第八話 薄氷の上で
結局、次の街へ辿り着いた時には既に日が暮れていた。幸いと言っていいのか、多少魔物に襲われることはあっても、あれほど激しい戦いを強いられることなく済んだ。
まずは外套を買い揃えようとも考えたが、ふと見上げた空は既に日も暮れ、どこまでも暗い。
ため息を吐くと、その日は適当な宿を借りて夜を過ごすことに決めた。
──誤算だった……
心なしか項垂れた様子で街を出るサティナ自身の纏う外套を見やる。それは昨日から同じものであり、少しばかし彼女自身で見に合うよう見繕ってはいるものの、いかせん無理が残っている。
外套を購入しようにもどれもサイズが大き過ぎれるのだ。魔族と言う種族の体躯が大柄である関係上、当然と言えば当然だが小柄な者に合わせた衣類が一つとないことにはさしものサティナとて絶句した。
こうなっては態々サイズの違うものを買う必要もなく、今の持ち合わせである外套を自分なりに調整することにしたのだ。
──しかし、無い物ねだりしても仕方ないか……
致し方なしに、と諦めをつけるとその足で街を出た。
ふと見上げた魔王城。その大きさは先日から変わらず、まるで近づいているようには見えない。
あまりの大きさ故にそう錯覚しているのか。はたまたサティナの辿った道など未だたかが知れているのか。
恐らくは、どっちもだろう。
目の前に広がる魔界特有の荒廃した土地にも見えるそれは、以外にも生命が存在している。木々は少なく、しかし確かに聳え立つ樹木は下界のそれとは比較にならない大きさを誇ってきた。
下界の方が数とするのなら、こちらは質とも言うべきだろうか。他を踏み躙ってでも己が生き残ることを優先する我の強さ、他者へ行き渡るであろう養分まで吸い取り、自身の強化に用いる。
食物連鎖の最下位に位置する植物ですらこれだ。その上に立つ魔物が凶悪でない筈もないだろう。
──また、か……
カチカチと歯を打ち鳴らしてサティナを舐め回すように見下ろす一体の魔物。ジリジリと警戒するように彼女の周りを回って、だが不思議と襲ってくることはない。
少女を見下ろす暗い色の瞳を真っ向から睨み返し、一歩として動かない彼女の反応に飽きたのか……一つ鼻を鳴らすと鳥などよりもなお速く地を駆けて行った。
間もなくその姿が見えなくなると、サティナもまた駆け出す。
もう魔界に来て十数日。今や魔王城はその全貌が見えないほど近くに見えていた。
──もうすぐだ……
もう、すぐ魔王城の足元である魔王都に辿り着く。
近づくに連れて強くなる魔王の圧力と、それに耐えうるだけの力を持った猛者。その悉くが集う魔境を目指して──
ー・ー・ー・──・ー・ー・──・ー・ー・ー
ただひたすらに広大な魔王都。そこに行き交う者達は誰も己が力に自信を持っている様子で背筋を伸ばし、胸を張り、無意味無駄な威嚇はしないもののその眼光は鋭く、何よりもただ歩いているだけの者達は誰一人として隙が無い。
もしも魔界へ間もない頃、よく出くわしたスリかどを働こうと思えば瞬く間にその思考すら看破され、すれ違いざまに首を落とされかねない。
──それに……
相変わらず周りの魔族達は非常に大柄だ。当然、ここに来てそれは変わることはない。だが、彼女の目を引くのは長身の人間とそう変わらない体格の魔族だ。
姿形は人間と全く区別することは出来ず、多少高い背丈も珍しいと言うほどのことでもない。唯一の違いと言えば、人間離れした独特な紋様の色彩と鮮やかな瞳だ。
彼等こそが数いる魔族の中の種で最も力を持つ種族、魔人だ。事前に聞いていた情報通り、行き交うその数自体は少なく、しかしそこから発せられる力は尋常ではない。
相手側もサティナを魔人と認識しているのか一瞬視線を向けるも、すぐにその視線を外した。恐らくは無駄な争いを避けるためだろう。
人間達の住まう下界にて、その育ちの地にて何度となく魔族、魔人と恐れられて来たが実際にその存在を目にした今、彼等の過剰とも思える反応は当然のモノであったと理解できる。
──それにしても、視線を集めるな……
魔族視点であれば比較的小柄な魔人。しかしそれでも人間から見れば十分長身な彼等と違って、今のサティナはかなり小柄だ。
男女問わず一八〇前後の彼等に対して、彼女の身長は約一六五ほど、確かに異質にも見えるていることだ。
