第2章①
「嘘だろ……」
俺は思わずそう言っていた。
繊細な音色、かと思いきやメインテーマで華やかに力強く広がっていく音色、目の前で見事な英雄ポロネーズが奏でられている。弾いているのは奏子さんだ。いつも思い出の洋楽を弾いているので、他の曲は弾けるのか尋ねたらいきなり弾きだしたのだ。まるで羽が生えたように、軽やかにクラシックの名曲が飛んで空気に溶けていくのが見えるみたいだった。
俺はここのところ、大学帰りに奏子さんのところに寄って上達しないピアノに付き合い続けていた。奏子さんはピアノの技術は元に戻ってしまうけれど、俺と話したことはちゃんと覚えているから、きっと練習を続ければこの壁を乗り越えられるんじゃ無いか。そう淡い希望を持ち、時間が無いときは一回だけ正解を弾き、時間のあるときは少し会話をしたりするという日々を十日間ほど過ごしている。
正直、奏子さんのことを俺はあなどっていた。思い出の洋楽をひたすら練習している姿しか見ていなかったから。もちろん、基本的な技術力は高いと感じていた。けれど、ここまでとは思っていなかったのだ。俺が現役だった頃でも、同じコンクールにもし出たとしたら到底勝てないだろう。
「どう?」
得意げな笑みを浮かべて奏子さんは俺を見た。
「……もっ…………いえ、すごいです」
思わず出そうになった『もったいない、生きていればすごいピアニストになったのに』という言葉を無理やり飲み込んだ。奏子さんが一番感じているだろうことを、俺なんかがわざわざ指摘する必要はないはずだ。
「へへ、もっと褒めて良いぞ。この曲はコンクールで弾くために練習してたからな。でも、ふみ君もコンクールに参加してたんだろう?」
確かにコンクール勢だった。けれど、それを奏子さんに話したことはあっただろうか。いや、ないはずだ。
「ど、どうして、そう思うんですか?」
「ふみ君はピアノに対して生真面目だ。気楽に趣味で弾いている雰囲気はしなかった」
「別に、俺は自分が生真面目だとは思ってませんけど」
「そう思ってるのは自分だけってね。だいたい曲が間違っているからって、そこまで気になるものか? 弾いてみてと頼んだときも、戦地へ行くみたいな表情を浮かべたりする? 普通しないからな」
奏子さんは思い出し笑いをしながら、俺に肩パンをくりだしてきた。ピアノに触れているから当然リアルに当たる。
「地味に痛いんで、それやめてください」
「やだ。なぁ、ふみ君の英ポロ聞かせてくれよ」
「それこそ嫌ですよ。今はイレギュラーで奏子さんの練習に付き合ってるだけで、俺は基本的にピアノはやめたんです」
奏子さんにこれ以上叩かれないように両手で肩を防御する。
「なんだそれ。私にだけ英ポロ弾かせてずるくないか? ふみ君も英ポロ弾いてくれよ。ね、ね、お願いだ。お願いを聞いてくれないと……」
「聞かないと、何なんです?」
「私、不満が溜まって祟っちゃうかも」
奏子さんが笑みを浮かべた。けれど、ぞくりと背中に寒気が走る。これはもしや、奏子さんが何か発してるのか? 急に奏子さんが幽霊なのだと再認識し、胃がきゅっと縮んだ気がした。
「わ、わかりました。弾かせていただきます!」
俺はびびりながら、勢いよく頭を下げる。
「やった。はい、じゃあ交代だ」
いそいそと奏子さんが椅子から離れた。入れ替わるように俺はその椅子に座る。さっきまで奏子さんが座っていた椅子は何のぬくもりもなかった。
英雄ポロネーズと呼ばれるショパンの曲、メインテーマは誰しも一度は聞いたことがあると思う。コンクールで弾く人も多く、かく言う俺も練習したことがある。
だからといって、さっきの奏子さんの英ポロを聞いた後で弾いたら、見劣りならぬ聞き劣りしてしまうのは必須だ。聞いているのが奏子さんだけとはいえ、本音を言えば弾きたくなどない。ピアノの先生に「文晶くんの英ポロは、淡々としてて面白みがない」と酷評されたから。
