第2章②
「今日のふみ君、キレがない」
ずばりと奏子さんに指摘された。正直なところ、昨日英ポロを弾きまくってしまったせいで、手や腕が軽い筋肉痛を引き起こしているのだ。でも、なんとなく奏子さんにそれを知られたくなくて、俺はすっとぼける。
「気のせいじゃないですかね」
「ふーん。ま、いいや。それよりも、ふみ君にお願いがあるんだが」
「俺は奏子さんの練習に付き合う以上のことはしませんよ」
これでも譲歩してるのだ。本来ならばピアノに近づくのさえ避けていたのだから。
「そんなこといって良いのかな? 君が怖がりなのは分かっている。なぁ、祟られたくないだろ?」
奏子さんが指でつうっと頬を下からなで上げてきた。そのフェザータッチにぞぞぞと背中に悪寒が走る。
本当にやめて欲しい。定期的に幽霊感を出して脅してくるの。奏子さんに対しては、ぶっちゃけ普通に話していると幽霊だということを忘れがちだ。でも、自分が怖がりなのは事実だし、奏子さんが幽霊なのも事実。そして幽霊という存在について己が無知だと言うこともまた事実なのだ。
「き、聞くだけ聞きましょうか」
日和ったあげく、結局譲歩した提案をしてしまう。機嫌を損ねて祟られでもしたらたまったもんじゃないし。
「ふふ、ありがとう。ええと、約束だともうすぐ来るはずなんだが」
奏子さんがあたりを見渡した。それにつられて俺も周りを見るが、特に誰もいない。というか、奏子さんの知り合いってことは、もしかして……?
「お、俺、やっぱり帰ります。えっと、その、用事を思い出したので!」
ガタガタと椅子から立ち上がり、鞄を手に取ろうとする。すると、足が何かに引っかかり地面に転がってしまう。何に引っかかったのかと足下を見ると、奏子さんの靴がチラッと見えた。幽霊のくせに何て足癖が悪いんだと、心の中だけで悪態をつく。普通、幽霊って足がないものだろうに。
「ね、ふーみー君? 急にどうしたのかなぁ。私、とおっても機嫌悪くなっちゃいそうだよ」
にこやかに俺の前に立ち塞がる奏子さんは、威圧感が半端ない。背後に黒いもやが見える気すらする。
「ははは、えーと、その、用事が……あ、用事は明日だったかも」
逃げるのも恐怖、だが、これから何が起こるのかも恐怖。俺には恐怖しか残されていないようだ。どうして俺がこんな目にと涙をこらえつつも逃げられそうにない。どうせ怖いなら、祟られない方に賭けるほかないだろう。
諦めて俺は立ち上がる。
「あ、来た来た。昨夜ぶりだな、清美ちゃん」
奏子さんが笑顔で手を振り始めた。だが見つめる先には誰もいない。
その事実に悪寒が走る。俺には見えない、だけれど奏子さんには見えている相手ってことだ。見えないことを感謝すべきなのか。でも見えないものがそこに『ある』というのも、それはそれでとてつもなく怖い。
震えそうになる体をぎゅっと抱きしめる。
「ふみ君? 清美ちゃんが挨拶しているのに無視は良くないぞ」
奏子さんに肩をつかまれた途端、目の前に何かが出現した。
「は、はじめましてぇ……」
「ふぐっ……」
思わず嘔吐きそうになり、口を手で覆う。
「ちょっとふみ君。女の子を見てその反応、最低だぞ!」
奏子さんに罵られたが、そういう問題じゃない。
血まみれの皮膚ずるむけで、骨すらも見えている壮絶なものがそこにいた。どんな死に方をしたら、そんな姿になるというのだ。
「い、いいんですぅ。わ、わたしがブスなのは、分かってます、から」
血みどろの幽霊が骨の見えた手で顔を覆う。いや違う。顔の美醜などもう判断不可能だ。だけど、奏子さんの剣幕に押される形で、俺は震える声を絞り出す。
「すみま、せん、でした……」
とにかく幽霊の気に障ることは避けたい。その一心で俺は頭を下げる。
まさかこんなザ・幽霊という見た目の幽霊と出くわすとは思わなかった。そもそもホラーやスプラッタものの映画とか、絶対に見れない人間なんだぞ。小学生の時にそれ系の映画の画面を一瞬見てしまって、夜中にトイレ行けなくなっておねしょしてしまった黒歴史があるくらいだ。作り物と分かっていても怖いものは怖い。それなのに、リアルにスプラッタ幽霊とか本当勘弁して欲しい。
