Chapter22【潜入】
ハル子たち一行は、帝国領の都市アルゴスを後にし、聖ルルイエ帝国の心臓部――聖ルルイエ城を目指して南下していた。
朝焼けの中、遠く地平線の先に、白金色に輝く巨大な城が浮かび上がる。それはあまりに神々しく、まるで雲の上に浮かぶ幻影のようだった。
「……あれが、聖ルルイエ城……」
思わず漏れるリヴァイアの声に、誰もが言葉を失う。
巨大な城壁は空へと聳え立ち、城門前にはすでに多くの旅人や商人たちが列を作っていた。目算でざっと三百人、否、それ以上はいるだろう。
そして、門前に整列する百人を超える衛兵――すべてが鉄壁の防御を物語っていた。
「これは……思った以上に厳重ですね」
レンが肩をすくめた。
「だからこそ、練習した意味がある」
ハル子は、修道服のフードを深く被りながら呟いた。
一行は列に加わり、ゆっくりと順番を待つ。冷たい緊張感が全員を包む中、やがて彼らの番がやってきた。
「修道士の方々、そちらの獣人は……? 首輪も鎖も確認できませんが?」
鋭い視線を投げかける衛兵の問いに、一瞬場が凍る。だが、リヴァイアがすかさず頭を下げて言った。
「この獣人は、先日脱走した奴隷でございます。四聖賢ラファエル殿の所有獣人にて……我々が責任をもってお連れしている次第です」
「ほう……ラファエル殿下の……それはそれは。ご苦労様です」
衛兵は納得したように頷き、道を開けた。無事、聖ルルイエ城下への潜入に成功した。
中へと入るや否や、リヴァイアはほっとしたように肩を落とし、笑みを浮かべる。
「ふう……昨晩の練習通り、うまくいきましたね!」
「うむ、よくやったレンよ」
ハル子は満足そうに頷き、彼女の肩を軽く叩いた。
「は……はい、ハル様……」
ふと、二人は顔を見合わせた。照れたように、そっと目を逸らす。
頬が赤く染まるのを隠せずにいると、無邪気な声が飛んできた。
「あの……ハルさんとレンさんって、夫婦なんですか?」
ケルの問いに、二人は同時に跳ねるように振り返り、声を揃えて答えた。
「い……いや、それは……!」
あたふたと否定するも、言葉にならない。
ケルは首をかしげたが、二人の間に流れる雰囲気に何かを察したのか、それ以上は突っ込まなかった。
しばらく歩いていると、突然、甲高いラッパの音が響き渡る。
鼓笛隊が通りを行進し、人々が左右に分かれて見物を始めた。
「なんだ……?」
街道の奥から、絢爛な旗が揺れ、白馬が牽く金装飾の馬車が現れる。馬車の両脇には、銀の甲冑に身を包んだ騎兵たちが整然と進軍していた。衛兵の一人が声高に叫ぶ。
「レオグランス王国、女王アルル陛下の入城である!」
「レオグランス……!」
ハル子は思わず立ち止まった。
(あの国は、確か……七つのクリスタルの一つを保有しているはず……)
群衆の隙間から覗き込もうとするが、千騎を超える騎兵隊が馬車を厳重に護衛しており、女王アルルの姿はまったく見えない。
それでも、その名が持つ重みは、否応なく一行の胸に圧し掛かった。
「どうする、ハル様……?」
レンがそっと尋ねる。
「……焦るな。敵地の心臓部だ。ここで動けば、すべてが水の泡になる」
ハル子は冷静に答えたが、内心は波立っていた。
ついに敵の本拠地――そしてクリスタルのある地に踏み込んだのだ。今は、ただ耐え、見極めるしかない。
人混みのざわめきの中、ふと耳に入ったのは、年配の男の興奮を帯びた声だった。
「なあ、一週間後に開催されるエルシャダイ皇帝の生誕祭で、武術大会が開かれるんだとよ。レオグランス王国の騎士団も出場するらしいぜ……」
その一言に、ぴくりとリヴァイアの耳が動いた。
「なにっ!? 本当か、それは!? 参加はまだできるのかっ!」
と、反射的に声を荒げて、話していた男に詰め寄った。
突然の気迫に男は少したじろぎつつも、しどろもどろに答える。
「え、ええ……本日が予選の申し込み締切日でして……。もう百人以上が応募してるとか。誰でも参加できるそうですよ」
「ど、どこだ!? どこに行けば参加できる!?!」
鼻息も荒く食い下がるリヴァイアに、男は慌てて指さした。
「こ、こっちをまっすぐ行くと、刀の形をした看板が見えます! そこが衛兵ギルド本部で、大会の主催元ですから……」
「ふむ、感謝するッ!」
まるで修道女とは程遠い言葉に、その年輩の男はあっけにとられていた。
そして、リヴァイアはその言葉を最後まで聞くや否や、勢いよく駆け出していった。まるで何かに取り憑かれたような勢いで、群衆の中をすり抜けていくその姿に、人々がざわつく。
ハル子はその背中を見送りながら、やれやれと肩をすくめた。
(うん……リヴァイアは戦闘に関することになると、途端に理性がどこかへ吹き飛ぶのよね)
