プロローグ
この長期連載の特別企画が通ったのは、ここ最近続いた雑誌の好調な売れ行きによるものだろうか。こんな先の見えない企画が採用されるとは思ってもみなかった。
話の発端は、何気なく立ち寄った古本屋から始まる。取材先の新進気鋭の若手推理作家からインタビューを取ったあと、よく立ち寄るという古本屋を紹介され、品揃えが豊富だというので足を運んでみたのだ。
推理作家の話では、本の整理は雑然としているが、他にはない掘り出し物が結構あるとの事だった。
推理作家の描いた地図をもとに迷路のような住宅街を抜けると、まるで時代に取り残されたような木造の古本屋を見つけた。
くすんだ年代物の板に『懐風書店』と達筆の書体で看板があげられていた。中に入ると、ツンと古書特有の黴くさい香りが立ち込め、無愛想な店主が佇んでいた。
「いらっしゃい」
店主はちらりと視線を合わせただけで、不愉快そうに煙草をふかした。店内は閑散としていて、些か居心地が悪い。雑然と積み上げられた書物は、ジャンルや作家の分類が滅茶苦茶で、今にも崩れそうな有様だった。
「掘り出し物、掘り出し物はないかなぁ?」
わざと聞こえるようにチラチラと店主の方を眺めながら呟いた。
「どんな本をお探しかな?」
風体に似合わず、親切にも話に乗ってくれるようだ。店主が煙草をもみ消しながら傍らに来た。
「作家の中村さんに紹介されて来たんですよ。なんでもここには掘り出し物があるからってね」
「ほほう、中村君の知り合いか。それはそれは」
店主の表情が人が変わったように和らいだ。
「それなら、これはどうだ。わしのお薦めの一品だ!」
店主は店の奥から踏み台を出してきて、高く積み上げられた本の山の頂上から一冊の本を差し出した。
『立山紘一著*ある囚人の独白』
店主が差し出したのは、聞いた事も無い著者が記したA6判の冊子だった。
「これが掘り出し物ですか?」
当惑した表情で話すと、店主は微笑して言った。
「こいつは立山紘一の自費出版で、この一冊しか市場に出ていない。まぁ言ってみれば幻の一品だな」
「自費出版? 素人の書いたものですか?」
訝しげな表情を店主に向け、冊子を受け取った。ご丁寧にも革のソフトカバーが掛けられていて、タイトルの『ある囚人の独白』がエンボス加工されてあった。
「装丁が凝っているだろう。全て立山紘一の手によるものだ。刑務所の中で皮革作業をするかたわら制作したらしい」
「そんな囚人の本が、どうしてこちらの店に有るんですかねぇ?」
「まぁ詳しい経緯はまた今度話そう。とにかく一度読んでみてくれ。気に入れば代金を戴こう」
店主は懐から煙草を取り出しニヤリと笑った。
「お金を払わなくていいんですか?」
店主に目をやると、元の無愛想な表情で煙草を吹かし、目をそらした。
「さぁ帰った、帰った。今日はもう店じまいだ!」
自宅へ戻り、記録したインタビューを試聴したあと、早速革張りの冊子を手に取った。
革の状態からみると、かなり年代物のようだったが、あまり読み込まれた形跡はない。ひょっとすると、あの物好きな古本屋の店主くらいしか読んでいないのかも知れない。
編集者という職業柄、文学少女から年輩のおじさんまで、持ち込みの原稿を読まされる機会が多いのだが、その十中八九が文中半ばでギブアップする。文章の技巧にこだわるあまり内容が薄っぺらだったり、人生経験が未熟で、ろくに取材もしないものだから、物語にリアリティーの欠片も無かったり。
まぁ百歩譲ってそれを抜きにしても、面白い文章というものは、冒頭から結末まで読者を引きつけるような、要所要所の布石が必要なのだ。
大きく伸びをしたあと、蚤のような期待を抱いてページをめくった。
『立山紘一著*ある囚人の独白』
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まえがき
