第1章④
どうして彼女の過去が見えたのか確かなことは分からない。けれど、音楽は記憶を呼び起こす。思い出の曲を奏でている俺は、彼女の記憶に共鳴しているのかもしれない。
静かに最後の和音の残響を聞く。
「あの、どうでしたか?」
弾き終わった俺は、彼女の反応を怖々と見た。すると、彼女はぷるぷると震えだしたかと思うと、両腕で胸元を隠すように体を抱きしめた。
「こ、この、変態め」
何故か顔を赤らめて怒っている。
「は、変態?」
突然の罵倒に頭が追いつかない。
「見ただろ、破廉恥なやつめ! 勝手に見るなんて信じられない」
見た……もしかして映像のことだろうか。いやでも、あれのどこが破廉恥なんだ。
「何だ、そのあきれたような顔は。私は君に個人的な部分を勝手に見られたんだ。裸を見られたのと同義だ!」
怒りにまかせるように彼女が拳をくりだしてきた。思わずよけてしまうけれど。
「どうせすり抜けますよ」
「なら避けるな」
そう言って彼女は懲りずに拳を再び繰り出してきた。彼女の怒りが収まるならいいかとすり抜ける拳を避けずにまっていると、――ゴガッ
鈍い音とともに俺の頬に痛みが走った。
「痛っ、え、痛い、めちゃくちゃ痛い、どうして、なんで」
「当たった! 何でだ? おい、もう一回殴らせろ」
また彼女が拳を振り上げて殴ろうとしてくるので、ボクサーのように両肘をあげて顔をガードした。容赦なく腕に拳が当たる。女性の力なので怪我をするほどじゃないが、でも普通に痛い。絶対に青痣が出来ると思う。幽霊に殴られて青痣ってなんなんだ、とは思うけれど。
ひとしきり俺を殴って気が済んだらしい彼女は、腕を組み考え込んでいた。
「どうして今度は殴れたんだと思う?」
「え……まさか、祟ってるとかじゃ」
彼女にとってみたら俺は痴漢行為をしたらしいのだ。怒って祟ってきたとしてもおかしくない。いや、逆にそう考えた方が辻褄は合う。ざぁっと血の気が失せていく。
「はぁ、君な、すぐに悪い方に考えるの良くないぞ。ほらちょっと立って。椅子から離れて、ピアノにも触らないで。はい、気をつけ!」
彼女に押し出されるように椅子から立ち退き、思わず号令にしたがってしまう。学校教育の刷り込みって怖い。
ぴっちりと気をつけをした俺の目の前に、笑顔の彼女がたつ。そして、ゆっくりと手を伸ばしてきた。もうすぐで頬に手が触れると思った瞬間、するっと手はすり抜けてしまった。
「なんで?」
呆然と通過していった手のひらを見つめる。
「じゃあもう一回だ」
今度は鍵盤に触れながら、俺に手を伸ばしてきた。
まさか、と思いつつ手の動きから目が離せない。あと三十センチ、あと二十センチ、十センチ――――そっと俺の頬を彼女の手が撫でていった。
「さっきは君がピアノの椅子に座っていたし、初めて触れた時は私がペダルを踏んでいた」
「つ、つまり、すり抜けないのはピアノに俺かあなたが触れているとき、ってことですか?」
「そういうことみたいだな。へぇ、面白い」
条件は分かったが、どうして俺にだけなのだという疑問は残る。だけど、これ以上彼女の興味を引いたらダメだということは、心底分かる。
「じゃあ、その、すっきりしたということで、俺は帰りま――――」
「待て。まだ肝心の話が終わってない。君、私に痴漢行為をしたんだぞ?」
「してませんって!」
「したも同然だ。この落とし前、どうつけてくれるのかな」
思い切り右手で胸ぐらを捕まれた。彼女の左手は優しく鍵盤をなでているというのに。
「ぐ、ぐるじぃでず」
「じゃあ明日も来てくれるな?」
はいと言いたくなくて、ぎゅっと目を瞑って顔をそらした。
「ほら、来るんだよな?」
喉がさらに締まるし、言葉の威圧も増した。これ以上の我慢は本気で死ぬかも……。
仕方なくコクコクと頭を縦に揺らす。すると、彼女は満足げに笑みを浮かべて手を離した。
「よろしい。じゃあ改めて、君の名前は?」
「……月城文晶です」
「ふみあき、じゃあふみ君だな。私は奏子だ。名字は忘れてしまった」
奏子と名乗った彼女は、気にしない様子で言った。
そんな訳はないだろう。名字を忘れて本当に平気なわけがない。
彼女はいろんなものを失っているのだ。命を失い、努力の成果も失い、名前さえも失っている。それでも笑っていた。
***
湯船につかりながら、俺は明日からのことを考えていた。奏子さんに明日も行くと約束してしまったから。
「俺、どうなっちゃうんだろ」
浴室に情けない俺の声が響く。
今まで幽霊は見たことなかったし、怪異現象にも遭遇したこともなかった。霊感なんてまったく無いはずだ。それなのに、ピアノの幽霊と明日の約束までしてるなんて、おかしな話だ。
明日だけで終わればいいけれど、奏子さんの気分次第で毎日のように行かなくてはならないかもしれない。それって考えたくはないけれど、やっぱり取り憑かれてるってことじゃないだろうか。奏子さんは取り憑いてないって言っていたけれど、奏子さんの適当そうな性格からすると、気がついてないだけで取り憑いてる可能性は捨てきれない。
「とりあえず、シャンプーハットを買ってこよう」
今日もシャンプーが目に染みて痛い。
***
無視するという選択肢もあった。けれど、もし無視して祟られたらと思うと怖くて、俺は翌日も素直にピアノの前に来ていた。そして正直に言おう、俺は泣きそうになっている。
奏子さんがまた曲を練習していた。やっぱり、間違えるところは直っていなかった。その事実がどうしようもなく悲しくて、虚しくて、悔しかった。
俺が泣きそうになったところで何も変わらないのは分かってる。でも、どうにかしてあげられないだろうかと、思ってしまった。
「だから、俺はここに呼ばれているのかな」
すとんと、言葉が体に落ちてきた。
奏子さんは上手くなりたいのだ。それがきっとこの世の未練だ。奏子さんの未練がなくなれば、満足して成仏出来るかもしれない。永遠にピアノに縛られて、ループし続けなくてもよくなるのだ。そして、俺は奏子さんに縛られなくてよくなる、平穏な生活が戻ってくる。
見えた道筋にやる気が少し出てきた。ピアノと関わりたくなかったのは事実だ。もうピアノとは無縁の生活をするはずだった。けれど、今はそんなこと言ってても仕方が無い。奏子さんのためにも、自分のためにも、ピアノに関わっていこうと決めた。
「奏子さん、また間違ってますよ」
俺は一歩を踏み出したのだった。