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第2章③

 家に帰ってまずは楽譜をダウンロードしてみた。全体的に黒い、つまり音符が細かいということだ。見た瞬間に吐き気を催したが、なんとか押しとどめる。


「これ、まじで一週間?」


 ピアノの譜面台に楽譜を置き、呆然とつぶやく。


 コンクールを目指し始めた際に自宅に防音室を親が作ってくれたため、このつぶやきが外に漏れ出ることはないが。でも、今は誰かがこのつぶやきを拾って共感して欲しい気持ちでいっぱいだ。

 ちなみに防音室があるというと驚かれるが、別にこの家が豪邸というわけではない。両親の予定では子供は二人欲しかったようで、家を建てる際に子供部屋を二つにした。だが、生まれたのは俺だけ。つまりもう一つの子供部屋が余っていたのだ。母親が教育熱心すぎて、あと子供が俺一人なこともあって、身に余る設備を整えてくれただけである。


 それにしても、自分で一週間と言ったものの出来る気がしない。だが、あの場で悠長に一ヶ月欲しいと言える空気でなかったのも事実。


「やるだけやってみるしかないか」


 血みどろな清美さんの前で無様なものを披露したら、俺はそれこそ祟り殺されるかもしれない。諦め混じりのため息をつき、俺は音をさらいはじめるのだった。


 翌日、奏子さんのところへ寄り、約束は守るから一週間ここには来ないと告げた。奏子さんは驚いた様子だったが、すぐに良いよと言った。


 三日目、つたないながら最後まで弾ききる。何度もつかえて弾き直す、下手すぎる代物だ。ここから何度も反復練習し、指になじませる。そうすれば、楽譜通りに曲が弾ける。そう、楽譜通りに、自動演奏で弾くかのように。


「……それでいいのかな」


 清美さんはピアノの貴公子と呼ばれるフランチェスのファンで、彼が弾いたこの曲が忘れられなくて、もう一度聞きたいのだと。ただでさえ不思議なイメージの曲なのだ。フランチェス独自の世界観がきっとあるだろう。


 俺はフランチェスが弾いた動画を探した。それが見つかれば、それを聞かせてあげるのが一番だ。俺なんかが頑張らなくても、それが正解だ。


「あった」


 依頼された曲の動画はなかったが、来日コンサートをCDとして販売していたのでそれをすぐに購入した。明日には届く。もうこれで俺はお役御免だ。


 CDが届いたので俺はすぐに再生させた。

 フランチェスはピアノの貴公子と呼ばれるくらいだから、CDジャケットの容姿は金髪碧眼の美青年だ。現在は加齢で体型もぽっちゃりしているけれど、それでもイケおじって紹介されているテレビ番組を見たことがある。けれど、見た目だけでここまで人々が熱狂するはずはない。


 彼の演奏は爽やかな見た目にそぐわない、情熱あふれるものだった。この演奏時の年齢も関係あるのかもしれないが、どこまでも自信にあふれ、聞くものを高揚させ、問答無用で曲の不思議な世界に引き寄せ、いや巻き込んでしまう力強さがあった。これを生音で聞いた清美さんが、忘れられないと言う気持ちがよく分かる。


「そう……だよな。わかってたよ、ちくしょう」


 音は振動だ。目の前で奏でられる音と、デジタルで聞く音ではやはり違う。


 頭をガシガシとかく。俺は逃げられないのだと悟った。

 音源で満足するくらいなら、清美さんはあそこまで執着などしないだろう。生のピアノで聞きたいのだ。音楽を体感したいのだ。


 ただでさえ難しい曲なのに、さらに時間もなくて、理由をつけて投げ出したかった。だけど、きっとそれをしたら清美さんは満足などしてくれないだろう。


 俺のつまらない楽譜通りの演奏じゃなく、フランチェスの力強い演奏を目指し、ひたすら練習した。弾いてはCDを聞き、また弾き続ける。難しい部分は抜き出し、頭が麻痺するくらい同じフレーズを繰り返す。気がつくと1フレーズを一時間以上何度も弾いていたなんてことも。

