第十三話 いかにして無名の伝説は
誰もいない、道とも言えない地を四人の男女が駆け抜ける。もはや彼等が走るその速度には馬も追いつけず、道中で出くわす獣が彼等に気が付いた時には既に通り過ぎているほどだ。
「はぁ……はぁ……」
レドゥズビアとアイリアに続いて走るサティナの背後から洗い息遣いが聞こえてくる。元々半魚人であるグランナは地上で彼等ほど軽やかに動くことは難しい。
血族の始祖として跳ね上がった身体能力を持ってしても、彼等の速度について行くのがやっとだ。
今や鳥が急降下するよりも早く駆ける彼等の後を、その背中を見失わないようにと必死に走る彼女を尻目にその速度が一段と増す。
「待たなくてよろしいのですか?」
「彼女もそんなヤワじゃないわ」
アイリアの言う通り、苦しげであるもののしっかりと遅れを取らないように彼女はその速度について来ていた。
目的の地まであと一つだけ大きな街を経由すると言う。それまでのあいだ、彼等は休む間もなく走り続けている予定だったが、やはり厳しいモノがあるのだろうか。
「でも、少し休んだほうがいいわね」
チラッと後ろを振り返り、汗が顎を伝うグランナを見やれば彼女がポツリと呟く。一瞬そんな少女へとレドゥズビアが目を向けたものの、すぐにその足を緩めた。
そうして辿り着いたのは澄み切った水の流れる小川のすぐそばで、足を止めた一行の横でグランナが木陰に腰を下ろす。
サティナはと言えば、小川の水を手で掬い上げると乾いた喉を潤している。
「少し休憩するわ」
アイリアもまた木陰の端に腰を押すと、太い幹を背もたれがわりに身体を預けた。間もなく喉を満足するまで潤したサティナが立ち上がると、ゆっくりとグランナの隣に腰を下ろす。
「…………」
無言のまま懐から取り出したのはありきたりな形状をしたナイフ。それを目にして見を細めるグランナの前で、サティナは自身の手首を切り裂いた。
「血族になってまだ間もない頃は、身体が順応するだけでも体力を使うと聞きました」
チラッと彼女が目を向けるのは大木にもたれるアイリアの姿。彼女は一瞬だけ二人の少女へと目を向けたかと思えば、すぐにどこか遠くへとその視線を戻した。
「その分、血も必要になるでしょう」
加えて今の時間は真昼間。いくら陽光に耐性があるとは言えど、やはり響くものはある筈だ。
差し出された生き血を前にして鮮血のような瞳に怪しげな光が宿った。痩せた光は渇望で、辛うじてその中に理性の色が見受けられる。
「──っ!」
一瞬その顔を背けたかと思えば、自ずと死角に立つ形になったサティナが間髪入れずに踏み込む。意図的に白い少女を意識から外していたことで反応の遅れたグランナの口元へ、サティナが未だに血を流す手首の内側を押し当てた。
「んぐっ……!」
抵抗しようにも既に背後からガッチリと固められた姿勢で上手く力が入らず、何よりも口の中に流れ込む生暖かい血の香りが彼女の理性を蝕んでいる。
「大人しく飲んでください」
感情を殺したように抑揚のない声が耳元に響いて、背筋を震わせる彼女の喉をその意思とは裏腹に血が伝う。
酷い渇きが満たせれていく満足感と幸福感。足元がおぼつかないほどの快感、目の前が歪んで見える中でただただ今を生きていると言う強い実感だけが空虚な身体を満たす。
「…………落ち着きましたか……………?」
暫く、腕の中の少女から抵抗力が消えて脱力し切った彼女の身体を支えながらサティナが問いかける。
「え……? んぁっ?」
恍惚として焦点の合わない目が自身を支える少女を見上げ、そうして間もなくして漸く状況が掴めて来たのかその瞳にはっきりと彼女を映し出した。
「──っ!?」
先程のやり取りを思い出し、今の状況も理解したのだろう。反射的に跳びのき、警戒の眼差しをサティナへと向けて……
「荒治療になってしまいましたが、意識ははっきりしているようですね」
血に濡れた自身の指先をその手首にかけて舐め取り、薄っらと細めた目の下で艶のある瞳が彼女を見据える。
ハッとしたグランナもまた自身の口端を伝う血をやや乱暴に拭うと、溜め息を一つ……ゆるりと背筋を伸ばして警戒を解く。
「……助かった……」
先程とは打って変わって異様に軽くなった身体を調子を確かめ、そうして無理矢理自身の体液を飲ませてくれた少女へと渋々ながら例の言葉を口にするも──肝心の彼女はまるで何事も無かったかのようにその腕の傷を癒すと、たくし上げていた袖を下ろして身なりを整えている。
