第1章①
こちらはストリートピアノを題材にした青春小説です。
別途、異世界恋愛で『眠り姫の憂鬱 ~呪いを解いてくれたらしい軽薄王子が好きになれないのですが、本当に結婚しないとダメですか~』も連載始めました。
よろしければ『眠り姫~』にも立ち寄っていただけたら嬉しいです。
頭に直接響いてくるかのようなピアノの音に、俺は足を止めた。ピアノは遠くに置かれている。それなのに、まるで目の前で鳴っているみたいだった。
「またこの曲か」
大学の最寄り駅にはストリートピアノが設置されている。俺が帰る時間には、いつも誰かによってこの曲が弾かれていた。七十年代の洋楽、現在二十歳の俺でも知ってる有名な曲だ。
音の主はとても上手いのだが、一箇所だけ、いつも同じところで間違えて不協和音を繰り出している。まるで楽譜がなくて、記憶を頼りに弾いているような、そんな印象を受けた。
思わず足が音の方にむきかける。けれど、それに気付き慌ててホームへと向かった。
そう、俺はもうピアノとは関わらないと決めたのだから。
***
「そこの音、違ってます」
俺はピアノの前に立ち、鍵盤に手を伸ばしかけていた。
さっきの決意は何、と問わないで欲しい。自分でも分からないのだ。無視して電車に乗ろうと思ったはずなのに。何故か気が付いたらピアノの目の前に来ていたのだ。
ピアノを弾いていた女の人は、目をまん丸に開いて驚いている。年は同じくらいか、少し上だろうか。日に焼けてない肌は白く、長いまつげに縁取られた瞳は綺麗なアーモンド型をしている。真っ直ぐな黒髪が背中まで伸びていて、洋装をした日本人形のような美人だった。
「あ……その、急にでしゃばってすいません」
急に冷静になった俺は、恥ずかしくなってすぐに出しかけた手を引っ込めた。
「君、分かるのか?」
首を傾げながら、女の人が尋ねてくる。
「その、昔ピアノを習っていたので」
「…………聞こえるのか」
女の人は口に手を当てて、さらに目を見開いた。
確かに昼間の駅中だから騒音も多い。だけど、ピアノの音が掻き消されるほどじゃない。聞こえて当然だ。それなのに、どうしてこんなに驚いたような反応をするのだろうか。
「普通に聞こえましたけど」
「ふうん、そっか。じゃあ君は、この曲を弾けるのか?」
そりゃ、こんな風に声をかけられたら弾けると思うだろう。だが、正直なところ俺は弾いたことはない。でも、弾いたことはないけれど有名な曲だからメロディーは知っているし、コードも弾けば恐らく分かる。適当に弾ききるのは出来るだろう。
「ええと、その、ざっくりとなら」
「じゃあ弾いてみてくれ!」
キラキラとした瞳で見つめられた。美人に期待した眼差しを向けられ、思わず身を引いてしまう。
それにしても、容姿は華奢な女性なのに、口調は実にさっぱりしている。偏見かもしれないが、あまり今時の若い女性らしくない。
「いや、俺はもうピアノは辞めたので」
「でも今鍵盤に手を出そうとしただろ。弾きたかったんじゃないのか?」
「弾きたかったわけじゃなくて、その、いつもいつも、同じ場所で間違えてる音が聞こえるので気になってただけです」
「何だそれ、前から気付いてたのか? ならもっと早く声かけてくれよ。恥ずかしいじゃないか!」
女の人がぷくっと頬を膨らませて見上げてくる。かなり機嫌を損ねたらしい。
二度とピアノは弾かないつもりだったのに。改めてピアノを弾く、と考える。どうせ俺が弾いてもつまらないものになるだけだ。そう思うとやはり弾こうという気分になれない。
「君、そんな深刻に考えるな。大観衆がいるわけでもないんだから」
女の人がけらけらと笑った。その明るい声に、ふっと体が軽くなる。
