第六章始話 優しさに溶けて
得体の知れない化け物による仕込みを終えて暫く。もういつことかも思い出せず、今日も今日とて変わらぬ夜を過ごす。
その日最後の客が部屋を出たことを確認すると、グッタリと酷く匂いの残るシーツに横たわる。不快な臭いももう慣れて、涙すらも枯れていた。
「…………」
──と、そんな時ふいに帳の向こうから声が聞こえる。もう客を受け入れる時間は過ぎていて、今は出ていく客しかいない筈だ。
──お金がなかったのかな……
大抵この時間帯の揉め事と言えばそれくらいで、ふと視線が向く先にあるのは無造作に捨てられた入れ袋。かつては大金の入っていたそれは今や何もなく、あの後癇癪を起こして自ら窓の外に中身を投げ捨てのだ。
何故、そうしたのか。──至極単純で自分勝手な理由だ。その金がまるで自分を責めているようだっだからに他ならない。
それもそのはずで、子を売って手に入れた金だ。──金貨の向こうに映る姿が、憎くて堪らなかった。
手の中にズッシリとのし掛かる重さが自らの罪の重さを比喩しているようで、金の鏡に映る姿がまるで罪人を写しているように見えたのだ。
罪の自覚があるから、その罪から目を背けたいが為に金を投げ捨てた。当然の末路で、あいるはそれすらも必然だったのだろう。
今や金を見ればかつめて罪を思い出し、受け付けなくなった。──あれほど欲していた自由、そして大金。その全てを拒絶するようになり、そして今も自由や裕福とは程遠い生活をしている。
──当然の末路か……
かつて望んだその全てを受け付けなくなった。
子を売った罪人には相応しい末路ではないか。
「ふ、ふふ……」
無性に笑い声が漏れる。自嘲するそれは時々、何の前触れもなく聞こえてきて……その度に、彼女の精神をすり減らした。
小さな身体を震わせるのは恐怖か、はたまた怒りか……あいるは、それを知って何になると言うのか。
きっと彼女には分かる筈もないことで……そうでなければ、どうして子を売れただろう。身も心も壊れかけていて、彼女自身どうしても生きているのかも分からない。
死が怖いかと問われれば決して首を横に振ることはできないだろう。──しかし、それ以上に生していくことが怖いのだ。
「お願い……私を、殺して……」
死ぬ度胸もなく、生きていることにすらも嫌気が差していた。罪を生きていく覚悟もないくせに、安易な死すらも他人頼り……それで救われる筈もなく、故に地獄は存在している。
また一人、泣くこともできず俯いていれば唐突に帳が開く。ハッとしたように顔を上げ、そして戦慄した。
「やぁ、君がそうかい?」
──軽い声だった。それでいながら激情を押し殺したような苛烈さが垣間見えて、だと言うのに表に浮かぶのは笑みの仮面。
薄ら寒い笑みを浮かべるのは自身と変わりない歳の少女で、そんな彼女の背後に浮かび上がるのは四対八枚の巨翼。
「ふぅ~ん……」
ペロッと頬から口端に流れる血を舐め取り、ゆっくりと少女が自身の右手を見下ろす。そこにあるモノを、意図的に意識から外してソレを見せつけるように──
「当然の報いさ」
面白おかしそうに目を細め、その瞳の奥に浮かぶのは冷たい光を宿す欠け月。眼前に持ち上げた店主の首を足下へ落とせば、素足にてその頭蓋を踏み抜く。
「僕は『虚月の魔女』、ルル・ル=ティアナ」
名を名乗ることに何の意味があるのか。──しかし、目の前の少女にとってそれはとても重要なことなのだろう。
神々しいまでの姿とは裏腹に、深い瞳の奥に浮かぶのは禍々しいまでの狂気。何が彼女をそこまで駆り立てるのか、生きることにすらも命を賭けられなかった少女に理解など出来るはずもない。
「『神喰らい』の末裔、君にはもう一度子を産んで貰うよ」
同じ女であるはずのに、その言葉がどれだけ彼女の心を抉るのか分かっている筈のに……にべもなく言い切る彼女に酷い憤りを感じた。
「また……! どうして、またアンタ達は──っ!?」