 コンクール前かと言うくらい、ピアノを弾きまくった一週間が過ぎた。



***



 戦いに行くような気持ちで俺は約束の日を迎えた。大学に行く以外はすべて家でのピアノ練習に費やした一週間だった。ピアノを辞めた息子が急に取り憑かれたようにピアノを引き倒しているので、母親は戸惑った表情を浮かべていたけれど。


「ふみ君、一週間ぶりだな。何か顔色が悪いけど弾けそうか?」


 ストリートピアノの前で奏子さんが小さく手を振っている。


 顔色が悪いのは、よく眠れなかったからだ。どうあがいたって時間が足りなかったが、足りないなりに精一杯追い込んだ。これでダメなら仕方ないくらいには。


 今思えば、コンクールの前の追い込みは、あんなの追い込みなどではなかった。だってコンクールがダメでも死にはしない。だが、今回は下手をしたら命に関わる。その恐怖が俺を突き動かした。


「清美さんに喜んでもらえるよう、やれることはやったつもりです」

「ありがとう、ふみ君。ただな、まだ清美ちゃんが来てないんだ」


 奏子さんが不安そうに眉を下げている。


「も、もしかして……」


 間に合わず、清美さんは自我を無くしてしまったのだろうか。


 弾いて失敗すれば祟り殺される可能性もあるわけだし、弾かないで済むならそれの方が良いのかもしれない。でも、この一週間の自分の努力を思うとやるせない気持ちにはなる。人前で弾くのが嫌なくせに、せっかくだから清美さんに聞いて欲しかったなどと思った瞬間、奏子さんがさらっととんでもないことを言った。


「実は清美ちゃん、顔のいい男が大好きなんだが、昨日ここでおしゃべりしていたら好みの青年を見かけてさ、ふらっと憑いて行ってしまったんだ」


 がくっと、コントのように膝の力が抜けた。なんなんだ、それ。そのイケメンも可哀想に。歩いているだけで血みどろ幽霊が憑いてきてるんだから。


「時間が無いとか言ってた割には、緊張感のない人ですね」


 思わず苦言も出てしまうってものだ。


「ふみ君、それは違う。時間が無いからこそ、やっておきたいことをやらないと。時間は戻らないんだから。死んでいるならなおさらだ」


 奏子さんはたしなめるような口調だった。


 同じ幽霊でも清美さんには時間が無くて、奏子さんには永遠の時間がある。どちらがまだマシだろうか、不謹慎にもふと考えてしまった。


「あ、来た来た。もう来ないかと心配したよ」


 奏子さんが駆けていくと、手で何かをつかんだ。その途端、清美さんの姿が現れた。


「うっ……」


 思わずうめき声が出てしまう。だが、必死にそれ以上の声が漏れるのを押さえた。

 前回は俺が奏子さんに肩をつかまれたときに見えた。今は逆に奏子さんが清美さんをつかんでいる。どうやら奏子さんを通すと、霊的な干渉を俺も受けるということらしい。


 血みどろの幽霊がそこにいる。怖い。清美さんには自我があり、尊重せねばならない存在かもしれないけれど、これは根源的な恐怖だ。いつまで経っても生々しい色合いをした赤黒い血、原型をとどめていない体、匂いはしていないはずなのに血なまぐささを感じそうになる。


「ふみ君、冷や汗が……あ、緊張しているんだな」


 奏子さんが清美さんを伴って、ぐんぐん近づいてくる。


 緊張よりも恐怖です、と叫びたい。だが、下手に何か言って二人の機嫌を損ねるのだけはさけたい。よって、俺は無言でただうなずいた。


「じゃあ、清美ちゃんも来たことだし、演奏会を始めよう」




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