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第1章②

 俺は幼少時から母親に促されてピアノを習っていた。一人っ子ゆえに母親の教育も熱心で、俺はそのときどきのコンクールに向けてピアノ三昧の生活を小学校、中学校と続け、高校の二年の時にきっぱり辞めた。それ以後、自宅のピアノを弾くことはなくなった。俺は音楽とは無関係の大学へと進み、誰も弾かないピアノはカバーを掛けられて静まりかえっている。


 翌日、俺はストリートピアノの前で立ち尽くしていた。昨日の自分は白昼夢を見たのだろう、そう思っていた。いや、思おうとしていたのだ。けれど、記憶に刻まれた鮮明な音がそれを否定する。


「な、なんで?」


 もうこのピアノには近寄らないと決意していたのに。引き寄せられるように、気がついたらここにいたのだ。そして正直に言おう、情けないが俺の足は震えている。


 目の前では楽しそうにピアノを弾く昨日の幽霊。そして、何故かいつも間違えるところを今日も間違えて弾いている。どうしてここに来てしまったのか、どうして昨日間違いを指摘したのにまた間違えているのか。二重の意味で「なんで」が口からこぼれていた。


 俺のつぶやきが聞こえたのか、幽霊は手を止めてこちらを見た。


「あ、昨日の青年?」


 嬉しそうに微笑まれたが反応に困る。これが幽霊じゃないなら、ドキッとしたかもしれないが、彼女は幽霊なのだ。怖がるなという方が無理だ。


「どうかしたのか? 身動きしてないが。息くらいはした方が良い」


 彼女の言葉に、自分が緊張して息を止めていたことに気付いた。ゆっくりと息を吸って吐くと、少しだけ落ち着いた気がした。


「あ、あの、俺はここに来るつもりはなかったんです」

「ふうん?」


 それで君は何が言いたいのだ、とばかりに彼女は大きな瞳で俺を見た。その目力に少し怖じ気づきそうになるが、必死で耐える。


「も、もしかして、あなたが俺を呼んでるんですか」

「え、分からんな。もしかすると無意識に呼んでいるのかもしれないが、君が勝手に引き寄せられてるだけかもしれない。そもそも幽霊なんて非現実的なあやふやなものだ。ちゃんとした理由が分かったら、私はここにいないぞ」


 気持ちいいほどに開き直った幽霊だなと思った。というか、己のことを非現実的だと言い切るなんて変な幽霊だ。


「理由が分からないってことは、もしかして明日もここに来ちゃうってことですか」


 俺はため息交じりに言った。それって、ほぼ取り憑かれてるみたいなものじゃないだろうか。そんな怖いし、そうなったら泣く自信がある。


「何だ、嫌なのか?」

「そ、そりゃ嫌ですよ。俺、幽霊怖いですもん」


 未だに心霊番組を見ると、風呂で髪を洗うのが怖くてたまらないというのに。目を開けた瞬間、おどろおどろしいモノがいたらどうしようって。


 当然、昨日はこの幽霊に会った衝撃のせいで、五秒に一回振り向きながら髪を洗う羽目になった。実家暮らしのため両親もいるが、この歳にもなって怖くて風呂に入れないなど言えるはずもないし言いたくもない。おかげでシャンプーが目にしみてボロ泣きしてしまった。


「酷い。私は怖いことなんてしてないじゃないか」

「だ、だって、幽霊見たのこれが初めてですから。見えるだけで怖いんですよ!」


 少なくとも今まで幽霊を見たことはないから、霊感は無いのだと思う。それなのに彼女はこんなにも鮮明に見えて、会話まで出来てしまうなんて。これを恐怖と呼ばずになんと呼べばいいのか。


