キリ山さんとクタ山さん
夕方の散歩タイムが来てしまった。
かなり、緊張する……。
一方で嬉しくてはしゃぎ回り、足にリードが絡まってしまっている我が家の愛くるしいインド神、ヴィシュヌ様は安定の可愛さで癒やされる。
もともと、海はヴィシュヌ様の正規の散歩コースではない。
たまたま天気も良かったし、気まぐれで通りかかっただけだった。
(ごめんね、宇佐川くん。ビーちゃんがどうしても海に行きたがらなくって)
そんな言い訳をすれば、顔を合わさない理由になるだろうか。
そんな思惑も浮かんだのもつかの間――ヴィシュヌ様は海が大変お気に召したらしく、分岐点で海行きルートをおねだりするのであった。
夕日を照り返し輝く水面。
穏やかな波の音。
昨日のあの場所に座る人影。
やっぱりいた。宇佐川くんだ。
……あ、こっち見て笑った。
……あー、ダメ。その嬉しそうな顔はずるいって……。
昨日の帰り、もしかしたら宇佐川くんが自分に好意を持っているかもしれないような発言を聞いてしまったような錯覚を感じてから、妙に宇佐川くんを意識してしまっているのは事実。
でももしかしたら実際はただの聞き間違いで、自分の肥大した自意識過剰が無から有を捏造した可能性もある。
だとしたら痛すぎる勘違い女になってしまう。それは恥ずかしい。
散歩で通りがかっただけ。
そこにたまたま偶然クラスメイトがいただけのこと。
意識しすぎちゃいけない。
「あ、今日はちゃんとキリ山さんっぽい」
「いきなりどういう意味」
宇佐川くんは、私のことをじっと見つめるとため息をついた。
「昨日のクタ山さんが良かった……」
「……クタ山さんとは」
いきなりなんだコイツ。
誰ですかクタ山さんって。
だいたいクタってどういう字を書くのよ。
「まあ座りなよキリ山さん。Bもおいで」
ヴィシュヌ様は宇佐川くんのことが気に入ったらしい。かまってもらえてご満悦だ。
「今日の服ももちろんいいと思うよ。私服のキリ山さん見れてテンション爆上がりだし。今だってシャッター押したい衝動と激しく葛藤してて大変なんだ。とりあえず撮ってもいいかな?」
宇佐川くんのスマホの画面がカメラモードになっている。宇佐川くんの親指が今にもシャッターボタンを押す手前で震えている。
え、ちょっとこわ……。
「……写真は、やめてほしい……かな?」
なんとなく身の危険を感じて、やんわりと制止することにした。
宇佐川くんは思ったよりも潔くスマホをポケットにしまうと、顔を覆って何やらぶつぶつと語り出した。
「ああでも昨日のあれは本当に反則だよ。完全に油断した部屋着スタイルなんてさ、ギャップ萌えでもう神の降臨だよね。だって俺あの瞬間、熱中症で召されてお迎えが来たのかと思ったし、マジで。
だいたい普段キリッとしてるキリ山さんが、あんなにくたびれたヨレTとアダディスの半パン履いてるなんてさ……これもう同棲特権しかないじゃん。もういろいろよぎったよね、あれ? もしかして俺って一緒に住んでる? って」
「ビーちゃん、この海は危険な人が出るらしいからもう帰ろうか」
私は速やかに立ち上がった。
やっぱりウザ川くんは無しだ。
理由はウザいから。あとウザいだけじゃなくて、ちょっと妄想も怖い。
昨日の私、あの一瞬感じたときめきは勘違いだったよ。
あれはきっと、夏の海が見せた一瞬のきらめきだったんだよ。決してウザ川くんがきらめいたわけじゃかったんだ。
夏の見せた幻だったんだね、危ない危ない。
「待ってよカワ山さん」
「誰ですかその人は」
「……か……かわいい私服のキリ山さん、だから……略してカワ山さん……」
……ちょっと、照れながら言わないでよ。こっちが照れる……!
「すいませんキリ山さんお願いがあります! 明日はぜひクタクタ多めでお願いします!
かわいいとクタクタのミックスで……! カタ山さん、でなければクワ山さんでお願いします!」
私は一体、何の注文を受けているのだろう。片山と桑山って誰だよ。
あーなんか今日、すっごい疲れたなあ……。
私は遠い目をしながら海を眺めた。
「絶妙にちゃんといそうな苗字になるの、すごいね」
そんなコメントしか出てこない。
「ごめんねウザ川くん、私なんか今日疲れてるっぽいからもう帰るよ」
「あー、今日暑かったもんな。おつかれ、じゃあ俺も帰るよ。じゃあなB!」
思ったよりもウザ川くんはあっさりと帰っていった。拍子抜けするほどに。
なんだか身構えて損した気分だ。
「帰ろっか、ヴィシュヌ様」
声をかけると、我が家の最高神ヴィシュヌ様は満足そうに吠えた。
……あーあ。
気合い入れておしゃれなんかするんじゃなかったなあ。