「素直でよろしい」
奏子さんが満足げに言うと俺の肩から手を離す。すると、血みどろ幽霊は見えなくなった。
ほっと息をつく。どうやら奏子さんが触れていなければ見えないならしい。冷静に考えてみれば、俺にはそもそも霊感などないのだ。何故か例外で奏子さんが見えているだけ。それはそれで謎ではあるが、これで他の幽霊を俺一人の時に見る可能性は低くなった。これからは安心して風呂に入れそうだ。
「彼女は清美ちゃんといって、この前友達になったんだ。ほら清美ちゃんは見ての通り怪我だらけだろ? 可哀想に、大きな事故に巻き込まれてしまったんだってさ」
「え、ええ、そうなんですね」
とりあえず相づちを打つが、それと俺とが何の関係があるのだろうか。あと、奏子さんの身振りが大きくて、手が触れそうになって怖い。
「清美ちゃんは、ピアノの貴公子という二つ名を持つフランチェスが大好きなんだ。彼の来日コンサートで聞いたドビュッシーの『喜びの島』が頭から離れないみたいで。もう一度聞きたいんだそうだ」
「それって、つまり、俺に弾けってことです?」
「そういうこと!」
「いや、俺なんかより奏子さんが弾いた方が良いじゃないですか」
無理に決まっている。あんな幻惑的な曲、俺が一番苦手とするジャンルだ。それに人前でピアノを弾くこと自体が怖いのだ。今までは奏子さん一人だけだから弾けていただけで、根本が変わったわけではない。
「私、その曲を弾いたことがない」
「あ……なるほど。いや、でもですね、俺が弾かなきゃいけない道理はないですよね。その曲、そう簡単に弾けるレベルの曲じゃないですよ」
「えー、冷たいこというんだな、ふみ君。ちょっとくらい死者に対して労りの心を持っても良いと思うんだが。そんな優しくないふみ君には、なんかしちゃおうかなぁ」
奏子さんが両手を胸元まであげて、『恨めしや……』のポーズを取ってくるではないか。
え、なに、もしかして怒ってる? 俺、何されちゃうの? これは危険なんじゃない?
心臓がばくばくと脈をうつ。今まではたまたま祟られなかったからと言って、これからも祟られないとは限らない。しかも奏子さんだけならまだ対話も出来そうだが、清美さんとやらは見た目だけで判断すればもはや怨霊にしか思えなかった。見ただけで祟られそうだ。失礼なことを言っているとは思うけれど、それくらい一瞬見えた姿は恐ろしかったし。
「わ、わかりましたから……お願いですから何もしないで!」
俺は両手を突き出して、口だけでなくジェスチャーでもなんかするのは止まってくれと訴える。
すると頭上からふふっと笑うような音が聞こえた。
「弾いてくれるってさ、清美ちゃん。うん、そう。良かったな」
頭を上げると、奏子さんは誰もいない空間としゃべっていた。おそらくあそこに血みどろ幽霊の清美さんがいるのだろう。
「ね、ふみ君。どれくらいで弾ける? さすがに今日明日じゃ無理だよな」
「無理に決まってます!」
「だろうな。じゃあ、どれくらい? 清美ちゃんな、あまり時間がないらしいんだ」
「どういうことです?」
「最近体の痛みのせいで意識が飛びそうになるんだって。だから恐らくなんだが、意識を手放したそのときに……自我をなくした怨霊になってしまう。清美ちゃんとして存在していられるうちに、思い出の曲をもう一度聞かせてあげたいんだ」
つまり、清美さんは怨霊になる一歩手前のめちゃくちゃ危険な幽霊ってことだ。なにそれ怖すぎるんですけど!
「あああぁぁもう、分かりました。一週間ください。死ぬ気で仕上げてきますから」
ただでさえブランクがあるのに、人前で披露するレベルにもっていくのだ。本当であれば一ヶ月くらい欲しい。でも、そんな悠長なことはいっていられなさそうだ。怨霊になってしまっては後の祭りだし。
「約束だぞ。じゃあ来週の同じ時間に演奏会をしよう」
奏子さんは嬉しそうに、手を打ったのだった。