その隣で、ケルが不安そうにリヴァイアの去っていった方角を見つめている。
「レンさん……大丈夫かな……」
ハル子はケルの頭を軽く撫で、優しく微笑んだ。
(……さて、私のやるべきことは、地下の監獄。あそこに囚われているトスカーナ大公国の道士ジャン・そしてクリスタル、その情報を持つ人物を探さねばならない)
群衆の喧騒を背に、ハル子は深くフードを被り直した。
夕暮れが街を赤く染める中、リヴァイアが駆け足で戻ってきた。
その傍らには、一人の覆面の男が静かに付き従っている。
全身を黒装束で包み、顔の下半分には布を巻いていた。姿はまるで、日本の伝説に語られる“忍者”のようだった。
「魔っ――いや、ハル様……っ、武術大会の申し込みを……済ませてまいりました!」
息を切らしながらも、誇らしげに胸を張るリヴァイア。
だが、ハル子の目はすぐにその隣の不審者へと向けられた。
「いや、それより……その男は何者だ?」
視線で詰め寄るように問うと、リヴァイアは少し戸惑いながら答えた。
「衛兵ギルドで声をかけられまして……。どうやら、我々に協力してくれるというのです」
「……ふむ」
ハル子は覆面の男をじっと見つめた。その気配は、まるで空気のように淡い。それでいて、背後を取られたような、微かな緊張感を孕んでいた。
「名は、なんと申す?」
すると、男は微かに首を横に振りながら、低い声で答えた。
「名は……今は、明かせません」
「慎重だな。で、協力とは? どこまで知っている?」
ハル子の問いに、男は一歩前に進み、静かに口を開いた。
「我が主から命を受けております。『修道女に扮した魔王軍四天王、飛竜のリヴァイアが衛兵ギルドに現れる』……そして、彼女に付き従う者と接触せよと」
ハル子の眉がわずかに動いた。
(なるほど、こちらの行動を知っている人物がいるとは……?)
「ふむ……経緯も事情も知っているようだな」
「はい。地下深くに存在するとされる巨大監獄――その出入口や構造図を、我々の手で入手いたします。どうかご安心を」
覆面の奥に見えたのは、揺るぎない忠誠心と覚悟の色だった。
ハル子はわずかに頷き、問いを重ねる。
「……お主らの“主”とは誰だ? 無理は承知だが、教えてもらえるか?」
その問いに、男は再び小さく首を振る。そして、事前に用意されたような口調で、淡々と告げた。
「はい。そのような質問を受けたなら、こう答えよと申されました――『今は、インペラトル皇国にいる』と」
「インペラトル皇国……?」
ハル子の脳裏に、フードを被った仮面男の姿が浮かび今までの記憶を重ねた。
(誰……? いったい、何者がこの動きを……?)
「……よし。監獄の設計図、期待している」
とハル子は言い放った。
「はい、畏まりました」
と覆面の男は深く一礼し、音もなくその場を後にした。
ハル子は彼の背中を見送ったあと、静かに呟いた。
「……何かが動き出しているのか。あらゆる思惑が、交差しはじめている……」
そして、風が吹いた。
城下の通りをなびかせるその風は、まるで戦いの前触れのような、冷たい気配を帯びていた――。
そして翌日――
朝靄の残る街を抜け、ハル子とケルは武術大会の予選会場へと向かった。
その広場は、ルルイエ帝国が特設した巨大な円形競技場。
観客席はすでに多くの人々で埋め尽くされ、声援と喧騒、そして熱気が空へと舞い上がっていた。
屋台が並び、香ばしい焼き串の匂いや酒精の香りが漂ってくる。まるで祭りのような賑わい。
会場は4つのブロックに分かれ、それぞれで予選試合が行われている。
中央には巨大な魔導掲示板が設置され、次の対戦カードが煌々と表示されていた。
《修道女レン VS 帝国第七騎士団所属 南門警備隊長》
「……さて、そろそろかな」
呟いたのはハル子。観客席の陰から様子を見守るその目は、どこか愉快げに細められている。
「……あの、レンさん……大丈夫ですか……?」
心配そうに声をかけたのは、袖の裾をきゅっと握る獣人の子、ケル。
その金色の瞳が、不安げにリングの中央を見つめている。
「ふふふ、あ奴は戦闘狂なのだよ。まあ、見てなさい」
ハル子がそう言って笑うと、観客の歓声が一段と高まった。
リングの両側から、対戦者たちがゆっくりと歩を進めてくる。
修道女の法衣を纏った――レン。
その表情は淡々としており、まるで戦いを前にしても心が波立っていないように見えた。
金属の装備すら着けていない・・・
対するは、分厚い鎧に身を包んだ屈強な男――南門警備隊長。
帝国第七騎士団に所属し、幾度も戦場を潜り抜けた歴戦の兵士だ。
観客席からも「おお、隊長だ!」とどよめきが起こる。
審判がリング中央に立ち、魔導マイクで両者の名を読み上げると、場内が一瞬、静寂に包まれた。
――カァン!