辺りを見渡すと、誰もこちらを気にしてなどいない。このストリートピアノは駅構内の一番奥の出口付近に邪魔にならないようひっそりと置いてある。メインのコンコースに比べると当たり前だが通行人は少なく、歩いている人にとってもここはただの通路に過ぎない。足早に歩いていくだけだ。
冷静になって考えれば、みんな自分のことで忙しいのだから、俺のことなんてわざわざ見ようと思う人などいないと分かる。この状況でかたくなに拒否すると、逆に自意識過剰な奴みたいではないか。それはそれで何かこっぱずかしい気がした。別に俺の演奏がつまらなかろうと誰も知ったことじゃないだろう。
「うろ覚えだから、間違えても怒らないでくださいよ」
予防線を張りながら俺はしぶしぶ弾くことを了承する。
やった、と喜びながら女の人は立ち上がり、俺に椅子を譲った。
久しぶりのピアノだ。ゆっくりと椅子に座る。ピアノの椅子の独特な軋む音、差し出した足でペダルの感触をそっと確かめた。両手を鍵盤の上に置き、一音鳴らす。鍵盤の重さが離れていた時間を感じさせる。右手の小指が緊張なのか恐怖なのか、細かく震えていた。
小さく息を吐く。そして新たな空気を吸い、俺は弾き始めた。懐かしいメロディー、俺にとっては生まれてさえいない時代に生まれた曲。だけど、心にしみるような素朴な響き。
指は当然のごとく動きは鈍い。思うように回らない。もどかしい気持ちと共に、慣れ親しんだ重苦しい感情が蘇りそうになる。
俺は頭を振って曲に専念しようとした。すると、それを後押しするかのように、女の人が曲の歌詞を口ずさみ始めたのだ。ピアノの音と混じり合い、穏やかでノスタルジックな空気が満ちていく。泣きたくなるような懐かしさに支配され、気が付いたら曲は終わっていた。
「君、すごいな。とっても素敵だった。ピアノ辞めただなんてもったいないぞ」
「ははっ、まぁ大学の勉強もありますからね。今さらピアノを弾いてる時間はないですよ」
俺は当たり障りなくよく言われるお節介な言葉をかわす。
「大学だなんて、君はすごく頭が良いんだな。なら勉学が忙しくて時間がないというのも頷ける」
「ぎりぎりで受かった二流大学ですよ。すごくなんかありませんよ」
女の人は納得いかない様子だったが、俺が左手でハモりの旋律を弾くとそっちに意識が向いたようだ。
「あ、ここか。私が間違っていたところは」
そう言って俺の左手の一オクターブ上に手を置いた。高い音で彼女の奏でる旋律が流れる。
これで間違いは正した。不用意に声をかけてしまった責任もこれで取れただろう。だからもう帰ろうと思い、椅子から立ち上がる。
「待ってくれ」
女の人が慌てたように両手を伸ばしてきた。だが掴まれると思った瞬間、とっさに身構えるも何の感触も襲ってこない。
「え……今の、何です?」
すり抜けた? まさか、そんなことが起こりえるのか? 俺は呆然と女の人を見た。
「やはり会話ができても、掴めないらしい」
女の人は肩をすくめて笑っている。いや、笑い事じゃないだろう。すり抜けるって、つまり、それは実体がないということで……。
「も、もしかしてなんですけど、生きてなかったりします?」
バカなことを言っていると分かっている。久しぶりにピアノを弾いたから、精神が混乱しているだけかもしれない。むしろそうであってくれ!
だが、俺の祈りを嘲笑うかのように、彼女の瞳は楽しそうに輝いている。
「そのとおり。私、このピアノにとらわれている地縛霊なんだ」
躊躇いもなく彼女は言った。怖いくらいの満面の笑みを浮かべて。
その笑みを見た瞬間、背中に強烈な寒気が走る。俺は脱兎のごとく逃げ出したのだった。