第1章③
「ご、ごめんなさい。お願いですから、やめてください」
震える声で懇願する。
「何をだ」
「俺の足……力入らない」
「は? 君って……もしかして相当怖がりなのか? ふはっ、笑っちゃいけないけど、笑っちゃうな」
彼女は再び腹を抱えて笑い出した。途端に重苦しい空気は霧散する。
どういうことなんだ。意味が分からなさすぎるが、取り急ぎ彼女が笑い始めた意味を考えてみる。可能性として一番考えられること、それは――――
「まさか、俺が勝手にびびってただけ?」
「ふふっ、そうだよ。私はなにもしてない」
嘘だろ。穴があったら入りたいとはこのことだ。
「ね、もう一回、触ってもいいか?」
彼女が俺の目の前まで歩いてきて、首を傾げている。何度も言うが、幽霊じゃなければとても可愛らしい仕草だと思えるのだろう。でも俺はただただ、穏便にこの場を去りたかった。
「触るだけですよね?」
念押しで確認する。
「もちろん」
「分かりました。その代わり、済んだら俺はすぐに帰りますからね」
「ありがとう!」
満面の笑みで両手を広げる彼女。触るだけといったくせに勢いよく抱きつこうとしてくるのが見えて、思わず目をつむって身構える。
だけど、いつまでたっても抱きついてこない。あれ、おかしいなと思いつつ、そっと目をあける。
彼女は肩を落として、すでにピアノの椅子の前まで戻っていた。
「あのー、どうしたんです?」
俺の声に顔を上げるも、すぐに視線を落とした。
「駄目だった。すり抜けてしまった」
泣いてしまいそうな声だ。寂しさに満ちていて、可哀想でなんだか胸がぎゅっと苦しくなる。前に進むことが出来ない彼女にとって、出来るかもしれないという期待は、俺なんかが思うよりも大きなことだったのだろう。
幽霊が怖いくせに、早くここから去りたいくせに、俺は何故か彼女の前に戻っていた。こんなことをすれば、それこそ興味を持たれて取り憑かれてしまうかもしれない。頭の中で危険信号が点滅している。だけど、泣いて欲しくないと思ってしまった。
「特別に、リクエスト受け付けますよ」
本当はピアノを弾きたくない。だけど、ここに縛られていてピアノを毎日弾いている彼女に対して出来ることは何か。彼女の聞きたい曲を弾いてあげる、これしか思いつかなかった。
彼女は無言で俺を見てきた。不安げに揺れる瞳の光、悲しみや寂しさや羨望や妬みと言った感情が渦巻いてる気がする。だけど、瞬きをして再び現れた瞳は、明るい光を宿していた。
「じゃあ、昨日の曲弾いてくれ! 今日こそ絶対に覚えて忘れない」
幽霊のくせに、死んでいるくせに、俺なんかよりも生き生きとした瞳だ。その瞳の光に引きずられるように、俺はピアノの椅子に座った。
どうして彼女は諦めないのだろう。俺は、まだ生きている俺は、もう諦めてしまったのに。死んで幽霊になり、練習もリセットされてしまうのに、それでも上手くなりたいってどうして思えるのだろうか。
哀れだなと思う。可哀そうだなと思う。でも、そう思う自分こそ傲慢で虚しい奴だと思った。だからこそ、この一曲だけは心を込めて弾こう。
そっと鍵盤に指を置く。アップライトピアノの上前板に自分が映った。そのときだ。少しぼんやりとした自分が、不意に苦しそうに眉を寄せた。
あの時のことがフラッシュバックしてくる。小指の痙攣が治らなくて、混乱で息が出来なくなって、しまいには全部の指が…………動かせなくて。全然弾き始めない俺の様子に、観衆の戸惑ったざわめきだけがどんどん大きくなって。追い詰められた俺は無様に逃げ出した。
だけど昨日、彼女にこわれるままに弾いた。強引さに流されただけかもしれないけれど、確かに弾いたのだ。
大きく息を吐き、俺はピアノに映る自分を見つめた。今は緊張気味な俺が映っているだけだった。震える指をぎゅっと握り、ゆっくりと広げる。大丈夫。彼女の前ならきっと弾ける。
曲のイメージを体中に広げて、俺は弾き始めた。ピアノから懐かしく、切ないメロディーが響く。彼女はどんな人生を送ってきたのだろうか。ふと、そんなことが頭をよぎった。すると、途端に頭の中に見知らぬ景色が広がり、曲と共鳴するかのように流れ出した。まるでミュージックビデオを見ているようだ。
幼い女の子が楽しそうにピアノを弾いている。となりにいるのは母親だろうか。場面が変わると、厳しそうなおじさんが少女を怒鳴っていた。けれど少女は必死で食らいついている。また場面が変わった。楽譜を抱えた少女、いや、もう大人になっている。そこで少女が彼女だとはっきりわかった。彼女は寂しそうな瞳で、ある二人組を見送っていた。おそらくあの距離感からすると二人は恋人同士だろう。
また場面が変わった。ハンガーに掛けられたドレスを見ていた。気合いの入った強い瞳だ。あの瞳には覚えがある。コンクールで優勝をかっさらっていく人は、いつもああいう瞳をして会場にやってくるのだ。でも、映像は急に乱れたかと思うと途切れてしまった。
彼女はコンクールできっと優勝したのだろう、生きていれば。
あぁ、もうすぐ曲が終わる。もっと弾いていたいような、これ以上は何も知りたくないような、変な気持ちだった。




