」
ケルが鋭く手を挙げて呼びかける。その声音には緊張と誇りが混ざっていた。
ハル子たちは息を整えながら、急ぎ足で馬車に駆け寄った。
アルル女王とイオは互いに手を取り合いながら、セラは周囲を鋭く警戒しつつ乗り込む。
そして獣人の子ケル、ドワーフの子アルベルト、道士ジャン・スーヤーとハル子、そしてカイとクイと名乗る者らが乗り込んだ。
荷台の扉がバタンと閉じると同時に、御者が鞭を鳴らし、馬車はゆっくりと走り出した。
――そのときだった。
コロシアムの方角から、黒煙が空に向かって立ち昇った。
炎が吹き上がり、闘技場の塔が火に包まれていく。人々の悲鳴と怒号が、まるで波のように広がった。
中からあふれ出した群衆が、パニックに陥りながら街路を埋め尽くす。
「……始まったわね」
ハル子は馬車の窓から外を見つめながら、静かに呟いた。
周囲では、周辺貴族たちが護衛に囲まれながら、自らの馬車へと殺到していた。
騎士たちの怒声、馬のいななき、荷台が跳ねる音。街はまるで戦場のように混乱し、北門、南門、西門、東門――すべての出口に向かって殺到する影が入り乱れる。
その混沌の中、ハル子たちの馬車は、ケルと騎兵隊の誘導により、北門の裏手にある補給路をすり抜けるように進んでいった。
馬の足音だけが、静かに、そして確実に道を切り拓いていく。
「……っふう」
誰にも聞こえぬよう、ハル子はそっと息を吐いた。
(ふぅー……計画通り。すべて、ぴたりと歯車が噛み合った)
緊張の糸がようやくゆるみ、肩から力が抜ける。その横顔に、安堵とわずかな誇らしさが滲んでいた。
中ではまだ混乱が続いていたが――
この瞬間、一行は確かに、死と絶望の檻から脱出したのだった。
カイ




