第五章始話 神祖と魔女の姉妹
油に塗れ、血に濡れ、刃の潰れた剣を投げ捨てる。屍が地面を覆い尽くす戦跡地を我が物顔で闊歩する少女が、赤い空を見上げた。
「今日も収穫なしか」
姉譲りの白い髪は今やに血に汚れ、ゆるりとまた想い人と同じ色の瞳にドス黒く染まった大地を映し出す。
あれから幾星霜、『名も亡き神』の痕跡を追ってここまで来た。しかし未だ手がかりはなく、小さな身体を抱きしめて震える。
地上に降り立ち、あれから気が狂うほどの長い年月。一度見ただけの神を追って下界を彷徨っていた。
かつて姉の影に隠れて自身を凡人と比喩した少女は、しかし並外れた才能を持っていた。それは皮肉なことで、姉に比べればまだまだ平凡ではあるがやれば何だって出来た。
ゆるりと動かした瞳が不毛の大地を見やり、そうして転移魔法で移動したのは次なる目的地。滅神信仰を追って魔王にも会い、そして彼の善意で多少の情報も得られた。
しかしどれも不確かなもので、彼等もまた『滅びの王』については何一つ知り得なかったのだ。
「……時間の無駄だったかな……」
溜め息混じりに肩を落とし、それでももう暫くこうして花畑を眺めている。夢半ばで散っていた一輪の花を思い出し、奥歯を噛み締めると足元に咲いていた白い花を踏み潰した。
「時間ぴったりだね」
懐かしい声がした。忘れもしない、どこまでも澄み切った声は可憐な音色と共に無機質な響きを持つ。
「…………え…………?」
長い間のあと、漸く動くようになった身体でぎこちなく声のした方へと目を向ければ……その光景に、絶望を通り越した姿に言葉を失った。
「やぁ、久しぶり。こうしてまた会えるんて……よく、生きてくれたね」
両の手を広げて小柄な人影が少女の身体を抱き締める。懐かしい温もり、かつては鬱陶しいとすら思っていた日常が戻ってきた筈なのに、何故だか浮遊感に似て現実味がない。
「……お姉、ちゃん……」
どうして、と言う声もも続かず掠れる喉から嗚咽が漏れる。
「……会いたかった……」
「僕もだよ。ごめんね、ずっと一人で寂しかったよね」
「あ、え……、でも、契約は……?」
「ふふっ、彼は始めから僕を斃す気は無かったんだ」
戸惑う妹をあやすようにその頭を撫でて、姉が身体を離すとことの終始を語る。
「それに……もう、彼は死んだんだ」
「──っ!?」
驚愕に目を見開き、分からないと言った様子で姉の顔を覗き込む。確かに彼は人間だと言われていたが、あの化け物が死ぬなどとは思えない。
「人間の命は短いからね」
ましてや寿命などとは、それこそあり得ない話だ。
「契約の主である彼は死に絶えた。契約もまた風化し腐り落ち、今や僕を縛るモノは何もない」
「な、なら……!」
声を張る妹を見つめる瞳は深い慈愛が溢れていて、その穏やかな表情は悟りさえも開いている。
「でも、ごめんね。いくら時間が経とうとも人の本質は変わらない」
どこまでも達観した表情で、穏やかな瞳の奥にはかつて見たこともない闇十字をもした四芒星の菱形が刻まれていた。
「今もなお、僕は夢を追い続けている。他でもない、彼の夢を──それは僕がずっと思い描いていた理想郷で、全てが終わった果てに彼と約束したんだ」
身体を離した姉の首元、闇色の四芒星が首飾りのように手を繋いでその細い首を囲っている。
両の腕を広げて語る姉の瞳はいやに冷たく、どこまでも全てを見透かしたような眼差しには隠しきれない哀愁が滲んでいた。
「君もかつて彼と契約を交わしたはず」
「……どう言う、意味?」
訝しげに眉を顰める娘を見やり、白い少女がふんわりと嗤う。悟り切ったような表情とは裏腹に、何故彼女の目元はさっぱり笑っていないのだろうか。
「契約は風化し綻び、今やその効力は失われた。──でも、ね。全てが無かったことにはならないんだ」
白い少女の背後、その背中から現れたのは五対十枚の巨翼。羽吹雪の中、それは神々しいまでの光を放ち、再びあの白い世界を創り出す。
「君は夢の続きを求め、まだ姉を失っていない。そして僕もまた妹を救われた対価を払っていない」
かつて魔女は自身の全てと引き換えに姉の夢を求めた。彼女がずっと、いつまでも夢を見続けられるように、他でもない姉を悪魔に捧げたのだ。
かつて無垢な少女は妹と引き換えの自身の命を代償に捧げた。死の間近にある妹は救われ、そしてその対価として彼女は自らを差し出したのだ。
双方の契約により、今の今まで曖昧な立場のまま白い少女は生かされた。しかし今や彼女の夢は失われ始めて、残る代償もまた意味を失う。──故にこそ、彼女は再び契約を書き直そうとしてるのだろう。
「きっと、きっと彼が再び君の前に現れる」
姉の瞳に隠しきれない憂い、それは尚も復讐にかられる妹の未来を思ってのことだろう。妹を救うと言いながら、その娘に憎悪に駆られた道を歩ませる……その陰りが拭い切れていないのだ。
「ごめんね。だからもう少しだけ……いつか全てが燃え尽きた時、僕達は本当の意味で再会できるから」
もう魔女の心にあるのは姉に会えた喜びなどではなく、契約を続けようとする狂人への冷たい感情だった。
「それでも私は、僕は……貴女に、君に憧れていた」
「うん、知っている」
魔女が顔を顰め、そして一際低い声で呻く。
