1 隠された手紙
五月半ばというのに、うだるような暑さだった。半袖のカッターがじっとりと肌にへばりつく。首筋の汗を拭いながら目的の古本屋へ足を運んだ。
順当に考えると、立山紘一が『ある囚人の独白』の前書きで述べた良き理解者、つまり彼の原稿を受けとっていた人物は、古本屋の店主ということになるのだが、果たしてそううまく事が運ぶかどうか。
「こんにちは」
薄暗い店内には先日と同じように、山のような書物が積み上げられていたが、奥に座っていたのは、おおよそ場違いな少女だった。
「いらっしゃいませ」
少女はこちらを一瞥すると、すぐにスマートフォンを取り出してメッセージを打ち始めた。
古書を物色する振りをして、さりげなく店の奥を覗いてみたが、店主のいる気配はなかった。
「あの、すみませんが」
少女に声をかけると、彼女はしばらく手を止めなかったが、ようやく送信が完了したのか、慌ててこちらに向き直った。
「はい、何でしょうか? 何か探しものでも?」
「いえ、本じゃないんです。店主のおじさんを見かけないんですが、お出かけですか?」
「店主のおじさん? ……ああ、岸本のおじさんの事? あの人は店主じゃないですよ。日頃ヒマを持て余してるらしくて、ボランティアで店番をしてくれてるんです。いろんな本がタダで読めるんで、喜んでやってくれてるんですよ」
店主と決めつけていた人物は、少女曰く道楽で店番をしている岸本という老人だった。
いきなり出鼻をくじかれた。思い込みほど危険なものはない。最初に決めたとおり、この取材に先入観は禁物である。心の中で自分を戒めた。
「岸本さんは、よく店番してくれるの?」
「そうですねぇ、週に三回くらいかな」
少女は訝しげな眼差しでこちらを見たが、素直に答えてくれた。
「ええっと、怪しい者じゃないんです。岸本さんにとある本を薦められて、今度その件で取材する事になったんで、もう一度お話を聞きに来た訳なんですよ」
慌てて名刺を差し出して言った。
「へぇ、雑誌の編集さんですか。かっこいいですね。わたしも本に関係する仕事に就きたいと思ってるんですよ。で、どんな取材なんですか?」
少女は興味津々な表情で質問した。
「まぁ、それはまだ話せません。企業秘密なんで」
「へぇ、岸本のおじさんの居場所を教えてあげようと思ったのに残念ですよねぇ。自分で調べて下さい。どうしても教えて欲しかったら交換条件に応じますけどね」
やっかいな娘に引っかかったと感じた。ここは無駄足を踏まないためにも何としても聞いておかなくてはならない。しかし込み入った内容を話すのは、後々面倒なことになるような気がした。
「なるほどねぇ、こんなボロ古本屋にそんな本があったなんて。でもすごく面白そうですね。過去の事件を一から追跡するなんて、なんだか興味あるなぁ」
少女は手に取った『ある囚人の独白』をパラパラとめくりながら呟いた。
「これはまだ取材の段階だから、他言は控えてね。それじゃ、約束通り岸本さんの住所を教えて下さいよ」
当たり障りのない程度に取材内容を伝え、交換条件に応じた。
「あれ? これなんだか怪しいよ!」
少女は『ある囚人の独白』の革張りのカバーを取り外すと、驚いた表情でこちらを見た。
「どうしたの?」
「この革のカバー、二重張りになってるでしょう? 中に何か入ってるんじゃない?」
少女からカバーを受けとり、手を当てて触ってみた。確かに紙片が挟まっているような膨らみが感じられた。
「このカバーは、確か立山紘一自身が刑務所で作ったって言ってたな。するとこの中には何か重大なものが入っているのかも」
ゴクリと固唾を飲んだ。同様に、少女の方もカバーの膨らみに釘付けになった。
少女にカッターナイフを借りて、慎重に切り込みを入れた。
二重張りの革カバーには、立山紘一の直筆と思われる手記が隠されていた。神経質そうな楷書で、便せん二枚にわたって次の内容が記されていた。
――――――――――――
賢明な読者へ
まずは、よくこの手紙を発見してくれたと感謝したい。この手紙は、言わば私の隠し玉のようなものだ。私の理解者(三島孝史)に、もしもの事があった場合に用意したものである。この手紙を読んでいる君が、私の意志を継ぐ協力者である事を祈る。
本書でも述べたように、事件の真犯人は今現在においても、ぬくぬくと世間を渡り歩き、声を潜めながら残虐の限りを尽くしている事だろう。
だがしかし、今の私には真犯人を捜し出す術がない。もう判決は下ってしまったのだ。私はあらぬ罪を着せられ、生きているうちはこの塀を越える事が出来なくなった。
ここに私の理解者、三島孝史の住所を記しておく。もし彼が無事ならば、事件のより詳しい経緯を訊き出してもらいたい。だが最悪の場合も考えてもう一つの隠し玉も用意している。それは一度だけ面会に来た私の妻にことづけておいた。彼女もまたその生死が危ぶまれるが、彼女には自宅のとある場所に君の捜査の味方となる物を埋めておくよう指示しておいた。私の自宅の住所もあわせて記しておこう。
ただ、この品はある程度事件の見通しがついた頃に開封してもらいたい。なぜなら、予想は出来るとは思うが、この事件を改めて掘り返すということは、真犯人にとって都合が悪い。つまり読者である君に殺意の矛先が向けられる事になるからだ。
私は君に無理強いをするつもりはない。だが私の意志を闇に葬らないでほしい。君にもし良心というものがあるのなら、この手紙と本書を信用のおける人物に託して欲しいのだ。
最後に、間違っても警察には告げないで欲しい。揉み消されるのがオチだ。
――――――――――――
以下、三島孝史の住所と立山紘一の住所が記されていた。
額の汗が脂汗に変化した気がした。踏み込んではいけないものに足を突っ込んでしまったのかも知れない。手紙を覗き込む少女に気づいて、慌ててポケットに仕舞い込んだ。
「この取材には危険が付きまとう。知らないほうがいい」
厳しい表情で少女に忠告した。
「手紙を発見したのは、わたしなんだけどなぁ。まぁいいですよ。わたしはわたしで別の方法を使ってアプローチします。今はグーグルさんに頼れば、足を使わなくても情報は引き出せるんだから」
少女は勝ち誇った顔をして言った。
「まったく困った娘だな。もしこの事件に真犯人がいたら、殺されるかも。とにかく調べるのは勝手だけど、迂闊な事をしたらどうなっても知らないからな」
「わかってますよ、それくらい。わたしをあんまりアマく見ないでね。良い情報を見つけても教えてあげないから。せいぜいその短い足を使って捜査して下さいね!」
気分を害した少女を何とかなだめて、岸本氏の住所を聞き出した。立山紘一の理解者である三島孝史に面会する前に、『ある囚人の独白』の入手ルートを探っておく必要があると考えたからだ。
日中の日差しが嘘のように、厚い雲に遮られた太陽が薄ぼんやりと霞んでいた。揺れ動く心境を見透かしているようだ。
引き返すなら今しかない。しかし不安より先に取材への使命感、いや、好奇心といったほうが正確かも知れない。抑えようもない感情が体を突き動かしていた。