Chapter23【出会い】
翌朝、空は薄曇りで、風はどこか湿り気を含んでいた。ハル(魔王ハル子)は、獣人の子ケルを連れて、作戦に必要な修道服の衣装を求めて街の衣服店へと足を運んだ。
店は大通りに面した古びた木造建築で、軒先には洗濯物のように修道服や僧兵の衣がぶら下がっている。店内にはかすかに香辛料と古布の匂いが混じって漂い、番頭の老婆が目を細めて出迎えた。
「お主ら、信心深い修道士には見えんが……まぁ、金を出せば誰でも神に仕える時代だからじゃのう。」
多少の皮肉を含んだ口調に苦笑しつつも、目的の衣を手に入れた二人は足早にその場を後にした。
買い物の帰り道、ハル子はふと、視線を街の一角に向けた。そこには大監獄の入り口があった。厚く重々しい石造りの門の前に、銀の紋章を胸に輝かせた二人の衛兵が直立していた。彼らは微動だにせず、まるで石像のようだった。門の奥には、苔むした階段が暗がりの中へと続いており、地下の闇へと飲み込まれていくかのようだった。空気はどこか冷たく、風もそこを避けるように流れていた。
そのとき——
「侵入者だ……捕らえろ!!」
階段の奥から怒声が響き、空気が張り詰めた。次の瞬間、黒い影が階段を駆け上がってきた。黒装束の人物が翻す外套は夜の帳のように闇と同化し、足元はまるで地を滑るように素早かった。
「止まれっ!」
両脇の衛兵が瞬時に反応し、長槍を交差させて進路を塞ぐ。だが、黒装束の者は一切のためらいなくその槍の間に滑り込み、回転するように体を捻ってそのまま二人を吹き飛ばした。衛兵たちは呻き声を上げて地に転がり、黒影は迷いなく街の雑踏へと飛び込んでいく。
間もなく、地下から怒涛のように30名近い衛兵たちが現れた。彼らの鎧が太陽に反射し、鋼の波のように光を放つ。
「追え、逃がすな! あっちへ行ったぞ!」
怒声が木霊し、通りにいた民衆たちは蜘蛛の子を散らすように脇へ逃げた。街は一瞬で騒然となり、地鳴りのような足音が続いた。
ハル子の瞳が鋭く光る。「……見事な逃げ足だな。気になる。」
ハル子はケルとともに、音のした方向へ歩を進めた。
ほどなくして、衛兵たちは通りのあちこちで散開し、互いに怒鳴り合いながら辺りを探し始めていた。
そのとき、ケルがハル子の袖をくいっと引っ張った。
「さっきの人……たぶん、あっち。」
指差す先は、ひっそりとした裏路地だった。両脇に建ち並ぶ建物は古く、壁には蔦が這い、石畳の隙間からは小さな草が芽を出している。そこは袋小路で、奥には暗がりに身をひそめる一人の人影があった。
黒装束の者は背を壁に預け、荒い呼吸を繰り返していた。手には銀の刃を帯びた小振りのナイフ。目は鋭く、こちらを警戒している。
「……くっ、見つかったか。」
ナイフを構え、一歩踏み出そうとしたそのとき、ハル子は穏やかな声で制した。
「待て。私は衛兵ではない。」
そう言って、手に持っていた修道女の衣装を差し出した。
「な、なにを……?」
「これを着て私と共に歩けば、誰も疑うまい。」
数秒の沈黙。やがて、黒装束の者は警戒を残しながらも衣装を受け取り、その場で素早く着替え始めた。
黒いフードの下から現れたのは、陽光を思わせる金髪に、柔らかな巻き髪をもつ若い女性だった。その顔にはまだ緊張が残るものの、どこか高貴な気配も漂っていた。修道女のウィンプルをかぶると、その気配は仄かに隠れた。
「行こう。長居は無用だ。」
三人は人波の中へと紛れ、何食わぬ顔で歩き始めた。
「……どうして、私の居場所が分かったの?」と、ウィンプルの下から声がした。
「匂いだよ。」とケルがぴょこんと返す。
「……私、臭うんですか?」顔を赤らめるその様子は、
先ほどの激しい戦闘からは想像もできないほど可愛らしかった。
「いやいや、そうじゃない! ケルは獣人だから、鼻が利くんだ。」
「えへへ。」
ケルはしっぽをぶんぶんと振りながら得意げに笑った。
その仕草に、ハル子はふっと笑みを浮かべ、ケルの頭を撫でた。
「警備兵たちはまだ辺りをうろついている。だが、いずれ諦めて引き揚げよう……それまで、我が宿で時間を潰そうか。」
女性は少し戸惑ったようにハル子を見つめ、そして小さく、しかし確かに頷いた。
こうして、一人の逃亡者と魔王ハル子の奇妙な出会いが幕を開けた。
宿の部屋に入ると、昨日広げたままの大監獄の地図が、卓上に無造作に置かれていた。蝋燭の淡い光が地図の縁を照らし、そこに記された複雑な通路や牢の配置が、まるで迷宮のように浮かび上がる。
「……あっ、これは……」
黒装束の女性——セラは目を見開き、思わず声を漏らした。ハル子は一瞬、地図を見られたことに焦ったが、すぐに冷静さを取り戻す。この者も、あの大監獄から逃れてきた身。ならば、見られて困ることはない。
その女性は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「お助けいただき、ありがとうございます。私はレオグランス王国の親衛隊の一人、ファランドール7姉妹の次女、セラ・ファランドールと申します。この……大監獄の地図、ぜひ我々に頂けないでしょうか……?」