恨みつらみの全てをぶち撒けられれば、年端もいかぬ少女に全てをぶつければ楽になるだろうか。ただ気が済むまで彼女を罵倒しくて──しかし、目にも止まらぬ速さで伸びてきた手がその言葉を制する。
「ぐぅ……」
グッと細い腕に力が入れば彼女の身体は軽々と持ち上げられ、天族の少女の細い指が首を締め上げた。
「何を勘違いしているんだい? どうして、君にそんな権利があると?」
首を絞める腕を掴み振り解こうにも、まるで万力のようでピクリともしない。
間近で深い瞳に見据えられて、魂の底から身体が震え上がる。
「ぁ、ぁぁ……」
間もなく意識は薄れ行き視界が暗転した先、身を起こせば首に掛かっていた圧迫感が消えている。何度も首をさすって、まるで夢ではなかったのかと……そうでなければ、あまりにも自身が報われないではないか。
しかし、そんな筈もなく……どうして、かけらでもそんなことを思ってしまったのだろうか。──もっと自覚するべきだっのだ。己が子を売った者に夢はなく、永遠に安息は訪れないと──
「──っ!?」
──と、その時。広い一室の扉、その向こう側から人の気配が近づく。慌てて周囲を見渡しても隠れられそうな場所もなく、間もなく何の前触れもなく無機質な扉が開け放たれた。
現れたのは細身ながらも長身の男だ。身の毛ものよだつ美貌と、そんな姿には似つかわしくない程に哀愁を帯びた表情。
毅然と背筋を伸ばし無理のない姿勢で立ち、無彩色の長髪が背中まで流れている。──しかしその何よりも目を引くのは、やはり背後に浮かび上がる翼だろうか。
三対六枚の翼は前回見た少女のそれと酷似していて……だが、違う。似ているが、明らかに違うのだ。
どこまでも奥行きのある瞳と、それに似た翼の光。しかし前に見た少女のそれは、冷たい炎の中に苛烈な激情を秘めていた。
「事を始める前に、聞いておきたいことは?」
酷く無機質な声だった。──これが、これから女を抱く男の姿だと言うのか。
これから始めると言う情事に前向きとも見えないが、だからと言って否定的でもない。その何ともえいない態度がより一層彼の不気味さを際立てていて──そして、気がついた。
──嗚呼、そうか……
彼の態度はいつか見た赤黒い男に似ているのだ。絶対的に違う筈なのに、どこか部分的に重なって見える。
「いいえ。ただ、せめて優しくしてください」
抵抗しても無意味で余計に苦しむだけ。──ならばせめて、苦しまずに終われるよう……そう受け入れてしまえば、少しは楽になれるのだろうか。
「ええ、善処しましょう」
私としても母体が傷付くことは望みません。──と、感情の感じられない声が響く。
そう、彼はあくまで産まれてくる子の為、その母体の状態を出来る限り良くしておきたいだけなのだ。
「…………」
何を今更、悲観する必要などない。
もう既に、知ったことではないか。
どれだけ時間が過ぎただろうか。今や慣れた親しんだ行為が終わり、部屋を背に扉を開いた男が一度振り返る。
「明日は彼女が様子を見にきます。何か聞きたいことがあれば、尋ねると良いでしょう」
ただ作業を終えただけの男は余韻などなく、来た時と同じように特徴のない動きで部屋を出ていく。
一人残された少女は何もない部屋で床に寝そべる。思い出すのは先刻の光景で、慣れ親しんだ行為である筈が、何故だか脳裏から離れない。
いつかあの赤黒い男と同じで、まるで感情の読み取れない目がジッと自分を見下ろしているのが怖かった。
何もかもが、彼女の胸に秘めている怒りが、悲しみが……そして、少女自身目を逸らしてきた罪を見透かされているようで──彼等は何も言っていない筈が、何故だか咎められているような感覚に陥った。
それがただ自分の後ろめたい感情が生み出す幻だと知りながら……悔して、認められなくて、事が終わるまで強く目を瞑ることしか出来なかった。
「また……」
ポツリと溢れる言葉が嫌に大きく聞こえて、またしても同じ轍を踏むのか。確かに後悔した筈の……しかし、結局は変われなかった。
