Chapter21【帝国領・都市アルゴス】
翌朝。
朝霧が薄く立ち込めるトスカーナ城の城門前に、ハル子とリヴァイアの姿があった。石畳の上に靴音が響き、大公リヴォルノ・トスカーナと軍総司令官シン、ナージャ将軍が見送りに出てきた。城門の外には、兵たちが整列し、旅立つ者たちに敬礼を捧げている。
「魔王様……どうぞ、ジャンのことを頼みます」
トスカーナ大公は深く頭を下げ、両手で小さな布袋を差し出した。
その中身は、ずしりとした重みを持っていた。
――ジャリ。
袋を開けてみると、中にはぎっしりと金貨が詰まっていた。陽光が反射し、まばゆい輝きを放つそれは、ただの貨幣ではなく、信頼と期待の象徴だった。
「帝国金貨三百枚入っております。ぜひ、帝国までの道中にお使いください」
とトスカーナ大公は穏やかに言った。
「うむ、助かる! では参る」
ハル子は堂々と答え、軽く手を振ってトスカーナ城をあとにした。城門がゆっくりと閉じ、背後からの見送りの視線を感じながら、二人は旅路を踏み出す。
小道を歩きながら、ハル子は懐から一つの指輪を取り出した。黒い宝石がはめ込まれたそれを指にはめると――
瞬く間に、魔王ハル子の姿が変わった。
ふわりと風が舞い、長い黒髪がなびく。
全体的にすらりとした体型で、知性と威厳を感じさせる美貌。誰が見ても目を奪われる美男子へと変貌した。
それを見ていたリヴァイアは、目を丸くして口元を押さえた。
「うわ……魔王様……インカネーションですか?」と聞くと
ハル子は首を振り
「これは魔道具で変身するのだ……すごいであろう?」
ハル子は得意げに笑った。
「ええ、でも……魔王様のオーラ、出まくりですよ!」
とリヴァイアが指摘すると、ハル子は少し困ったように眉をひそめ、今度は赤い指輪をはめた。
「ふふふ、これでどうだ」
「すごい……まるで一般人です!」
リヴァイアの目が輝いた。
「であろう」
とハル子は得意満面で微笑んだ。
やがて田園風景が広がる道にさしかかり、一人の農家の老女と出会った。背は小さく、背中は曲がっているが、目は優しく知恵深さを湛えていた。
「あらまあ、素敵なご夫婦ねぇ!」
とにこやかに言われ、リヴァイアは頬をぽっと赤らめた。
だが、老女は少し顔をしかめて言った。
「でも、その恰好だと……」
リヴァイアが怪訝そうに首をかしげた。
「恰好……なにかまずいのか?」
老女は周囲を見渡し、小声で語った。
聖ルルイエ帝国領内では、黒髪の者に対する差別が根強く、服装にも厳しい規定があるというのだ。とくに外部から領内へ入る黒髪の者は、かつての反乱軍や異教徒と結びつけられており、警戒されるという。
「まずいですね……」
「……ああ……」
会話を聞いた老女は、「私の村がすぐそこにあるから、ちょっと寄っていきなさい」と言い、二人を案内してくれた。
村の入り口は、木造のアーチと風鈴が揺れる素朴な造りだった。老女は手慣れた様子で村の洋服店へと入っていく。
「アキヒト! おるかい?」
奥から現れたのは、短髪で落ち着いた印象の黒髪の青年だった。裾をまくった作業服姿で、目は優しくも鋭かった。
「なんだい、ばあちゃん」
「ここのお二人なんだけど、帝国領内に入りたいんだ。そこで、このお二方に見合う服装を見立ててやってくれないか?」
青年は一瞥して言った。
「ははあー、これはこれは立派なご夫婦で……」
再びリヴァイアの頬が染まった。彼女は耳まで赤くなり、視線を伏せた。
「帝国領内か……よし、これだな」
彼は店の奥に入り、古びた木箱をいくつか運んでくる。
「さあ、これに着替えな。更衣室は向こうだよ」
更衣室で着替えを済ませたリヴァイアが現れると、そこには――
修道女のウィンプルで黒髪を完全に隠した姿があった。布地は清楚で品があり、どこか神聖さを感じさせた。
「わぁ、一度着てみたかったんですよね〜!」
リヴァイアは満面の笑みでくるくると回った。その様子はまるで少女のようだった。
美男子の姿であるハル子も修道士風のローブを身にまとい、顔を隠すためのフードを深くかぶっていた。
「まるでガーラね!」
とリヴァイアがはしゃぎ、ハル子は小さく肩をすくめて笑った。
「どうですか? この服……」
「うむ! 買い上げよう」
ハル子は金貨を二枚、青年に差し出した。
「こ……こんなに……」
驚くアキヒトに、ハル子はふと店の奥から聞こえてきた赤ん坊の泣き声に気づいた。
「中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてな。これで少しは子供に贅沢してやるのだぞ」
ハル子は微笑みながら言った。
「あ……ありがとうございます。お客様……お名前は……?」
少し戸惑ったようにリヴァイアが答えた。
「私……レンと言います」
「我は、ハ……ハル……」
一瞬詰まりかけたハル子は、慌てて言葉を続けた。
(やば……考えてなかった。レンが下の名前を即答したから、思わずハル子って言いそうになったわ……)
「ハルさん。この世界では珍しい名ですね!」
(アキヒト……お前が言うな……日本人みたいな名前だし!)