最悪なことに彼女は自身の師事をする男の癖に倣い、常日頃から覇気も気配もない。そんな少女を側から見れば、人間が紛れ込んでいるようにも見えるだろう。
非常に小柄で、その身を隠すように大きな外套を羽織っている。
覇気もなく、気配も希薄、力も感じられない。
怯えた様子はないものの、まるで獲物のように存在感を消すその様はやはり彼等には異質に見えていることに違いない。
しかしそれでも、この魔王都に立っている以上は彼女も一定の実力を持つ強者なのだ。それを知るが故に、彼女の纏う雰囲気との差に違和感を持つのだろう。
──もう少し中心近くに向かおう……
まだまだ魔王都とは言えど末端である。それでも駄目だと言うわけではないが、もう少し中心へ向かってみてもいいだろう。
そう考えつつ、足を進めているとふと行き交う者の一人にぶつかりそうなことに気がつき、サッと道を開けて身体が当たることを避けた。
──さて、まだ日没までは時間がある……
ふと空を見上げ、日を確認して、
──いや、もう十分か……
ここまで定期的に休みを取りながら移動して来た。それは最も危険な地に足を踏み入れる際に万全を期すためだ。種族柄、不眠不休で何日も動けるが、それでも油断は出来なかった。
たが今は、最も危険な地にいるのだ。そして、何よりもここが正念場でもあった。悠々と休んでいる暇などない。ゆっくりと顔を持ち上げ、今や頂など最早見えなくなった魔王城を見上げる。
──さて、あまり道草を食っている暇はないか……
フードを深く被り直し、一度止まった足を再び動す。
──まさか、そんな……
食を口元へ運ぶ手が震えるのを懸命に抑えながら、サティナは先程の出来事を思い出していた。何とか落ち着こうと早すぎる時間帯から近くの飲食店にて久方ぶりの食事を摂っているが、まるで味が分からないほどに動揺している。
──まさか、魔導王が四天王の一角とは……
何となく気になった四天王と言う存在。今の彼女には無関心なことだと旅を急ぐあまり、興味も抱かなかった彼等を知ろうと思ったのは、ただの気紛れでしかなかった。
しかし、そこから得られた情報はあまりに非常で……ある意味では納得いくものでもあった。
まるで頭を殴られたような衝撃と共に、何とか落ち着こうと自身へ言い聞かせて数時間経つ。
魔導王が四天王の一角であったとこにはそれなりに驚いていたが、それ以上にその可能性を疑ってすらいなかった自身の無能振りに呆れ返っていたのだ。ましてや、その後に得られた情報を照らし合わせれば大きく遠回りさえしてるのだから、目も当てられない。
──神様がこのことを知れば何で言うか……
──いや、あの人のことだから何も言わないか……
ふと思い出すのは黒髪の男。自身の失態が彼に伝わったとして、しかしあの男は何も言わないだろう。そう、いつも通り何も言わない。
──それはそれで堪えるけど……
所謂無言の圧力である。しかし今はそんなことよりも、頭を向けるべき問題があり、
──摩天楼、か……
魔王の目の届かない所に四天王達は摩天楼を持ち、そこから魔界を管理していると言う。幸いにも魔導王が居座る摩天楼の位置も得られたため、後はそちらへ向かえばいいだけなのだが……もう少しこの魔王都で可能な限りの情報を取得しておいても損はないだろう。
そう思って数日。結果からすれば大した収穫もなく、魔導王に関する詳細を調べようにもいくつか危ない橋を渡る必要があった。元より渡る必要のある橋であるため、何も躊躇う必要は無いとも思っていたが、いかんせん気が引けた。
──下手に嗅ぎ回っていることを知られる訳にもいかない……
──しかし、情報不足も命取りになりかねない……
食べ終えて店を出でも尚、どうしたものかと再案を繰り返す。そうして思考に没頭しすぎたせいだろうか周りへの注意が散漫になり、不意に肩がぶつかった。
本来であれば互いに揉め事を避けるために、ただぶつかっただけならそのまま不干渉を貫く筈だ。
しかし次の瞬間、その考えが甘いことを思い知らされる。
「──っ!!」
少女のか細い首目掛け、目にも止まらぬ疾さで凶刃が迫る。既にすれ違った後で、背後を取られる形に死角から放たれた一撃はどんな歴戦の猛者でも躱すことは不可能。──事実、彼女もまた首の皮に触れて、そうして初めて気がついたのだから……
