第37話 聖国聖女猊下、天使形態の悪役令嬢に抱き着く
(聖国聖女猊下視点)
天使形態で現れた悪役令嬢に、聖国聖女猊下は、感極まって抱き着いてしまいます。
それは、『天界に通じる回廊』の出現よりも、『宙に浮かび続けるティーカップ』よりも、ずっとわたくしの心を大きく揺す振る光景だった。
壁を透過されてお姿を現された使徒様。
教会のフレスコ画に描かれた使徒様のように、その背から白きお翼を広げられ、長くお美しい赤毛を舞わされながら、ふわりと地に下り立たれるお姿はまさに奇跡以外の何物でもなかった。
柔らかい微笑みをその顔に浮かべられながら、お優しい眼差しをお向けいただいたとき、わたくしはささくれ立っていた自分の心を使徒様が包み込んでくださったように感じられたのだ。
「あ、あ、あ、あ、あ」
どんなに聖務をこなしても何も変わらない世界に、ただひたすら乾き、ささくれ立っていっていたわたくしの心に、潤いが広がっていく。
そう、今こうして目尻から溢れ出る涙だって、わたくしの心が癒されていっている証に違いないのだ。
もうそろそろ限界だと思っていたわたくしに、神は、こうして使徒様を遣わしてくださった。
わたくしは、神から見放されていなかったのだといううれしさと安堵が胸の内に溢れ、あの奇跡の日以来の多幸感を覚えていた。
神の愛、使徒様の愛に包まれているという満ち足りた感覚……これほど幸せな奇跡が他にあるだろうか?
「使徒様っ、はぁっ、使徒様、はあっ、使徒様ぁぁぁ」
サンクタの称号を賜った聖女として正しく振舞わなければならないと理解はしていても、もはやただの一人の少女としてむせび泣くのを止められなくなっていた。
そんな、情けないわたくしであるのに、使徒様は微笑まれながら目を細めながら頷かれ、わたくしの傍まで近寄られる。
花の香りが漂い、頭の中までぼぅっとしてきて、わたくしは、使徒様に手を伸ばしてしまう。
お許しをいただかずして、こんな不敬なことすべきではないのに、自分の心に正直な幼子のようにわたくしは手を伸ばして……その手が使徒様の身体をすり抜けるのを見てしまう。
「っ!!」
使徒様のご降臨という奇跡を目の当たりにして、使徒様の存在に疑いなど微塵も抱いていなかったわたくしでも、改めて天界から舞い降りられたばかりで実体のない使徒様の存在に衝撃が走ってしまう。
人の身では触れられぬご存在。
別に使徒様に拒絶されたとは思わない。
使徒様とはそういうご存在であられるのだと知り、わたくしは使徒様のお尊顔を拝み直すのだ。
「使徒様ぁぁぁ」
教会のフレスコ画を描かれた方も、今のわたくしのように使徒様をお傍で拝見させていただく機会に恵まれたのかしら?
そして、実体のない特別なご存在であるのに気付いていらっしゃったのだろうか?
「少々お待ちくださいませ。
“Activate collision detection for all objects”」
今までただ微笑みを絶やさずに黙ってわたくしを見詰めてくださっておられた使徒様が、そのお姿に似つかわしい、デビュタント前の少女のようなかわいらしい声を発せられる!
使徒様に、声をおかけいただくなんて何て畏れ多い!
耳に残り続けるその響きにうっとりとなりながら、最後の……人の言葉ではない、聖なるお言葉は、どういう意味があるのだろうとわたくしは思う。
「ああ」
その数秒ほど後、使徒様のお身体が、突然、蜜蝋のような暖かい輝きを放たれ、わたくしは驚きのあまり、猫のように使徒様のお身体に伸ばしていた両手を引っこめると、ふわりと使徒様のお身体から漂う花の香りが強まるのを感じたのだ。
いや、それだけではない。
今の揺れる使徒様のお翼からわたくしの肌をくすぐるように風が流れてくるのを感じたのだ。
「使徒様……?」
再び恐る恐る右手を伸ばしてみると、なんと、今度は使徒様の温かで柔らかいお手がわたくしの手をそっと包み込んでくださり、わたくしは今使徒様と触れ合えたのだと理解した。
「あ、あ、あっ」
感動と感激のあまり、わたくしはまた目尻から涙が零れていってしまうのを感じてしまう。
本当に言葉にならない。
使徒様の方から実体を伴って、わたくしの方に歩み寄ってくださるなんて!