翌日、日が登って間もなく白い少女がやってくる。ひどく奥行きのある瞳が囚われの少女を見下ろし、そして小気味良く笑った。
「やぁ、気分はどうだい?」
「無理矢理連れて来られて、その上で──」
更に言葉を紡ごうとも、しかしその先を想像しまだけで耐えきれずにえずく。
「そうだね……確かに僕達は無抵抗の少女を犯し、そして望まぬ子を産ませようとしている」
少女が躊躇った言葉を、強い拒絶を……だと言うのに、目の前の白い少女はまるで何のことでも無いように言い放つ。
「…………貴女、まさか…………」
その時、気がついた。
気付いて、しまった。
大きさにゆとりがある服で分かりずらいが、確かに腹部に不自然な盛り上がりがある。全体的に細く華奢な身体で、一度気が付いてしまえば嫌でも意識が引かれるだけの存在感があった。
「ああ、そうだとも」
口にしていることの悍ましさはそのままに、酷く穏やかな表情があまりにも歪だ。──そう、言わずも分かった。彼女の腹の子の、その父が誰か。
「貴女、も……?」
「そうだね。ただ君と違うのは、僕は望んで授かったことさ」
──違う……
何故だか分からないが、彼女の言葉に偽りを感じた。──きっと目の前の少女はそれを望んでなどいない。ただ、そうしなくてはいけない理由があっただけなのだろう。
「何故……?」
「簡単な話しさ。僕が子を授かったのは復讐のため」
とても穏やかには聞こえない言葉で……しかしそれとは裏腹に、少女の声は今まで聞いたどんなモノよりも澄んでいた。
真っ直ぐに、ただひたすらに彼女はそれを望んでいるのだろう。純粋なまでの想いで、小さな少女は復讐の為に最も憎い男に抱かれた。
「僕は間もなく死ぬ。醜い命と引き換えに、この子は再び現世に舞い降りるんだ」
彼女が何を言っているのか分かる筈もなく、他人が聞けば狂人の戯言とも取れるだろう。──だから、なんだと言うのか。その言葉は真実であるのなら、どうして疑うことに意味がある。
「神の再誕には代償が必要なんだ。それがただ、僕の命と言うだけ」
何のこともない。──と、彼女はまるで自分が死ぬことにすら興味を抱いた様子がない。その姿があまりにも異質で、だからこそ共感出来るのだろう。
「貴女は、私に何を望んでいるのですか?」
「……逆に聞こう。君は何が望みだい?」
白い少女の問いに思わず言葉が詰まり、そしてただ無言のまま首を振る。子を売ったあの時から、望みなどないのだ。
「そう……なら、また何か決まればいつでも言うといい」
どんな願いでも叶えると……それだけ言い残すと少女な部屋を出ていく。
それから数ヶ月、何でもない日々が続く。彼女が望まずとも様々な物が用意され、柔らかい布団に美味な食事。健康維持の観点か、ある程度制限が掛かっているものの特に不満などある筈がない。
夜な夜な彼女のもとに現れた男は少女が無事受胎したことを知ると顔を見せなくなり、代わりに白い少女が頻繁に顔を見せるようになった。
──しかしそれもまた暫くすれば姿を見せなくなり、何故だか今も枕元にいるのはあの男だった。
ここ最近、白い少女の腹部も隠しきれない程に大きくなっていたことを思い出せば、彼女にももう間も無くその時が来るだろう。
出産間近の身体を引き摺って少女のもとに来ることが無いのは当然で、そして次は自分の番だ。日に日にあの時の感覚が押し寄せ、その度に顔からは血の気が引く。
「はぁ……はぁ……」
今も少女が横たわる寝具の近くに彼女に当てがわれた男が付き添う。そんな彼を見上げていれば、不意に口から言葉が出ていた。
「そう言えば、貴方のこと何も知りませんね」
あの白い少女はよく話しをしてくれた。少女自身のこと、この呪われた血統のこと……まだまだ隠していることは多いのだろうが、それでも話題が尽きることはなかった。
「私は──。今代『天主』、天界の支配者です」
その時、思わず目を見開き……しかし次の瞬間、暗い笑い声が自身の喉を伝う。