と心の中で全力ツッコミを入れるハル子であった。
そして、その村を後にしてから半日ほど、ついに魔王ハル子たちは帝国領、都市アルゴスへとたどり着いた。
夕暮れがあたりを黄金色に染め、空は茜と群青が混じる幻想的なグラデーションを描いていた。高くそびえる石造りの城壁がその光を受け、まるで巨大な要塞のように重厚な存在感を放っている。
「ここが……帝国の都市、アルゴスか」
ハル子は立ち止まり、ゆっくりと息を吐いた。城門の上には見張りの兵士が槍を構えて巡回している。その目は鋭く、わずかな違和感も見逃さぬよう鍛えられているようだったが、二人の修道服の格好に疑いを持つ者はいなかった。
修道士のフードを深く被ったハル子は、沈黙のまま城門を通り抜けた。リヴァイアも後ろから、シスターらしい落ち着いた足取りで続く。
中に入ると、目の前には広場が開けており、石畳の街路には市が立ち、人々の喧騒が響いていた。夕暮れにもかかわらず、屋台のランタンが明るくともされ、匂いたつ香辛料の香りが空気を満たしている。
「活気がある……それにしても……」
ハル子は人々の頭部に目をやる。
通りを行き交う者のほとんどは金髪、あるいは茶髪の色であった。その中で、黒髪は――いなかった。いや、正確にはいたが、その姿は地を這うように、首に縄を付けられていた。
「……奴隷、ですね」
リヴァイアの声は、抑えた怒りに震えていた。
首輪をつけられた黒髪の者や獣人たちが、命令されるまま荷物を運び、膝をつき、無言のまま目を伏せている。ときおり、主に罵られたり、叩かれたりする様子も見られた。
「獣人……黒髪の者まで、ああして扱われているとは……」
ハル子はぎり、と奥歯を噛み締めた。
その時、すぐ脇の路地から、甲高い声が聞こえた。
「この役立たずが!」
振り向くと、獣人の少女が蹴飛ばされ、地面に倒れ込んでいた。まだ幼さの残る顔に、土と血が混じった痕がついている。蹴ったのは中年の男で、短剣を腰にぶら下げていた。
「やめよ」
ハル子の低い声が空気を震わせた。
「なんだぁ? 貴様……これは俺の奴隷だぞ。殴ろうが殺そうが俺の勝手だろうが!」
男は睨みつけながら凄んだ。
「ならば、私が買い上げよう」
ハル子は迷いなく言い放つと、手のひらから金貨を十枚、男の足元へと投げつけた。
金貨はカランカランと音を立てて石畳に跳ね、光を反射して輝いた。
「へっ……マジかよ。こんな薄汚い小娘に十枚も? ははっ……変人かよ」
そう言いながらも、男は一枚ずつ丁寧に拾い集めると、鼻を鳴らして立ち去った。
「ただしな、その娘は呪いの病にかかってる。もうじき死ぬんだ。せいぜいお祈りでもしてやんな」
そう吐き捨てて、男は群衆に紛れて消えた。
地面に倒れた獣人の少女は、かすかに身を震わせながら、血混じりの咳をした。
「わたし……もう……死ぬの?」
細く掠れた声。あまりにも弱々しいその命に、ハル子はそっと膝をついた。
首から肩にかけて、紫色になった傷口が目立った。
「まだだ、まだ終わらせない」
水筒の水を一口、彼女の口元に運ぶ。癒しの魔力が薄緑の光となって少女を包むが、苦悶の表情は変わらない。
「やはり、ただの病ではないか……」
ハル子は眉を寄せた。呪い、不治の病……アレッサンドロ伯爵の言葉が脳裏をよぎる。
彼女は懐から小さな木箱を取り出し、中から一本の銀の小瓶を引き抜いた。それを少女の唇に当て、ゆっくりと中身を含ませる。
すると、『濃い緑の癒しのオーラ』が少女の全身を包みこみ、みるみるうちに傷口が塞ぎ、その顔色が戻っていく。呼吸が整い、咳も止まった。
「……あれ……生きてる。痛く、ない……どこも……」
少女はゆっくりと上体を起こし、ハル子を見上げた。
「完全に治癒を施した。もう大丈夫だ」
ハル子は穏やかに、だが毅然とした声で告げた。
「お……お代は……払えません……」
少女は戸惑いながら言う。
「代金など要らぬ。それに、お前はもう奴隷ではない。自由に生きなさい」
少女の瞳が大きく見開かれる。
そして、迷うようにうつむいたかと思うと、ハル子の袖をそっと掴んだ。
「わたし……ケル。……でも、行くところが……ないの」
その声は小さく、だが確かな意志がこもっていた。
「そうか……ならば、我らと共に来るといい」
ハル子は優しく微笑んだ。
夕暮れの街路に、三人の影が伸びていた。
新たな仲間を迎え、彼女たちは次なる運命の渦へと、静かに歩みを進めるのだった。