銅鑼の音が鳴り響いた。
次の瞬間、それはまさに“瞬殺”だった。
「うおおおおおおッ!」
警備隊長が雄叫びと共に剣を振りかざし、一直線にレンへと突進する。
しかし――
レンは、まるで風が舞うような自然な動きで一歩踏み出した。
そして、空へ拳を高く掲げる。
「はッ!」
炸裂する音。
地響きが広場に轟き、観客たちが思わず目を見開いた。
気づけば、南門警備隊長の身体が――地面に叩きつけられていた。
仰向けに倒れ、彼の剣は遥か後方へと吹き飛ばされている。
カン、カン、カン……!
審判が慌てて銅鑼を鳴らす。
「勝者、修道女レン!」
場内に響く声と同時に、会場が爆発した。
「うおおおおおおッ!」
「なんだ今の!?」
「やばっ、大穴だ……!」
「おい、どっちに賭けた!? お前レンに!? マジで!?」
どよめき、叫び、歓声。
あちこちで人々が騒ぎ、誰かがチケットを握りしめて天を仰いでいた。
その中で、静かに口元を緩める一人の男性――ハル。
「ふふ、ま、予想通りってとこだな」
ハル子の手には、リヴァイア――いや、レンが勝利するほうに賭けたチケットが握られていた。
しかも、倍率は108倍という超高額のオッズ。
誰よりも冷静に、誰よりもちゃっかりと。
勝負の流れを読んでいたハル子は、微笑みながらチケットを懐にしまった。
試合が終わり、場内の熱気がまだ冷めやらぬ中――
リングを降りたリヴァイアが、真っ直ぐにこちらへと駆け寄ってきた。
その顔には、戦いの余韻を湛えた晴れやかな笑み。
短く切り揃えられた前髪が風に揺れ、ほんのり頬を赤らめている。
「ハル様……見ていてくださったのですか?」
その瞳はまっすぐにハル子だけを見つめ、屈託のない笑顔で問いかけた。
「うむ。強かったぞレン」
とハル子は優しく答えながら、その頭をぽんと撫でた。
「はい……!」
リヴァイアは嬉しさを隠しきれず、さらに顔を赤くする。
まるで子どものように、撫でられる感触を名残惜しそうに目を閉じるその姿は、あの圧倒的な勝利を見せた者とは思えないほどに無垢だった。
そして、その様子を見上げていた獣人の子・ケルが、ぽつりと呟いた。
「やっぱ、レンお姉ちゃん……ハルさんのこと、大好きなんだね」
その言葉に、リヴァイアの顔がさらに真っ赤になる。
「い、いや……そ、そんなことは……!」
慌てて言い訳しようとするが、目は泳ぎ、顔は赤く染まっていた。
夕暮れが空を茜に染める頃、一行は賑わいの残る会場を離れ、宿へと引き上げた。
暖炉の灯りが優しく揺れる部屋の中、一人の男が姿を現した。
昨日出会った忍者風の男である。
彼は無言で一礼すると、机の上に大判の紙を広げる。
「……地下の大監獄の見取り図を、持ってまいりました。こちらをご覧ください」
低く落ち着いた声でそう言いながら、指先で地図の一部を指し示す。
(仕事早っ……! そして優秀……)
ハル子は内心で感心しつつも、顔には出さずに図面を覗き込んだ。
「地下構造は、かなり複雑です。迷路のように入り組んでおり……最深部が、最も厳重かと。
この『封印区域』と記された場所には、三つの鉄扉が確認されております」
彼の指が、図面の中で黒く囲われた領域をなぞった。
「そのいずれかに、トスカーナ大公国の道士……ジャン・ズーヤー殿が囚われている可能性が高いですが、正確な所在までは突き止められておりません」
「……問題ない。すべて開けてしまえばよいのであろう?」
ハル子は静かにそう告げ、口元をほんのりと笑みに歪めた。
(だって――私には、《ディストラクション》という魔法があるからね)
彼女の胸の内で、確かな自信が炎のように灯る。
「さすがはハル様。さらに、6日後には武術大会の決勝と、エルシャダイ皇帝の生誕祭が重なります。
情報によれば、この日が警備の最も手薄なタイミングになるとのこと」
忍者風の男が淡々と続けた。
「うむ……それでは、その日を決行日としよう」
ハル子が静かに頷くと、空気がぴんと張りつめる。
「では――私の立てた策はこうです……」
男は地図の端に手を伸ばし、さらに細かい図面と計画書を広げていく。
暖炉の火がぱちぱちと静かに弾ける音が、作戦会議の静寂を引き立てていた。
夜は更け、静かに――だが着実に、決行の日へと向けて時が動き始めていた。




