第二章終話 祝福を貴女にも
暗い夜の日、男は焦っていたと思う。──否、間違いなく焦っていたのだ。
奔流のように流れ込む記憶が頭の中で激しく明滅して気が狂いそうになった。目眩と耳鳴りが酷く、立っていられなくなったところまでしか覚えていない。
しかし、問題はそれじゃない。──これからのこと、そして失った信仰に報いなければならない。
「はぁ……」
拳を叩きつけ、起き上がる。それはいつか見た光景、またしてもしくじったのだ。
迸る力が死を克服しようと荒れ狂い、それが自身の身を蝕むのも意に介さず男は眼前に立つそれを見上げる。
神秘的なまでに美しい少女。赤い月の如き長髪を灰燼が混ざった風に靡かせて、ゆるりと血のような瞳が男を見下ろす。
何度、挑んだろうか。その度に叩き潰され、遠く及ばぬ存在であると認識させられた。
「これで、終わりかしら?」
男は無言のまま影の立ち昇る刀を手に取り、再び構える。
黒電迸る腕を伸ばし、掲げる。
雷霆をその手に──直後、赤い糸が鞭のようにしなって男の腕を絡め取った。
肉が引き裂れる感触もすぐになくなって、横目に見れば掲げた腕は肘から先が骨しか残っていない。それでも露出した黒い骨は断てないのか、赤い糸はそこで止まっていた。
「それは、もう見た」
骨だけの腕を引き、糸を逃すように絡めとる。あとはこのまま黒雷を──しかし、それを最後に男の意識が途切れた。
暗い空間で一人の少女が立っている。ぼんやりとどこか遠くような目で、それでいてどこか悲しげな、憂いを帯びた瞳が男を見遣る。
脳裏を過ぎる後悔と懺悔の念。終ぞ救うことのできなかった少女、彼の失った信仰の姿……そんな彼女を前に、男は毅然と言い放つ。
「────」
「俺は、選ぶぞ」
拳に力を入れて地面を打ち、身体を起こす。ゆるりと見上げたのは何度となく見慣れた姿で……目が痛くなるような美しい少女は同じ言葉を口にする。
「これで、終わりかしら?」
直後、少女の周囲から現れた無数の赤い糸。迫るそれを片手腕を犠牲に巻き取り、刀を振り上げる。天地を繋ぐ柱の如く、黒き雷が刀身目掛けて落雷した。
赤い糸も赤い霧も、その悉くを滅ぼして破壊の奔流が渦巻く。グッと握り込んだ刃をその手に、赤い少女目掛けて堕とす。
「これで、終わりかしら?」
赤い糸に絡め取られて、今度は下半身の殆どを失っている。それでも伸ばした手に黒き炎を宿して──しかし、そこまでだ。
「これで、終わりかしら?」
片腕を失い赤い結晶が男の全身を貫くいている。それでも爛々と赫く眼が少女を見遣り、周囲の景色が色褪せた。
「これで、終わりかしら?」
あれから、もう何度繰り返したことか。同じ言葉と同じ結末、その度に夢に出る白い少女は表情を曇らせていく。
それでは駄目だと知りながらも──否、だからこそ彼は決断したのだ。
赤い糸が迫る。その全てを影刀で切り落とし──刹那、何もない背後へ振り向けばそこで意識が途切れる。
「これで、終わりかしら?」
確かに致命傷を与えたはずの男を見下ろして、穢れのない血の如き美しい少女が言う。"一度"倒れた男はそれでもなお折れていない。
全身から立ち昇る赤黒い血霧を纏って、黒い男は無言のまま立ち上がった。
赫く赫く瞳に多重円、それを纏って円環十字が浮かび上がる。灼けた銕のような瞳とその烙印。