「ハル様、お腹がすきました。なにか食べましょう」
リヴァイアが可愛らしく言いながら、街角の一角に視線を向けた。そこからは、香ばしく炙られた肉の香りが漂ってくる。串に刺さった肉が店先で豪快に焼かれ、煙とともに食欲をそそる香りを街中に振りまいていた。
「……いい匂いだね。入ってみようか」
三人は連れ立って、その肉料理屋へと足を踏み入れた。中は活気に満ちていた。木のテーブルに人々が肩を寄せ合い、肉を頬張りながら笑い声を上げている。ランタンの灯りが天井から吊るされ、夕暮れの街の喧騒と熱気がそのまま店内に詰め込まれたような雰囲気だった。
空いていたテーブルに三人が腰を下ろすと、無精ひげの男が注文を取りにやってきた。だが、彼はハル子とリヴァイアには笑顔を向けたものの、ケルを一瞥して表情を曇らせた。
「お客さん、修道士さんだろう?でもな、この国じゃ獣人は床に座らせるのがルールでね。あんたの連れでも例外じゃ――」
チャリン。
ハル子は無言で、男の手のひらに金貨を三枚、静かに乗せた。
男は一瞬目を丸くし、それから顔を引きつらせながら言葉を飲み込んだ。
「……ああ、そ、特別だよ……あんたたちは……特別ってことで……」
どこかバツが悪そうにそう告げると、男は頭を下げて厨房へと戻っていった。
リヴァイアはくすっと笑いながらメニューをめくり、「この肉のプレートセットと、スープ、それからデザートを」と指差して注文した。
やがて、香ばしい肉料理がテーブルいっぱいに運ばれてきた。ジュウジュウと音を立てる鉄板の上で焼かれたステーキ、ハーブが香るロースト、そして温かいスープが湯気を立てている。
「あの……いいの? わたしが、こんな……席で、こんな……」
ケルが控えめにハル子に問いかけた。表情は不安と戸惑いで揺れていた。
ハル子は優しく頷いた。
「もちろん。今夜は、お前の新しい人生の始まりだ」
ケルはゆっくりとフォークを握り、震える手で肉を口に運んだ。次の瞬間――
「……う、うぅ……おいしい……こんな……おいしいなんて……」
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。ぽろぽろと、止めどなく。
他のテーブルでは、床に伏した獣人たちが鉄の皿に盛られた餌のような食事をあさっていた。まるで犬のように、這いつくばるようにして食べている。その視線が、こちらに向けられる。うらやみ、憎しみ、そしてあきらめの混ざった目。
(この国……腐ってるな……)
ハル子の心に、ふつふつと怒りがわき上がっていた。
「……約5年前ほど前の事です……ユグドラシル獣王国は、聖ルルイエ帝国に襲撃を受け、支配下に置かれたそうです」
ふと、リヴァイアが静かに口を開いた。
「そして、帝国は彼らを『労働資源』と見なし、すべての獣人族を奴隷化したのです。鉄の鎖でつなぎ、自由と尊厳を奪い去った」
ハル子は思わず拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、痛みすら正気を保つための支えになっていた。
食事を終えた三人は、夜風に吹かれながら宿を探し、石畳の通りを歩いていた。街の喧騒も次第に静まり、ランタンの光がぽつぽつと並ぶ道を照らしていた。
ようやく見つけた宿屋のカウンターで部屋を頼むと、店主はにこやかにキーを差し出した。
「二階の奥の部屋だよ。お代は前払いで頼むよ」
ハル子が金貨を渡し、三人で階段を上ろうとした、その時だった。
「……待ちな。獣人はそこの小屋だよ」
店主が指さしたのは、向かいにある小さな馬小屋だった。壁は朽ちかけ、屋根には穴すら空いている。
ケルは一歩引き下がり、消え入りそうな声で言った。
「あの……私は……あっちでも、大丈夫ですから……」
だが――チャリン。
再び、ハル子の手から金貨が三枚、カウンターに投げられた。音が宿の静寂を破るように響き渡る。
「……特別だよ。あんたたちは、特別だからな」
店主は金貨を握りしめ、足早に奥へと引っ込んでいった。
ケルは戸惑いの表情のまま立ち尽くしていたが、リヴァイアがそっと彼女の頭を撫でながら言った。
「そういうわけにはいかないよ。君は、私たちの大事な仲間なんだから」
ケルは目を見開き、そしてうつむいた。口元には、微かに微笑みが浮かんでいた。
ハル子は、静かに拳を握り直した。
(この国……絶対に、許さない)
胸の奥に燃え上がった炎は、怒りというよりも――決意だった。