「私が……初めてなのか? へぇ、ふうん、そう」


 急に幽霊がにやっとしたかと思えば、視線をそらした。


「な、なんなんですか。怖い反応しないで下さいよ」


 もしかして、本当に取り憑かれてしまったのだろうか。


「私が思うに、いくつか理由があるんじゃないかな。例えば、昨日は私が間違って弾いてるのが気になっていたから君は引き寄せられた」


 顔を上げた彼女が、人差し指で俺をさしてくる。


「確かに気にはなってましたけど。それは昨日だけじゃ無く、以前からずっとでしたよ」


 怖々と反論してみるが、すぐに返されてしまう。


「たぶん、気になる気持ちが頂点まで達して、昨日我慢の限界を超えてしまったのだろう」


 彼女は得意げに、俺の鼻先で指を揺らしてきた。さすがに少しイラッとしてくる。

 ならば、怖いから指摘せずにいたけれど言ってやるぞと、俺は口を開く。


「じゃあ今日俺が来たのは、せっかく間違いを指摘したのに、また間違えて弾いてることが気になってしまったということですね!」


 言ってやったぞと、思わず鼻息が荒くなった。

 でも、これでもし怒らせたら怖いので、ダッシュで逃げる心の準備だけはしておこう。そう思っていたのだが、彼女の反応は意外なものだった。


「え、また間違えてたのか?」


 彼女はまるきり気付いてなかったようだ。俺に向けていた指がゆっくりと下がっていく。


「すがすがしいほどに元通りでした」

「そうか……生きてる人に教えてもらっても、やはり駄目なのか」


 彼女はすっかり意気消沈とばかりに、肩を落としてしまった。


「ど、どうしたんですか」


 あまりの落胆ぶりにこっちが驚いてしまう。

 彼女は指をさすりながら、寂しそうな声で言った。


「幽霊になってから、どれだけピアノを練習しても次の日には戻ってしまう。死んでいるからだろうか」


 初めて見せる弱った姿に、何故か俺の方が焦り始める。幽霊とはいえか弱そうな見た目の女の人だ。なんともいえない申し訳なさが胸に広がる。


 別に傷つけるつもりはなかった。ちょっとだけ言い返したかっただけなのだ。だけど、その軽い気持ちが彼女を傷つけた。


 練習すれば上手くなると当然のように思っていた。だけど、俺の当然は彼女の当然とは限らない。幽霊ということは死んでいるのだ。見た目だけでなく出来ることも死んだ状態のまま維持され続けている、つまり、上にも下にも変化出来ないということなのだろう。


「すみませんでした」


 自分でも驚くほど素直に、俺は謝罪の言葉を告げていた。

 彼女はポカンとした表情で俺を見上げたかと思うと、腹を抱えて笑い出す。


「な、何がおかしいんですか」

「いやだってさ、まさか謝られるとは思わなくて」


 過去の俺は、少しでもピアノを上手くなりたくて、それには弾き続けるしかなかった。苦手な部分を克服出来たときは嬉しかった。だけど、彼女はどれだけ弾いても上達しないのだ。一時弾けてもすぐに元通り、永遠とループし続けるだけ。そんなの地獄ではないか。


「…………努力が報われないのは、生きていようと死んでいようと、つらいことだと思ったんですよ!」


 言っているうちにだんだん恥ずかしくなってきて、最後は言い捨てるような感じになってしまった。恥ずかしくて顔が熱い。努力と結果が結びつくなんて、願望が見せる絵空事だととっくの昔に分かりきっているのに。


「君は意外と素直で可愛いな」


 笑いすぎて零れた涙を拭いつつ、彼女は俺の肩を叩こうとする。

 当然すり抜けると思っていた。それなのに、トンっと俺の体は押された。


「えっ?」「あれ?」


 二人の声が重なった。俺が驚くのは当然として、彼女も驚いている。

 昨日は素通りしたはずの手が、どうして今日は感触があるのだろうか。


「今触れたな」

「……はい。確かに感触ありました。え、どうしてですか? ちょ、な、なんか怖いことしたんじゃないでしょうね」


 今度こそ本当に取り憑かれたのではと、俺の恐怖心がここぞとばかりに膨れ上がる。びびりすぎて震えがちな足を一歩、また一歩と後ろに動かした。


「逃げるなって」


 彼女がピアノの椅子から立ち上がり、手を伸ばしてくる。とっさに俺は腕を引いた。見た目こそ怖くなかった彼女が、急にとてもおどろおどろしいモノに見えた。


 俺はじりじりと後ずさりを続ける。本当は走って逃げたいのだが、足がふにゃふにゃで言うことを聞かないのだ。これも彼女が何か霊的な力を出しているのだろうか。



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