「君は、僕と同じ痛みを知るべきだ」
「……………………」
姉は何も言わない。──ただ憂いを湛えた瞳には、きっと彼女の未来が視えているのだろう。
それを知りながら、彼女は自身の妹すらも地獄に落とそうと言うのだ。
「……笑いながら死ぬことなんて、僕には出来ないから……」
それはどちらが呟いた言葉なのか、ただ言えることは双方の心に深く刺さっていたことだけだ。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
姉が斃んだと知ったのは、それから間もなくだった。
別に不思議だと思わなかった。寧ろ彼女らしい、彼女に相応しい末路だとすも思っていたのだ。
──しかし、同時に感じるのは少女に残された道は一つと化したこと。正真正銘の魔女となり、ただ澱んだ狂気の果てに復讐を完遂する。
──でも、その前に一つ……
ゆるりと顔を上げれば、ソレは確かに存在した。
初めて見た時とその姿は打って変わって、それが当然ことだろう。──彼は既に死んでいて……しかし、忘れもしない。
底無しの闇を宿していた眼は灼けるように赫く、かつて黒星を内蔵していた瞳には円環十字が浮かび上がる。
姉の墓前に立つその姿からはかつての面影はなく、無気力に墓標を見下ろす瞳にはかつて栄光は見られない。
「ようやく、人らしい顔になったね」
最大の皮肉を込めてそう言い放てば怨敵は尚も能面のままで、ゆるりと持ち上がった眼に見られた時、前回とはまるで違う恐怖を覚えた。
闘気も覇気もなく、気配はおろか存在感すらも失われそうなそれは昔と何一つ変わらない。ただ強い意志を向けられた時のような圧力は感じれず、代わりにあるのは能面の如き虚無に似た無心だった。
「…………何用だ?」
「まさか、僕と交わした契約を忘れたとは言わないよね?」
その手で殺めた少女に似た魔女が一人。さしもの男とて疑問に思わない筈もなく、しかしその表情が変わらないのは既に彼の心がないからだろうか。
「…………」
「ふむ。おおかた心当たりのない引っかかりがある、と言ったところかな」
徐に持ち上げた掌に光の球体を作り出す。濃縮する力の根源に指を食い込ませて、そんな彼女の背後に顕れるのは四対八枚の巨翼。
「今の君なら僕でも殺せる。──でも、ね。それじゃ、あまりに面白みにかけるじゃないか」
尚も態度を、表情の一つも変えることない男を見やり、彼女は言葉を紡ぐ。姉が契約を続けるため命を投げ出し、それはまた魔女の業を動かした。
「罪の自覚のない罪人を裁いたところで意味なんてないんだ」
「…………貴様は、何を望む?」
手の内に闇十字を模した刀を顕現し、それを構えるでもなくだらりと下げて男が問う。
「君の、そして僕が重ねた罪の根源である彼女を再び蘇らせる。その協力を君にしてもらおうと思ってね」
「…………」
彼女の言葉にようやく男の顔に感情が見て取れた。訝しげに細めた目の下、炎の如く冷たい瞳が刺すように小さな少女を睥睨した。
「彼女は自ら生まれ変わるように奇跡を施した。僕達はそれを少しばかり手助けするんだ」
「…………俺に、何をしろと?」
ここに来て漸く魔女の貌が大きく変化した。歪んだ笑みを浮かべ、そして男の真横へと滑り込む。
「簡単な話しだよ。ただ君は、僕を抱いてくれればいい」
「…………」
男の表情は変わらない、しかし何かを考えているのか暫し動くことなく思案している。──そうして満一刻、男は闇十字を模した刀を姉の墓所へと突き立てるとゆるりと魔女へ向き直った。
「……いいだろう……」
これは姉に対する復讐だ。
魔女とさえ謳われた少女は才能があった。
姉の影に隠れて確かに目立たたず、その上に彼女自身下界に降りてくるまで自らにそんな才能があると知り得なかった。
姉が編み出した転生の奇跡。
それは大きな穴があった。
普通であれば転生術の術式を読み解くことど不可能だ。しかし魔女にとってそれはあまりに単純で、姉の転生先を指定することなど造作もない。
「僕と君の子として、彼女は生まれ変わるんだ」
ずっと愛してきた男の……そして守りたかった、守り続けた妹の子として生まれ変わる。それが姉にとってどんな意味を持つのか、火を見るよりも明らかではないか。
──あるいは、あの化け物はそれすらも見通してかも知れない……しかし今となっては、彼等に知る由などない。
「君も、姉も……忘れることなんて、許さない」
それでも、これこそが魔女が長く長く進まんとする復讐の第一歩なのだ。
姉は望まぬ者の子として新たな生を受け、そして男はかつてその手に抱いた者を手にかけるだろう。──そして最後には、自らの娘も……それはきっと、残酷である筈だった。
「さぁ、おいで。流石の僕でも、亡き姉の前で致すほど無粋じゃないからね」
男は黙り込み、そんな彼に背を向けて魔女が歩き出す。間もなく魔女の背中が小さくなった頃、男もまた墓標に突き立てた刀から手を離すと彼女のあとを追う。
「せっかくなんだから、初めての思い出は忘れないモノにしないとね」
そう嗤う彼女の顔に悲痛の色が濃く滲んでいて、しかし男は何も言わない。それこそが彼の優しさで、姉がこの男に固執した理由なのだろう。