「そんな貴方が、どうして彼女の言いなりに?」
「彼女は我が永遠の神を、その身をもって蘇らせてくれました。その恩に報いねばなりません」
言われるがまま少女を抱き、共犯者としてあの化け物に寄り添った。いつかそれが辿る末路が分かっていても、彼に止める権利はないのだと言う。
白い少女の腹に巣食うという神。──それが彼にとって全てだっのだろう。故に自らの神を、文字通りその身でもって蘇らせた少女には返し切れない恩義がある。
「それで、彼女は……?」
「……………」
彼は答えない、答えるまでもない。あの白い少女は神を身籠り、そして産み落とし……その果てに罰せられたのだ。
「我が神の名はサラ=ティアナ」
男がゆっくりと言葉を紡ぐ。何者よりも尊い筈の名を……それがどうして、あの魔女に通じるモノがあるのか。
「我が共犯者、ルル・ル=ティアナの姉。神であっても神を創ることは、何にも代え難い大罪なのですよ」
言葉が、出て来ない。
それと同時に悟った。
彼女が何を産み落とそうとしているのか。
それが、如何なる意味を持っているのか。
「死を望んでいられましたね」
酷く穏やかな口調で、彼が見せるそれはこれから人を殺そうとしている者のソレではない。どこまでも、慈愛に満ちた……皮肉なほどに達観した表情だった。
「ふ、ふふ……あははは!!」
これが笑わずにいられるだろうか。
初めから彼等は全てを知っていた。
「子のため死ぬ。──私には出来すぎた、最期ですね」
口にすればその皮肉にまた笑い、そして見せたのは場違いなほど穏やかな表情。これから死ぬ者の、しかしそこにあるのは確かな母親の顔だ。
どこまでも穏やかで聖母の如く……死を間近に感じて漸く、漸く少女は人らしくいられた。我が子を慈しみ、そして自分を手掛けた少女にさえも──だからこそ、もっと早く気が付きたかった。
「私の望みを叶えてくれると言いましたね」
今更何も望まない、望めない。──それでも死に切れぬ理由があって、だからこそ共謀者の二人に彼女は言い残した。
「彼女にも伝えてください」
伸ばした手を、しかし男は取らない。それでも少女の最後の言葉を、その一語一句を自身の魂に刻まつけるよう彼は少女の瞳を覗き込む。
「私にそんなことを願う資格すらもないのでしょう。ただ、これが唯一の贖罪なのです」
だって、死んでしまってえば罪は償えないでしょう。──そう笑うのはきっと、初めてのことだろう。
「私の子達を、どうか幸せにしてください」
「…………私は、保証出来ません…………」
ただ、と男が力強い眼差しで少女を見下ろす。
「貴女がかつて契約を結んだのは『滅びの王』。未だその願いが叶わぬというのなら、彼が紡いでくれます」
そう言う彼の顔を見て、そして脳裏に過ぎるのはあの恐ろしい男だ。白い少女の復讐対象で、そして彼女からも何度も聞かされいた。
全てに絶望した時彼は現れ、あまりにも不釣り合いな代償と引き換えに少女達の願いを叶えると。──それが嘘か誠か、そんなことは今の少女にはどうでもよかった。
「そう、ですか。──それなら、安心ですね」
──思い出した……
どこまでも深い闇を宿した瞳。──かつてはただ怖いだけのそれは、底知れぬ優しさだったのだろう。
深淵の如く底のない闇は……しかし、全てを受け入れる優しさだった。きっと彼はずっとそうで……理解されず、敵を作り、それでも誰の為に心を殺し、情を殺して戦っている。
誰もが血に飢えた狂人だと言う。冷酷無慈悲で、心のない獣だと……誰よりも優しく、だからこそ彼は一片の弱みを見せるわけにはいかなかった。
心の写し鏡である瞳に蓋をして……優しさが、弱みが漏れないようにしていたのだ。何も知らぬ者が彼の瞳を見ようとも、その闇に飲まれて本質を見通すことは出来ない。
「嗚呼、もし生まれ変われたのなら──」
それ以上言葉を紡ぐことはなく、少女の意識は落ちていく。間もなく闇がその意識を覆い尽くし、全ては優しさに溶けて──
──ありがとう……