その瞳には切実な願いが宿り、声には震えがあった。
ハル子は顎に手をあて、じっとセラを見つめた。そして柔らかく口を開く。
「ふむ……その前に、事情を聞かせていただきましょうか」
セラは頷き、静かに語り始めた。
「……はい。あれは、先月のことでした。我がレオグランス王国に、帝国の使者が現れました。“エルシャダイ皇帝の生誕祭に、女王自ら贈り物を携え、出向くべし”と……」
その声は徐々に熱を帯び、言葉の端々に怒りと悲しみが滲む。
「ですが……女王陛下は、帝国領内を通るたび、野盗や山賊に襲撃されてきたのです。そして最近、それらが帝国側の仕掛けた罠だったと判明しました」
ハル子とケルがわずかに目を見交わす。
「そこで、陛下は使者の要求を断るべく、我が妹の三女、イオを使者として贈り物を託して帝国へ向かわせました。……ですが、数日後から消息を絶ったのです……」
言葉を止め、セラはそっと目元を拭った。そして、拳を握りしめ、なおも続けた。
「私たちの隠密の者たちの報告で、イオが帝国の地下監獄に囚われており、拷問を受けていると知りました。我が女王陛下は激怒され、親衛隊を率いて帝国へ、自ら足を運ぶ事を決断されたのです。……しかし、侵入には成功しても、地下牢獄の構造があまりに複雑で、どこにイオがいるか見当もつかず……」
ハル子は静かに微笑み、セラの話が終わるのを待ってから言った。
「……ふふ、案ずるな。我らも、同じ目的で動いている」
「え……?」
「我々は、トスカーナ大公国の道士、ジャン・ズーヤーの救出を目論んでいる。そなたと同様、捕らわれた者を取り戻すためだ。どうだ、我々と手を組まないか?」
その言葉に、セラの目が潤み、唇がわななく。
「……ぜひ!」
それは、心からの願いだった。
「では……女王陛下をこちらにお連れします!」
「おいおい、女王陛下だぞ? 本当に大丈夫か?」
ハル子はやや不安げに問う。セラは胸を張り、きっぱりと言い切った。
「はい。変装を施し、庶民の姿でお連れします。気づかれることはないでしょう」
「それでは……今夜の夕食後、作戦会議を行おう。その頃に来られるがよかろう」
セラは深々と一礼し、部屋を後にした。
その夜。
宿屋の静寂の中、コンコンと控えめなノック音が響いた。ハル子が扉を開けると、そこには深いフードを被った金髪の女性が立っていた。その傍らに、セラが静かに控えている。
「はじめまして。レオグランス王国の国主——アルル16世ヒラリウスでございます」
その声には高貴な気品と、どこか刺のある冷たさがあった。
フードを脱いだ瞬間、ふわっと美しい金髪の髪をなびかせ、気品のある美しい若い女性…
しかしどこか幼い所も漂わせる雰囲気があった。
「こちらも、はじめまして。ハルと申します」
ハル子はにこやかに応え、軽く頭を下げた。
だが次の瞬間、アルルは鋭く視線を横に向け、セラに問いただす。
「……で、この男が、大監獄の地図を持ち、大罪人の脱獄を企てている者だというのね?」
「い、いえ! 違います! アルル様、この方は我々と同じ、囚われた者を助けようと……!」
セラが慌てて否定するが、アルルはなおも問い詰める。
「大罪人ではない。トスカーナ大公国の道士、ジャン・ズーヤー殿が、そなたのイオ殿と同じように囚われているのだ」
ハル子が冷静に言い返す。
しかし、アルルの目には疑念の色が浮かぶ。
「……して、この男。信用に足るのかしら?」
「はい。少なくとも、私は信用しております」
セラが真剣な眼差しで言い切る。
「あなたは、トスカーナ大公の家臣なのかしら?」
「……いえ、違います」
「ほら、やっぱり。身内でもない者が、命を賭けて救いに来る? 私は女王として、命を賭けて配下を救いにここに来たのよ?」
その言葉には、誇りと苛立ちが混ざっていた。
「貴方はトスカーナ大公に金で雇われたということなのでしょう?」
「……おい、さっきから貴様!」
ハル子が口を開くより早く、リヴァイアが怒鳴った。瞬間、場の空気が凍る。
「我が主に無礼なことばかり……許さんぞ!」
部屋が静まり返る中、ハル子は冷静に言葉を重ねる。
「まあ……そういうことにしておきましょう」
アルルは鼻で笑い、踵を返そうとした。
「お金で動く者……それに、私の嫌いな“男”。そういう者は……すぐに裏切るのですわ!」
だが、セラがその前に膝をついた。
「ま、待ってください……。今は、大監獄の地図が必要なのです。この者と手を組むのが、最善の策です。なにとぞ……」
沈黙のあと、アルルは不機嫌そうに息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
「……仕方あるまい」
その一言に、セラは安堵の息を漏らす。
「ふふ……良き部下をお持ちですね」
ハル子の冗談交じりの言葉に、アルルはふん、と鼻を鳴らしただけだった。
(……さて、この男嫌いの”じゃじゃ馬女王”。うまく手綱を取れるかどうか)
ハル子は心の中でそう呟いた。
こうしてアルル女王が加わったことで、作戦の前提が大きく変わることとなり——
その夜の作戦会議は、深夜まで続いたのであった。