全身にのし掛かるような威圧感。力の差は歴然だと言うのに、その男が放つ雰囲気だろうか。──得も言えぬ感覚と、それでも確かなことは彼女は勝てないと言う直感。
赤い糸を打ち出し、男の身体を絡め取ろうとそれは交差する。──しか、"初見"である筈の攻撃を赤黒い男は、まるで何度も見てきたかのように最適解を取って捌き切った。
「──っ!?」
驚愕に目を見張る少女。今度は絡み取るなどと言う半端なモノではなく、それこそ男を微塵切りにするようは密度で糸を張る。
──だと言うのに、バチバチと黒電を纏った刀を一振りすれば、ただの一撃で緻密に練られた血糸は綻び解れ、瞬く間に崩れ去った。
彼女の練り上げる糸を、どこをどうすればどのように影響が出るか知り尽くした──それこそ、彼女自身すらも気づかない、決定的な弱点を知っているように。
ハラハラと崩れ去った糸の向こう側、ゆるりと動いた邪眼が少女を見上げる。──瞬間、絶望した。刹那の間に打ち出した血の強襲はその悉くが討ち払われていたのだから。
──化け物だ……
術者本人すらも把握しきれていない弱点と欠点、その全てを間髪して最小限の動きで最適解を押し付ける。弱小の人間の身でありながら、確かにその攻撃は遅い。──だと言うのに、それなのに……彼の攻撃は最大限の効果を持っていた。
どうすればそこまで辿り着けるのか。才能や努力などと言う次元ではない。──才能があるなら、努力が実っているのならもっと速く鋭い攻撃ができたはずだ。
確かに才能はある、血の滲むような努力をしてきたのだろう。それでも彼女の動きにはまるで付いてきていない。
──なのに、なぜ……
単純明快、それは読みだ。絶技とすらも称されるほどの読みの能力。それこそ未来視の能力を持っているとさえも思えるほど、彼の読みは何よりも鋭かった。
彼女の攻撃を、その本質を看破し、確実に欠点を見抜き、弱点を突く。──まるで何度も経験してきたかのように、それは最適解を通って。
「…………」
血の糸を諦め、代わりに大鎌を形成する……瞬間、男の姿が眼前にあった。気が付けば胸を貫かれていて、しかし一歩遅い。
霧化した少女が距離を取ろうと──しかし、それは叶わない。身体の芯まで響くような衝撃を受けて、霧は実態を持った。
──なんだ……!?
揺れる視界の中で踏み込み、地面を破る男の姿が見える。その右足には黒電が絡み付いていて、その震脚が霧化すらをも無効化していたのだ。
震えた。身体が震えて、恐怖で腕が重くなるのを感じる。
張り巡らした無数の血刃、その全てが男の身体には届かず……少女の目から見れば遅いとまではいかないものの、決して速くない動きで彼は完璧なまでの最適解を導き出す。
思わず見開いた目の中に映るのは無数の破片を周囲に散らせて、それでも傷一つない男の姿。全てを先回りし、まるで嘲笑うかのように悉くを無力化する姿にただただ恐怖した。
いくら策を講じようとも全てを見切って、彼女の知らない領域にて無意味と断ずる。全てにおいて高次元に立つ男に戦慄した。
「くっ……!」
突き出した刀を避けようと大きく距離を取り、しかし遅れて肩から血を吹き出す──否、血が出ているの肩だけではない。
肩から胸、脇にかけてバッサリと切られていた。それでもすぐに再生して……しかし、傷が治られない。
遅れて気が付くのは、男が追撃に来ないこと。それが意味することを理解し、そして震える手で自身の胸に触れた。
──心臓を、取られた……