「もう少し休んだら……」
軽く身体に付いた土を払い落とし、アイリアが言う。無造作に動いた赤銀色の瞳がグランナを見やり、その顔色は先程とは打って変わって良くなっていた。
「いえ、どうやらその必要もないみたいね」
彼女の言葉に従うようにレドゥズビアもまたズレた身嗜みを整え終え、ガラス玉のような無機質な瞳を二人の少女へと向けている。そんな彼の視線に応えるようにグランナは口の端を拭うと、二の足で立ち上がって見せた。
「では、先を急ごう」
アイリアの言葉に従って腰を持ち上げ、次の瞬間グランナが動きを止める。ゆるりと動いた瞳、その先に見えるのは色の抜け落ちた桜の花びらだ。
「喪桜、か? だがおかしい。まだ、先のはず……」
身構えながらも花びらが舞うその先へと足を踏み出すレドゥズビアの後ろ、三人の少女も各々獲物を片手に彼を追う。
「これはこれは、お久しゅうございます。未だご健在とは……龍神殿も喜ばれましょう」
直後、視界を覆いつくような森の木々の全てが爆ぜかと思えば、その全てが喪色の花びらと化す。その先に立つのは小柄な人影。
狐の面で顔を隠した人物。褪色の長髪を靡かせて、神主衣装とも巫女服の装束も言えぬ服装を身に纏った少女が立つ。
面の下でゆるりと動くのは、褪色の髪とは対照的に極彩に煌めく宝石を嵌め込んだような瞳。それは無機質でいながらも、どこまでも透き通るような煌めきを宿している。──愉快そうに細められた目の奥、それをサティナは見逃さなかった。
柔らかい口調とは裏腹に人を揶揄うことを愉しむような嗜虐と、その裏にあるのは強い攻撃性だ。隙あらば気紛れにその牙を彼等の喉元に突き刺すだろう。
口元を歪めると共に丸に近い形をした瞳孔が縦に細くなる。ゆるりともたげた手が髪を、そして狐の垂れ耳を掻き上げて……そんな奴の背後に現れたのは、九つの尾だ。だがソレは何故だか透けていて、まるで幻影を見ているようだ。
「『龍神の桜巫女』。何故、貴様がここに?」
剣を納めたレドゥズビアがよく通る声でそう問えば、彼女は軽く自身の耳の、そこに付けられている無数の装飾品……その一つに指で触れる。
「愚問どすなぁ。この身はただ、主の命に従っただけのこと……まさか一国の要人を攫いながら、報復を考えられぬような与し易い相手や思いんした?」
細い指先を四人へ……否、サティナへと向けて彼女は不敵な笑みを浮かべた。何よりも気掛かりなのには、彼女が示す対象はただ一人……
「改めて、お久しゅうございます……貴女のことは、よく覚えています。かつての……ただ、その姿を目にするだけで気圧されるほどの栄華は見る影もあらしまへんが……」
くつくつと、喉を鳴らして笑うその姿はとても歓迎されているよには思えない。
「何を言っているのか……」
「嗚呼、そうですか……そう言えば、記憶か失われていることは想定内でおりましたなぁ」
サティナの言葉に彼女は少し考えるような素振りを見せたかと思えば、その顔から攻撃的な笑みが消え、真剣そのものもに変わった。
「まぁ、ええよ……どうせ、あの怖い女子のことどす。記憶が無くなった程度でどないこないなる訳があらしまへん」
一人そう結論付けると彼女は視線が向くのはアイリアだ。その視線を敏感に感じ取った彼女が真っ向からその獣じみた目を睨み返す。
「それと、貴女が『血銀の女王』で、間違えあらしまへんか?」
「前にも誰かに言った気がするけど、そんな名は知らないわ」
切り返すようにそう言い放つアイリア。彼女の言葉に大巫女がその目を僅かに見開き、そしてどこか心得たような顔を見せる。
「そう、ですか? まぁ、私もよく知っている訳ではありませんから……ただ彼女の予言が外れるとも思わしまへんが」
顎に手を当てて僅かに身を伏せ、一瞬彼女の瞳がサティナを見やる。きっと彼女の言う"奴"とは彼女のことだろう。
「いや、"今は"まだ違う……と、言ったほうが正しいでしゃっろか」
長い睫毛の下、伏せた瞳がジロリとアイリアを射抜く。その眼力を真っ向から受け止め、彼女は一歩前へと出る。
「しかし不安の芽は、早いうちに摘んでおくに限りますなぁ」