これほど光栄で貴重な体験は、きっと今だけのものなのだわと思うと、わたくしは、自分の心を抑えきれなくなり、使徒様の腰に………抱き着いてしまった。
幼い日、母に抱き着いていた頃に感じていた甘く、優しく、くすぐったい思いが胸に再来し、また溢れる多幸感にどうにかなってしまいそうだった。
「使徒様ぁ、使徒様ぁ、使徒様ぁっ」
本来は決して許されない、不敬な真似をしてしまっているという自覚はある。
それでも、わたくしはこの感情を抑えることができなかった。
そう、使徒様にわたくしの全てを包み込んでもらいたい。
わたくしの心を癒してもらいたい、というこの思いを止めることができなかったのだ。
「っ!」
ほんの今まで握ってくださっていたそのお手が今度は、わたくしの頭に触れ……わたくしの頭を撫でてくださる!
まるでわたくしの全てをお許しくださるかのような使徒様のお手の感触を頭で感じて、わたくしは意識がぼぅっとしてくるのを覚えた。
「「おぉぉぉ」」
周囲で誰かが……いえ、アルーニーとギシュたちがどよめているのが分かる。
ああ、見られている……と分かっても、もはや恥ずかしさなど感じなかった。
ただ、今きっと、ここに、とても神聖な光景が広がり、皆心が穏やかになるのを感じているに違いないのだと……わたくしはそう信じ切っていたのだった。
どれほどの間、わたくしは使徒様に甘えていたのだろうか?
「落ち着かれましたか?」
心が充分過ぎるほど潤いに満ちたわたくしは、そのお優しい使徒様のお声に、ようやく羞恥心を取り戻していた。
そう、ようやくわたくしは理性を取り戻していたのだ。
よりにもよって、ご降臨されたばかりの使徒様に泣き付き甘えるという不敬を働き、ご歓待くださっているミスラク王国のカーレ第一王子殿下とメグウィン第一王女殿下の前でそんな聖女にあるまじき失態にお見せてしてしまったという事実を今更ながら認識して、穴があればそこに飛び込み隠れたくなるような気分を味わう。
「た、た、た、た、大変失礼いたしましたっ!
ま、誠に申し訳ございませんっ!
此度の不敬な振る舞い、いかようなる罰でもお受けする所存でございます!」
わたくしは頬が火に当てられたように熱くなっていくのを感じながら、慌てて使徒様から離れ、謝罪した。
「いいえ、どうぞお気になさらないでくださいませ」
そのかわいらしいお声に、わたくしはハッとして、顔を上げる。
膝をついたまま抱き着いていたせいで、気付くのが遅れたが、お美しい使徒様の身体つきがわたくしとあまり変わらない華奢なものであるのに気付いてしまうのだ。
「っ」
もちろん、神より下賜されしお力は人では抗えるようなものではないのだろうが……立ち姿は、齢十くらいの少女と変わらないお姿であることに今更ながら驚きを隠せない。
わたくしは、カーレ第一王子殿下と同い年ながら、同年代の女性に比べ、かなり小柄であるのは自覚しているが、まさか使徒様がそんなわたくしとさほど変わらないとは。
「お初にお目もじ仕ります。
わたしはビアド辺境伯家が第一子、メリユ・マルグラフォ・ビアドと申します」
っ!
いけないっ、わたくし、まだ使徒様にご挨拶すら申し上げていなかったというの!?
いえ、今使徒様は何てお名乗りになられて……辺境伯家? 第一子?
「は………?」
わたくしは使徒様のお言葉を理解できず、不敬にも訊き返してしまう。
「サラマ聖女様、こちらは、かつて我が国で聖人であられたイスクダー様のご子孫で、神により聖女と認められたメリユ様でございます!」
横からメグウィン第一王女殿下が割って入られて、ご説明してくださる。
イスクダー様とは……確か、ミスラク王国ご建国時の英雄だったお方?
確かに……訪問前に、聖人認定された方でそのようなお方がいらっしゃったとは伺っておりましたけれど、その方のご子孫だというの!?
わたくしは混乱に陥りながら、使徒様にしか見えないメリユ・マルグラフォ・ビアド様、いえ、聖女猊下を見詰め直してしまうのだった。
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