全ての手筈は整った。私はこの一冊に全ての力を注ぎ込んだ。もはや思い残す事は何も無い。あとはこの手記が、心ある読者のもとへ届く事を祈るばかりだ。
私は特殊な文字を用い、この原稿を私の良き理解者のもとへと送り続けた。
看守の検閲を掻いくぐり、こうして最後の原稿を送る事ができた。彼は信用のおける唯一の人間だ。私の特殊文字を解読し、活字に直し、一冊の告白本として出版する手筈となっている。
出来上がった本を目にする事は出来ないが、目を閉じると手に取るように仕上がりの良さが想像できる。
私の良き理解者よ、あとは頼んだ。心ある読者を見つけ出して、出来上がった本を差し出してくれ。私は未だ見ぬその読者に私の意志を託す。そしてこのちっぽけな命を絶つのだ。
最後にこの手記を読んでくれた読者に告ぐ。信じるも信じないもあなたの自由だが、私が命をかけてこの手記を記した事実を理解してほしい。そして、あわよくば私の意志を継ぎ、私の目となり足となり、あの黎明館の事件を清算していただきたいのだ。
2003年6月7日 立山紘一、独房にて
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冒頭からただならぬ威光を感じた。音声データの文字起こしもそっちのけで、『立山紘一著*ある囚人の独白』の世界にどっぷりとのめり込んでいた。
果たしてこの手記は事実か、それとも懲役の片手間に書いたフィクションか。ぎこちない文章は、やはり素人の域を脱していないが、鬼気迫る独白は、読者を嫌がおうにも引きつけてやまなかった。
翌朝、腑抜けたように最後のページを閉じた。取り憑かれたように活字を追い続け、一睡もしていなかった事にようやく気づく。時計を見ると、午前七時を回ったところだった。
「まずい、遅刻だ」
急に襲ってきた疲労感を振り払い、着の身着のまま家を飛び出した。
息を切らして編集部のドアを開けると、待ちかねたように編集長が目の前に立っていた。
「えらくノンビリとした出勤だな。ただでさえ忙しいのに、どういうこった? いいインタビューを取って来たんだろうな?」
赤ら顔の編集長を見て、ようやく音声データを忘れてきた事に気づいた。
「いやその、それどころじゃないんですよ!」
「どういう事なんだ? 忘れたなんて言わせないぞ。早く出せ、俺が確認する」
「ちょっと待って。データなんて後回しにして下さい。すごい企画が出来そうなんです。千載一遇の大チャンスなんですよ!」
まくし立てるように編集長に向かって意気込んだ。
「下手な言い訳はよせ。お前みたいな駆け出しのペーペーが、どんな企画を持って来たと言うんだ。くだらん内容だったら承知しないからな」
昨日からの経緯を編集長にとくとくと語った。企画の内容は、今から二十年前に起こった黎明館殺人事件の真相を暴く事だ。事件の概要は、『ある囚人の独白』によってある程度把握できた。立山紘一の独白によれば、彼は言われのない冤罪を被り、死をもって身の潔白を主張している。
彼の文面から読み取ると、当時の捜査には杜撰な点が数多くあり、表面的な物証と、状況証拠が全面的に取り上げられた。挙げ句の果てには半ば拷問じみた取り調べを受け、自白を強要されたらしい。
果たして独白は真実なのか。立山紘一の意志を継ぎ、一からこの事件を追及したいという欲求が湧いた。もちろん、彼の独白を全面的に信用するという意味ではない。先入観を排除して、この事件を洗い直したいのだ。
編集長は『ある囚人の独白』のまえがきを読み終えると、腕を組んで瞼を閉じた。
「つまり立山が託した、心ある読者に、お前が手を挙げるという事か?」
「ええ、そういう事になります」
「よし、いいだろう。文字起こしは他のヤツにやらせる。音声データを持って来るか、メールに添付して送れ! 締め切りが迫っとるんだ」
編集長は期待と不安の入り交じった、複雑な表情で見送った。