Chapter19【トスカーナ大公国】
灼熱の太陽が容赦なく照りつける中、魔王一行はリヴァイアの眷属――走竜ラプトルに騎乗し、広大な砂漠を突っ切って都市アレッサンドリアへと向かっていた。
ゆく右手には、陽炎の彼方に聳え立つ巨大なピラミッドが姿を現していた。黄金色の砂丘の中に忽然と現れるその異様な構造物は、まるで時を越えた異文明の証のようでもあった。
――砂漠を駆け抜ける疾走感。
ハル子は、ラプトルの背で風を切りながら思わず目を細めた。
(最高に気持ちいい……!)
その時、不意に隣を走るラプトルから、アレッサンドロ伯爵が穏やかな声で話しかけてきた。
「この砂漠も……私がかつて住んでいた“地球”のものによく似ています」
乾いた風が、二人の乗るラプトルの鱗をなでるように吹き抜けていく。太陽は傾き始め、空に広がる薄紅色のグラデーションが、どこまでも続く砂の大地をゆっくりと染めていた。
ハル子はちらりと横目で伯爵を見やった。彼の表情には、懐かしさと、どこか遠い記憶を手繰り寄せるような、淡い哀愁が浮かんでいた。
「この辺りに点在する遺跡からは、人型のロボットやオリハルコンの断片といった、この『惑星』ではまだ到底到達していないはずの技術が見つかっているのです。……それ自体、ずっと不思議に思っていました」
「惑星……?」とハル子は、伯爵の言葉に引っかかりを感じて繰り返す。
伯爵は頷いて続けた。
「ええ。私はこの世界は単なる“異世界”ではなく、どこかの『惑星』なのではないかと考えているんです。そして、この世界……どこの国でも“グリーゼ”と呼んでいる。天体の名前なのか、国際的な名称なのかはわかりませんけどね」
「グリーゼ……」ハル子はその響きを頭の中で転がした。
「漁師をしていた頃、世界を渡る船乗りたちから様々な話を聞きました。この世界が“丸い”ということも……まるで、私がいた地球のようにね」
伯爵の瞳は遠く、過去を見つめるように揺れていた。
「ほう……惑星……」ハル子は呟きながらも、
(いや、結局どっちでも異世界って意味では変わらないし)
と内心で肩をすくめた。
やがて、アレッサンドリアの城郭が視界に現れた。高く堅牢な城壁が砂漠の中に聳え、重厚な門を固める衛兵たちの姿が見える。そこには影偵軍の兵士たちが警戒にあたっており、外敵に備えて緊張感を漂わせていた。
門前まで来ると、アレッサンドロ伯爵の部下たちが一斉に姿を現し、整列して彼を出迎えた。
「おかえりなさいませ、アレッサンドロ伯爵!」
真っ先にヨハネスが一礼し、敬意を示す。
「出迎え、ご苦労。何か変わったことはなかったかね?」
伯爵の問いに、ヨハネスは険しい顔でうなずいた。
「それが……トスカーナ大公国が、帝国軍によって攻められているとの報告が入っております。さらに、船便による商船の往来も完全に止まっているようでして……」
「なんだと……」リヴァイアが低く唸るように言った。
「はい。実際に現地を見て戻った者が、小型の高速船で急ぎアレッサンドリアへ帰還いたしました。彼の証言からも、状況は確実かと……」
ヨハネスは緊張した面持ちで、ハンカチを取り出し額の汗を拭った。
「それは一大事ですね……」ハル子はすぐに判断し、アレッサンドロに向き直る。
「伯爵、至急トスカーナへ向かうための船を手配してもらえるか?」
「かしこまりました!即座に出航の準備を進めさせます!」
伯爵は毅然と答え、その場で部下たちに次々と的確な指示を飛ばしていった。
灼熱の太陽の下、静かだった砂漠の空気が緊張に包まれていく。新たな戦いの気配が、彼らの足元に迫っていた。
一時間後――。