考えるように口元に近づけていた腕を下ろし、舞い散る喪桜の花びらが彼女のでの中へと収束していく。
「私が引き受けたのは、サティナはんの同行のみ。他の不純物は好きにさせていただきます」
そんな彼女の手の中に現れたのは思わず目を奪われるほど美しい半透明の刀で、それを軽く一振りしただけで耳を劈くような暴風が荒れ狂う。
思わず目を見張るサティナの両端でアイリアが眼光鋭く彼女を見上げ、そしてレドゥズビアは未だ身構えることなく前に出る。
「おや? そちらの殿方は如何様に?」
無防備を曝け出すレドゥズビアの姿にさしもの九尾とて訝しげに眉を顰める。
「貴方にこの身が斃ぼると?」
「ふぅん……?」
レドゥズビアの言葉に彼女の声が一段と低くなり、その内心を映し出すように空が暗く陰る。身構えるサティナをよそに不死者の二人は、ただ背筋を伸ばして彼女を見上げるばかりだ。
「試してみるか?」
「……ふふっ……」
笑みを一つ、先程までの嗜虐的な雰囲気は消え失せて、残ったのは強い攻撃的な意思と鋭い殺気。そして、それを向けているのはレドゥズビアでもアイリアでも……ましてやグランナでもない。
──そう。彼女の殺気立った視線が向いられている先にいるのは、サティナだ。
「これも己が筋書きと、そう言う訳やわなぁ……」
サティナには見えない彼女を目の当たりにしてか、九尾の顔にあるのは強い警戒と……そして、隠しきれない怯えの色が見えた。
あれ程の力を有していながら、彼女は取るに足らないはずの少女に恐怖を感じてすらいる。あいるはそれこそが、『彼女』へ対する正常な反応なのかも知れない。
「…………」
荒れ狂う風の中に走る稲光がその激情を表しているようで……ただ恐ろしいだけの筈のソレは、花びらと稲妻が共に舞うその光景はあまりにも神秘的だった。
「人間も神も所詮は人でなし、か…… よう言うたさかいどす」
緋電を宿した瞳が四人を見下ろし、その頭上で雷電と喪桜が戯れる。ゆるりと背を伸ばして、妖狐が踵を返す。
「まぁ、ええやろう」
花びらと化して薙刀が四散し、そうしてもう一度振り返った彼女の顔には再び嗜虐的な笑みが貼り付けられていた。
「殺して死なぬか、試して差し上げましょう」
荘厳に着飾った見てくれとは裏腹に弧を描いた目の奥、その褪せた薄紅色の瞳に見えるのは暴力的な野性。──彼女は飼い慣らされた狐などではなく、枷に嵌められた猛獣なのだ。
「…………いえ、もう十分ですね。それに何より、この場所は争いを嫌う…… 亡霊の眠りを妨げてまいます」
そう言う彼女からは先程まで感じられた刺すような敵意が消えて、ゆるりと持ち上げた手が狐の仮面を取り払う。
その下から現れたのは端正ながらも、どちらとも言えぬ中性的な顔立ちをしていた。
笑みにも似せて歪むように開かれた口の中で、人間のそれとは比べ物にならないほど鋭い犬歯が何を意味するのか……それを知らないほどサティナも無知ではなかった。
「『龍神の桜巫女』、回天。貴女達の案内役を買うて出ました」
「…………何の為に?」
「そらもちろん興味があったさかいどす。実際、こうして相見えて想像以上でしたわぁ」
「………正気じゃないですね」
笑みすらも消え失せて、その穏やかな表情はまるで悟り切っているようにさえにも見えた。腰の高さまで無造作に伸ばした髪が花吹雪に靡いて、彼女の姿はより一層神秘的に映る。
ふと反応に困るサティナの横で、アイリアがその端正な顔を険しくする気配が伝わる。そんな彼女の視線に気が付いたのか、赤い少女が訝しげな表情をしていた。
「如何なさいましたか?」
「…………いえ、何でもないわ」
何かを言いかけて、しかし腑に落ちないと言った様子で首を横に振る。恐らく彼女は何かしらの違和感を覚えていて、そして自分自身もその正体に気が付いていないのだろう。
そんな彼女を気にした様子もなく、徐にエゾラが踵を返して丘の向こう側を見下ろした。
「これが、貴方が見たかった光景?」
振り返ることなくそう言う少女。彼女が何を問うているのか、不思議に思いながらその横に歩み寄れば身体が強張るのを感じた。
「…………あれは?」
彼女がそう言い示すのは何の変哲もない土地だ。──そう。ある線を境に全くの命が芽吹いていないことを除けば、ただの石と砂の大地だ。