だから、言い訳がましく予防線を張ってしまう。
「ここしばらく弾いてないんで、下手ですよ」
「そういうのはいいから。ほら、弾いて弾いて」
俺の予防線を見抜いたのか天然なのか、奏子さんはあっけらかんと急かしてくる。
仕方がない。こうなった奏子さんは絶対に引かないし、そもそも機嫌を損ねて祟られたくないし。どうせ寂れたストリートピアノだ。立ち止まって聞いてくような人も滅多にいない。まぁ奏子さんにがっかりされるのは、ほんの少し嬉しくないけれど。
出だしは様子をうかがうようなじりじりとした旋律、そこからの大テーマで華やかにピアノを鳴り響かせる。この曲はそういう風に弾くものだ。だから、俺はそうとしか弾けない。楽譜の示した通り、示されていないところはただ音符を綺麗にならすのみ。そして、ボリュームの大小はあれども、なんとも淡々とした英雄ポロネーズが弾き流されていく。
弾き切り、ふうっと息をつく。
「ふみ君らしい英ポロだったよ。どうしてピアノやめたんだい?」
奏子さんが、初めて核心に触れる質問をしてきた。
「……限界だったんですよ」
「何が? まだまだ上手くなれるし、ふみ君ならまだいくらでも挑戦出来るだろう」
「技術的なものもそうですけど、心が、限界だったんです。何のために弾いてるのか分からなくなっちゃって」
俺は苦笑いでごまかし、もう時間だと言って奏子さんの前から逃げた。
奏子さんの前では、俺は何を言ってもただの逃亡者でしかない。奏子さんがどれだけ望んでも手に入らないものを俺はすべて持っている。それが苦しくて仕方がなかった。
***
弾く意味を迷いだしたら、ステージに立つのが怖くなった。無数の値踏みする人々の目に射貫かれて、体が動かなくなってしまったのだ。目指す先も分からない半端な俺を見ぬかれてしまうような恐怖。
楽譜通りにそこそこ弾けて優等生な演奏だけど、逆に言えば個性がない、面白みがないと先生に言い続けられていた。自分でもこんな音楽を奏でたいというイメージを持てなかった。目指したいものが想像できない俺は、もう進む先が見えなくて、どうしたら良いのかも分からなくて、ただ親や先生に言われるままに惰性でピアノを弾いていた。
そして、あの瞬間が来た。コンクールで出番を舞台袖で待っていた。そこで聞こえてきた名前も知らぬ奏者のピアノに、心が打ち砕かれたのだ。コンクールでは酷評されるだろう演奏だった。曲の解釈が独自すぎて、きっと審査員には嫌われるだろう。けれど、ただ楽譜をトレースすることしか出来ない俺にとっては、喉から手が出るくらい羨ましい、素晴らしい演奏だった。
その衝撃を引きずったまま俺はステージに立つ。だが、もう指が動かなかった。あんな演奏の後に、俺はどんな風に弾けばいいのか分からなかったから。そして、弾き出さない俺に会場がざわつき始める。余計に混乱して俺はもっと頭の中が真っ白になってしまった。それ以来、人前で弾くのが怖くなった。俺はピアノから逃げたのだ。
家に帰ると、練習部屋のドアを開けた。部屋の中には母が実家から持ってきたピアノがど真ん中に鎮座している。壁には俺がかつて弾いた楽譜やそれに関する書籍などが詰められた本棚が壁に沿って置かれている。
俺はピアノのカバーを取った。久しぶりすぎて埃が部屋中に舞う。
頭の中には奏子さんが弾いた英ポロがずっと流れていた。あんな英ポロが弾けたなら、俺は今もピアノを続けていただろう。
蓋を開けて一音鳴らす。綺麗な音だ。どうやら俺が弾かなくなっても、親が調律を頼んでくれているらしい。
俺は椅子に座り英ポロを弾いた。俺のつまらない英ポロじゃなく、奏子さんの華やかで力強い英ポロだ。コピーするみたいにひたすら頭の中から引っ張り出して弾き続けていた。親が仕事から帰ってきて止められるまで、ずっと。
その日は、いつぶりかに感じる腕のだるさを抱えて眠った。