魔王ハル子とリヴァイアは、アレッサンドリアの港へと足を運んでいた。夜風に海の香りが混じり、波の音が静かに響いている。
「魔王様、準備が整いました……さあ、こちらへ」
アレッサンドロ伯爵が中型の帆船を指し示し、案内する。
「うむ、感謝する」
ハル子はそのまま乗船した。
「中には、大鍋にカレーを用意しております。万が一、トスカーナでけが人を見かけた際には、彼らに振る舞ってやってください」
そう言って伯爵は、胸に手を当て、深く頭を垂れた。
「どうかご武運を……」
船が出航し、帆を大きく張って滑るように海を進む。しぶきを上げながら、風に乗って速度を上げていく。
「今日は風が良い。このままいけば、すぐにでもトスカーナに到着できますぞ」
船長らしき男が自信たっぷりに言った。
数時間後――。
やがて、海岸沿いにそびえ立つ巨大な城壁が見えてきた。遠目にも、その規模は尋常ではない。高台から俯瞰すれば、まるで中国の神話に登場する都のように、瓦屋根の建物が美しく並んでいるのが見えた。
そして――上空から飛竜バハムートが降下してきた。
「魔王様、参りましょう」
リヴァイアが手を差し伸べ、二人は同時にバハムートへと飛び乗る。
次の瞬間、空気が爆ぜるように一変する。バハムートが銀の翼を大きく広げ、甲板を突き抜けるように大空へと舞い上がった。大気を裂く竜翼の鼓動とともに、風が唸り、雲が引き裂かれる。
眼下には、地獄のような光景が広がっていた。
北は切り立った山脈、南は深く荒ぶる海。天然の要塞として名高いトスカーナの城塞都市が、今まさに炎と死の中にあった。城をぐるりと囲む帝国の大軍、およそ十万。黒い旗が風にたなびき、無数の槍と剣が陽光を弾く。
火矢が空を舞い、魔法の閃光が爆ぜる。轟音と絶叫が混ざり、まるで大地そのものが悲鳴を上げているかのようだった。いたるところから黒煙が立ちのぼり、焦げた鉄と血の匂いが空気を満たしている。
その戦場に、ひとつの影が舞い降りる。
バハムートの翼の隙間から、黒い風がひとすじ走った。それは魔王ハル子だった。黒のマントを靡かせ、漆黒の翼を広げて宙へと踏み出す。彼女はそのまま、ふわりと風に乗るようにして前線の空を滑空し、やがて最前線の防壁の上に静かに舞い降りた。
その瞬間、戦場が凍りついた。
「なんだ……」
「これは……」
トスカーナの兵士たちがざわめく。だが、そのざわめきは長くは続かない。魔王ハル子の身を包む魔力は、見る者すべての理性を麻痺させるような、圧倒的な気配を放っていた。まるで時間そのものが彼女の周囲だけ沈黙し、重力を持って沈み込んだかのようだった。
言葉を失い、剣を握る手も、弓を引く指も止まる。兵士たちはただ、眼前に立つ存在を畏怖と共に見上げていた。まるで、悪魔を見たかのように。
そして魔王ハル子は――
静かに目を閉じ、重く沈むような魔王の気配をその身に宿す。黒羽がゆらりと揺れ、空気が震える。唇が、低く呪文を紡ぎはじめた。
「――フェーバー」
その言葉が、まるで天地の律を覆すかのように響いた。ハル子の唇から紡がれた呪文は、空気を震わせ、空そのものに亀裂を生じさせるかのような異様な気配を放つ。
次の瞬間、彼女の頭上、濁った空に巨大な幻影が現れた。
それは、まさしく恐怖そのものだった。
漆黒の王冠を戴き、無数の角を持つ獣のような顔。燃えさかる双眸に、裂けたような口から覗く牙。腕のごとく伸びた影が空を引き裂き、全身からは黒い瘴気が滲み出ている。まるで地獄の王が現世へとその身を現したかのような――魔王の象徴。
幻影は天空を覆い尽くすほどの大きさで、まるで神話に記された“災厄の影”そのものであった。
そして、幻影が口を開く。
「――我は、魔王なり!!!」