確かに異様ではあるが絶句するほどの、まして全身が震え出しそうなほどの寒気を感じる筈もない。しかし現にその土地から漂う尋常ならぬ気配は生き物を寄せ付けず、動物はおろか植物の影すらも見えない。
「『潰滅の狂王』の名実が失われた土地だ」
サティナの疑問に答えのは後から追いついてきたレドゥズビアだ。青白く細い指を先へと向けて、彼は言葉を続ける。
「あの線を境に其処は冥界とさえも比喩されている。そして、それをしてのけた彼の者こそを神と崇める者も少なくない」
人智を超えた力。消えるのことのないその証が目の前にあって、何を疑うことがあろうか。──彼の者こそが『滅びの王』。
「……『滅びの王』……」
遅れて現れたグランナが彼等の会話を聞き、そしてただならぬ気配を漂わせた不毛の大地を見下ろして声を震わせる。
かつて、彼女が信仰してきた滅神信仰。長い人生で一度だけ彼は少女の呼びかけに応え、その冒涜的権能を振るった。
あの日の光景が脳裏に焼き付けて離れない。
恐ろしくも美しかったその姿は紛うことなき神の姿。
「ああ、貴女は知らなかったのね」
衝撃に震える彼女の横顔を見たアイリアが何を思ったのか、ゆっくりと口を開く。
「彼女がその指先、共謀者よ」
「──っ!?」
息を詰まらせ、そして食い入るようにサティナを見やる。その視線に耐えきれず僅かに身体を震わせた彼女へと歩み寄れば、グランナが震える声で問う。
「彼が、貴女を……? 何故……」
やや取り乱したながらも驚愕に目を見開くグランナの横、次に彼女の前に立つのはエゾラと名乗った少女だ。
「龍神様が貴女に興味を抱いた理由も、よう分かります」
「私がそれを知っていると?」
聞き返すサティナの言葉にエゾラが柔和な笑みを浮かべ、やんわりと答える。
「さて、どうでっしゃろか……? ただ、彼の伝説はいつでもどこでも耳にします。その割に正体は何一つ分からず、実在するかどうか……存在自体が謎、いえ幻に包まれてます。
それがどうして、貴女のような矮小な小娘が共謀者なり得はるのでしょうか? 彼は己に何を課しているのでしょうか? 唯一ソレに見初められた方は、何故こうも──」
絶え間なく言葉を続けるエゾラが思わず口を紡ぐ。何故か……その先ある少女の表情が言葉を紡ぐことを許さなかったからだ。
薄ら寒く笑う白い少女。目の前に立つ有象無象を嘲笑うかのような侮辱的な表情は今の今までアイリアも見たことがなく、何よりもサティナ自身そんな表情をするのはいつぶりか。
「彼に見初められた? 違いますよ。私はただ都合のいい道具に過ぎないのです。三年間付き纏ってた私を彼は視界に入れることすらありませんでした」
自虐的な言葉でいながら、しかしその言葉は心底他人への侮蔑を込めている。あるいは、それこそが彼女が長年胸の奥にしまっていた本音だったのかもしれない。
「全ては彼の筋書き。私は一度徹底的に壊されて、そして彼の手に馴染む道具として作り替えられた」
両の手を広げてそう言い放つ少女が何を言わんとしているのか、それを理解した時三人の顔に険しげな表情が浮かぶ。
「彼が幻? いいえ、彼はいつでもどこにでもいる。それは貴女がよく知ることではないのでしょうか?」
直後、三人の背後から強い閃光が走り、反射的に振り返った先には何もいない。ただ遅れて現れたのは耳を打つような雷鳴だ。
「…………ただの雷だ。あの地は不安定な力が滞留している。その一部が頻繁に雷として現れるだけだ」
グランナもアイリアも、そしてレドゥズビアすらもその顔色がすぐれない。妖狐の言葉を聞いても未だ半信半疑のまま警戒するようにサティナへとその視線を向けた。
「貴女は彼が私に何を課していると聞きましたね」
他の三人から遅れて再びサティナへとその視線を戻したエゾラへとそう問えば、彼女は肯定の代わりに無言を返すだけだ。
「その答えは、貴女と親密にある龍王が知っているのではないでしょうか?」
腑に落ちない様子でありがも、それ以上の探索は危険と判断したのかゆるりと彼女は視線を逸らした。
「そう、どすなぁ…… 今はそんなんにしときましょう」
そして振り返った彼女の顔には先程までの険しさなど微塵もなく、ただあるのは好奇に駆られた嗜虐だった。
軽く手招きして先へと歩き出す少女。そんな彼女を背中を見やり、取り残された四人が顔を見合わせて、肩をすくめるとその後を追いかけた。