胸に触れ、確かに感じるはずの鼓動がない。──それどころか、手で触れるだけでもわかるほどの大穴が胸に空いていたのだから。
「……嗚呼、そうか……」
ゆるりと振り返る瞳を見て、少女は一人納得する。油断のない視線、このあと彼女が何をどうするのか……まるでその全てを見透かしたような瞳。
彼は知っている。
彼は識っている。
突拍子のないことだが、その時に直感した。彼は繰り返し、少女と対峙しているのだろう。
殺しても死なない不死者。その伝説は知っている……知っていた、つもりだった。──でも、そうではなかった。
使命を果たすその時まで歩みを止めることのない超常的存在。死を超越し、決して道半ばで朽ち果てることはない。
──しかし、違った……
彼等は確かに死を超越していた。"一度"殺しても、それでも立ち上がってきたのだ。
だが、それだけではなかった……彼は死を繰り返しているのだ。
死を糧に、死に生きている。
彼の能力は絶大だった。防御不可の攻撃、回復が出来ない呪い。──しかし、その動きと攻撃力は弱小種の人間のままで、決してその域を出てはないかった。
──では、何故これほどまでに……
単純明快、それは全て彼の手の上だったからだ。繰り返し、繰り返し男は緻密な計算を組み立ててきたのだろう。
まるで全てがそうあるように、それが当然の流れであるように彼の都合がいいように少女は動かされていた。
恐らく、次の一手も読まれていることだろう。あるいはそれを想定して動きを変化させようにも、それすらも読まれている可能性すらあった。
──勝てない……
直感は確信に変わり、その顔からみるみると血の気が失せていくのを自分自身でも感じている。力の差では覆せない……もっと、絶望的な次元の差を感じた。
「──でも、これは見えているのかしら?」
両の手を下げ、そこに顕現する細剣。一もなく二もなく、まるで思考を放棄したような愚直な突進。
速く、ただ速く……読まれていても躱せない速度での突撃。両の手に血の糸が絡みつき、それは螺旋を描いて鋭く刃を尖らせる。
「……いいや、それも見た……」
案の定、男はまるで前にも同じ経験があると言う。少なくとも少女はこんな攻撃を過去、誰かに行った記憶はない。
それでも彼がそう言うのなら、きっと間違いはないだろう。──そう、きっと黒い男は死を繰り返しているのだ。
「それなら──!! どうするッ!?」
地面が盛り上がり、無数の血結晶が突き出す。とても避けられないと思ったその攻撃も、いざ蓋を開けてみれば皮一枚を切らせて悠然と男は立っている。
全ての攻撃がどこから来るのか、どこに立っていれば攻撃が届かないのか。その全てを熟知して、最小よりもなお最小の動きで外してみせた。
──でも、関係ない……!!
両手の剣を突き出し、錐揉み状に回転しながら無数の糸が迫る。硬質な結晶を豆腐のように切り裂いて眼前へと──きっと、これも躱されるだろう。
──それでいい……
看破入れずに霧化、赤い糸をすり抜けて追い越し、男の眼前に立つ。自身諸共切り刻む算段、それまで男を釘付けにすればいい。
閃く刃と四方から押し寄せる結晶、いくら最適解を知って最も全てを捌くことなど不可能。少女からみれば眉を顰めたるなるような遅い動きで、それでも目を見張るような絶技を持って完璧に近い形で捌いている。
──だが、それもここまでだ……!!