その声は、もはや声とは呼べなかった。雷鳴よりも重く、大地を貫くような波動が辺りを襲い、兵たちの耳をつんざき、心の奥底を鷲掴みにする。空が揺れ、風が止み、戦場全体が硬直する。
帝国兵たちの顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。
「……あ、あれは……ま、魔王……!」
「わが帝国軍二十万の兵を、一瞬で屠ったといわれる……あの…魔王か…」
恐怖は連鎖する。誰かの呻きが悲鳴へと変わり、それが次の者の叫びへと移り変わる。怯えた目が揺れ、足がもつれ、盾を捨て、槍を放り出す。
「に、逃げろ……!」
「退却だああああああああああ!!」
ひとり、またひとり。次々に兵が後退し始め、やがてそれは狂乱の奔流となって戦場を駆け抜ける。指揮も秩序ももはや存在しない。武装したはずの兵士たちが、獣のように喚きながら逃げ惑うさまは、まるで蟻の巣に火を放ったかのようだった。
そこへ――空から、再び影が差す。
リヴァイアの駆る飛竜が大きく旋回し、鋭く咆哮を上げると、その口から炎の奔流を吐き出した。焼けつくような熱風が戦場を舐め、退却する兵たちの背後をなぎ払うように焦がす。そのたびに悲鳴と混乱は倍加し、帝国軍の崩壊は決定的なものとなった。
そしてその中心に立つのは、漆黒の羽をたなびかせた魔王ハル子。
彼女の周囲だけが静まり返っていた。狂騒をよそに、ただ一点、そこだけがまるで別世界のように――禍々しくも荘厳な、魔の王が立つ聖域のように――沈黙していた。
眼下では、もう戦う意志を持つ者は、ただの一人もいなかった。
それを見たトスカーナ兵が叫ぶ。
「帝国軍が退却したぞ! やったぞ!!」
トスカーナ兵たちが抱き合い、歓喜の声を上げる。
「魔王様ばんざい!! 魔王様ばんざい!!」
誰からともなく上がった歓声は、やがて城内を揺るがすほどの大合唱となった。
その中、城壁で堂々と仁王立ちする魔王ハル子のもとへ、一人の男が息を切らして駆け寄ってきた。
「魔王様……ありがとうございます……我ら、まさに九死に一生を得ました」
男は深く頭を下げた。
「私はこのトスカーナ大公国軍の総司令官、シン・グンバオと申します。此度の援軍、心より感謝いたします」
「うむ、間一髪であったな」
ハル子は威厳を保ちつつも、柔らかな眼差しを向けた。
「はい……あと一時間遅ければ、この城は陥落していたでしょう。帝国に騙されたのです」
シンは顔をゆがめ、拳を握る。
「どうか、我が司令部へ。大公もお待ちしております」
ハル子はうなずき、シンに続いて歩き出した。
城内の中央にある石畳の広場に、飛竜バハムートが舞い降りた。重々しい羽ばたきと共に、風圧が辺りの砂塵を巻き上げる。そこにはすでにリヴァイアが待っており、飛竜は威厳をもって顔を寄せ合った。
ハル子たちは広場の正面にそびえる荘厳な建物へと向かう。広大な階段を昇っていくと、中は混乱の只中にあった。高い天井には灯りが淡く照らし、広間には数え切れぬほどの負傷兵が運び込まれている。あちこちから呻き声が聞こえ、看護に奔走する人々の怒号と慌ただしい足音がこだまする。
その中で、立派な椅子に腰掛けていた一人の初老の男が目に留まった。銀髪をオールバックに整え、英国貴族風の風格を備えた人物――口元には見事な髭を蓄えている。その男はハル子の姿を認めると、ゆっくりと立ち上がり、震える足取りで近づいてきた。
「……あ、ありがとうございます。魔王様……お久しゅうございます」
その言葉に、ハル子の脳裏に疑念がよぎる。
(ん? こいつ、転生前の私に会ったことがある人物か?……しまった、アンドラスを同行させておくべきだったな)
「……ああ、久しいな。トスカーナ大公よ…」と、あたかも旧知の間柄であるかのように調子を合わせた。
「で、なにがあった?」と単刀直入に尋ねると、男は頭を下げた。
「総司令官シン! 魔王様に事の経緯をご説明なさい」
呼ばれたシンと呼ばれる壮年の男が前へ出て、深く一礼した。
「はい。こたびの帝国による侵攻について、順を追ってご報告いたします――」
シンの声は低く、しかしはっきりとしていた。
「三週間ほど前、帝国より使者が来訪しました。皇帝エルシャダイ陛下の名のもと、帝国金貨三千枚にて我が国の秘宝『レペリオの水晶』を買い取りたいとの申し出でした。しかし……それは我が国の象徴とも言うべき宝。簡単に渡せるものではありません。
無下に断れば戦の口実となると判断し、我々は丁重に断りの使節を送りました。我が軍の軍師でもある道士のジャン・ズーヤーと、護衛に将軍のナージャを同行させました……しかし、その帰路。ケーニッツの街を越えたあたりで彼らは帝国兵に襲撃に合い、道士ジャンは誘拐され、将軍ナージャは重傷を負いました。
殺されかけたところを、フードを被った仮面の男に救われ、彼の手でこの城へと運び込まれたのです。その報を受けて軍議を開こうとした矢先……帝国兵十万が城を包囲。こちらは準備もままならぬ状況で、戦いに突入したのです…」
一息に語り終えたシンの顔は、悔しさに歪んでいた。
「ふむ……そんなことが。……その、フードの仮面男とは?」とハル子が尋ねると、シンが戸惑いながら答える。
「ええ……魔王様の配下だと名乗っておりました」
(……また、あのフードの仮面男か。あちこちで勝手に暗躍してるな……)
ハル子は一瞬焦りつつも、冷静に言葉を紡いだ。
「……ああ。たまたま帝国の動向を探らせていた者だ。まだ報告を受けていなかったので、その件は初耳だった」
その時、リヴァイアが口を開いた。
「ナージャ将軍は無事なのか?」
問いかけにシンは視線を伏せ、声を絞り出す。
「重傷です……両足の腱は切断され、内臓も数か所損傷……意識はあるものの、朦朧としています。明日までもつかどうか……」
ハル子の表情が凛と引き締まる。
「案内してもらえるか」
「はい、こちらへ」
通された部屋には、かすかな薬草の香りが漂っていた。ベッドの上には、包帯でぐるぐる巻きにされたナージャ将軍が横たわっていた。彼の周囲には、泣き崩れる部下たち、そして顔を伏せたトスカーナ大公とシンがいた。
ハル子は静かに近づき、水筒を取り出す。それをナージャの唇にあてがい、一口含ませた。すると、『薄緑色のオーラ』が彼の全身を包み込む。傷口が目に見えて塞がり、青ざめていた顔に赤みが戻っていく。
やがてナージャが目を開き、包帯をほどきながら呟いた。
「こ……これは……」
「傷は完治しておいた」と、ハル子が静かに告げた。
その瞬間、部屋にいた部下たちが歓声を上げてナージャに抱きつく。彼は驚きながらも微笑を浮かべた。トスカーナ大公とシンはハル子の前にひざまずき、両手でハル子の手を取り、涙を流した。
「ありがとう……ありがとう、魔王様……!」
ハル子は静かに頷いた。
「間もなく船が到着する。そこに積んである食材を、負傷兵たちに配るのだ」
「はっ! 直ちに!」
シンは立ち上がると、勢いよく部屋を飛び出していった。
(……いやぁ、人助けって気持ちいいよね……私が治したように思われてるけど、ナオヤ。ほんとはあなたのおかげよ)
心の中でそう呟くハル子の顔には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
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