男の身体にはみるみる傷が増え──次の瞬間、その腕が飛んだ。──完璧な回避だった。敵ながらも惚れ惚れするような洗練された動きで、しかし限界はある。
片腕を失って、それでも男は数瞬を繋いだ。
──見事と言う他ない。もし少女が同じことをしてみろと言われれば、百回挑戦してもその域には届かないのだろう。
故に、彼女の疑惑は確認に変わった。目の前に立つのは死を繰り返し、使命を果たすその時まで不可能に挑み続ける存在だ。
あと一押し、踏み込んだ少女の身体が硬直する。
──嗚呼、まさか……
片腕を失って、それでも男は一撃入れた。襲いかかる全ての攻撃を捌き切り、そして少女の喉を貫くにまで至った。
心臓を失い、喉を食い破られて……それでも彼女の血界は男を逃していない。あと数瞬間もすれば二人の男女は細切れにされて──そうすれば、いくらこの男でも立ち上がれない。
「──ッ!!」
それでも、ありったけの力を込めて力を練り上げる。狙いはどこでもなく、ただただ規格外の力を持って周囲一帯を根こそぎ抉り取る。
「源滅光」
まるで深淵の底から響くような深い聲が耳に届く。ゆるりと動いた男の目に映る覚悟、その深さを間近に見えて魂から震え上がった。
血界が閉じ切り、間もなく血の奔流が吹き出す。辺り一帯を飲み込み、次元を支配する権能がその真髄を発揮する。
同時に周囲に立ち込めるのは黒き灰……血の奔流を飲み込み、光の柱が天にまで昇る。
見渡す限りの全てに広がる黒炎の海。ジジジッと光の中央で黒電が迸り、遅れて聞こえるのは不協和音を奏でる雷鳴。
全身が焼け爛れた姿で、尚も悠然と佇む一つの影。
その足元に転がるのは、血の支配者たる姫君の姿。
「……まずは、一柱……」
もう動かなくなった少女を見下ろして、男がその胸に手を触れる。ゆっくりと沈み込ませた手の中に現れるのは再生しかけた心臓。
「…………」
それを天へと掲げて……次の瞬間、男はその手で心臓を握り潰す。溢れ出した神血を浴びるように飲み込み、流れ出した血が滴り落ちてそれが止むまで待つ。
間もなく腕を下ろし、遅れて顔を下げる。一度、足元に転がる少女の亡骸を目にしたかと思えば、次の瞬間にはまるで興味を失ったように踵を返して歩き出す。
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それからどれほどの時間が経っただろうか。せいぜい数刻と言っところだが、それが異様に長く感じられた。
──ようやく、終われるのかしら……
彼女の弄する策の悉くを打ち破り、あの男は最後に欲しいものを手に入れた。思い出すのは彼女の全てを見透かし、その手の全てを看破した男の瞳。
少女の全てを、その内側を無理矢理にもこじ開けた男。
彼女が隠し込もうとした全てを見透かした瞳。
勝てるはずがない、勝てるわけがなかったのだ。一度、男を殺した時に少女は既に彼の術中に嵌っていた。
まるで別人のような動き、彼女の出す技や術は意味を成さず……あろうことか、あの男は少女自身すらも知らない最適解を押し付けてきた。
全てを見透かしたような瞳、それを目にした時から彼女はもう囚われていたのだから。どれだけ手を尽くそうとも、彼は当然のようにその上をいくだろう。
終わることに恐怖はない。寧ろ、心地よさすらも感じている。
それでも唯一心残りなのは残してきた義妹のことで──
──何、その顔……
ゆっくりと震える瞼を持ち上げれば、彼女はそこにいた。
耳元で聞こえず、目も片方見えていない。残っている方ももう殆ど写していないが、それでも彼女の姿はわかった。
ひたすらに泣き叫び、姉の亡骸を抱えて嗚咽を漏らす妹の姿。
せめて彼女だけは、と──ゆっくりと残った方の手をその頬へと伸ばす。
こうなってしまった以上、妹は決して平坦な人生を歩むことはできないだろう。何度も傷ついて、何度も傷つけて……世界を呪って、自分を呪う。
きっと彼女はそんな風に生きる。願わくばそんな人生を歩んで欲しくはないが、逃れはれない運命だ。
──それならせめて最期に、この娘に祝福を……
手に触れた頬に血がつき、端正な顔が汚れることも息介さず妹はその手を取って咽び泣くばかり。そんな彼女にせめて報いるため、赤い少女が微笑んだ。
それは祝福でありながらも、決して癒えぬ呪詛を妹に刻む。不可能に挑む使命を、呪われた運命に生きることを定めたのだ。
決して道半ばで朽ち果てることは許されず、血が流れる限り彼女は死に物狂いで戦い続けるだろう。
そんなことなど梅雨知らず、力無く落ちた手を握り、その身体が崩壊するまで見守る。遺された少女の名をアイリアと言う。
彼女こそが『血銀の女王』、アイリア・エイドルフィン。世界に十三存在する不死者がその一角、王の名を冠する鮮血の支配者。