──しかし、サティナは首の皮一枚切らせてその刃を躱して見せた。
「はぁ……はぁ……」
跳び退き、左手で傷口を抑えてその者へ向き直る。人間など比較にならない巨大な体躯と、その手にしているのは尋常ならぬ刃渡りを持つ大剣と言う名の鉄塊。
もはや切るためではなく叩き潰す用途で造るられたかのようなそれを、目の前の男はまるで小枝を振るうような速度で切り付けて来たのだ。
──まさか、いきなり切り掛かってくるなんて……
今の一撃でサティナが常時身に纏っていた結界は剥がされてしまった。とは言えあくまで結果は保険であり、あまり当てにはしてはいない。それでもこの一撃による精神的な衝撃が大きく、動揺が今後の動きに影響する可能性があった。
「初めこそ、簡単に道を開ける臆病者かと思ったが……その身のこなしと、実力にしては随分と脆い結界」
太い声が木霊する。時間帯的にも人のいない通りで、その声はいやに大きく聞こえた。
「……どう言うつもりだ?」
「その言葉、そっくりそのままお返ししましょう。いきなり切り掛かるなんて一体どう言う了見ですか?」
全く話しの通じそうにない男へ質問を返す。しかし彼はその質問を聞いている素振りもなく、
「何故、貴様ほどの実力者がおいそれと容易く道を開ける?」
「そんなくだらないことで争いたくないだけです」
「くだらない、か。貴様にはそう見えるのか?」
「道は誰かのものではありませんからね。互いに譲り合うべきでは?」
「面白いことを言う。貴様、まさかと思うが人間か?」
「生憎と人間の血は流れていないんです」
そう言う否や、その証拠と言わんばかりにフードを外し、色鮮やかかつ独特な色彩を持つ瞳を顕にした。
「やはり魔人の血統か。ならば、尚更負に落ちぬ」
「何のことでしょうか?」
「まるで覇気もなく、今にも消え入りそうな気配は死人のそれだ。よくぞそれで生き永らえ、挙句の果てには争いたくないと嘯く」
「争いたくないのは本心です。貴方のように無闇に血を流すことは好きではないので……」
反発するようにサティナが言い放てば、男がフードの下で不気味な笑みを浮かべた。
「ほう? それこそおかしな話だ。貴様はここにいるどの魔族よりも強い死臭がする。それこそ、夥しい数の屍を築き上げたのではないのか?」
その言葉を聞き、サティナがハッと目を見開く。かつて罪人狩りと称し、彼女の中の、彼女の判断で罪深き者を数多手にかけて来た。
人を殺した者とそうでない者では明らかに一線を逸する。相当量の命を奪えば、殺してきた人々の、隠しきれない呪怨が彼女の周囲で蠢いているのだろう。
そして何より、それをこの男は見抜いているのだ。
「初めて会った時から不気味な女だと思っていたが、改めて向かい合って見れば一目瞭然だ」
絶句する彼女を余所に、男は尚も続ける。
「それに何だ、あの結界は? オレの剣には全くの無力じゃねェか。アレじゃお粗末な剣や矢程度しか防げねェ。ましてや魔法に対する効力は皆無だ」
「生憎と結界魔法は苦手でして……」
直後、男は目を見開き……そして人を喰ったような笑みを浮かべる。
「そいつは笑えない冗談だぜ? テメェほどの実力者があんなお粗末な結界しか使えない筈がねェ。一体何を考えてあんなお粗末な結果を……」
そこで男が言葉を詰まらせたように、まるで驚愕に目を見開くようにしてサティナを見下ろした。
「そうか! そう言うことか! やはりお前は他とは一線を逸した化け物だ!」
心底面白いそうに、それでいて何か可笑しく笑う。しかしその目にあった筈の疑問は消え失せて、代わりにサティナを見る瞳に映るのはそれこそ理解すら及ばない化け物を見るような目で……それなのに、恐れは微塵もない。それは未知の遭遇に心躍らせる少年の如く。
「まさか結界を攻撃の探知に使うとはな。確かに周囲へ常に意識が向けられる索敵などの魔法は勘付かれやすい。
こちらから見えている以上、相手からも見えている。だが、それこそ身に触れるほどの距離でなければ周囲に干渉できない結界を、ましてや受け身であるが故に秘匿が容易なそれを攻撃の探知として使うとは考えたものだ」
索敵や周囲を警戒するための魔法。それは肉眼からの死角に於いても問題なく見通すことができる。しかしそれは同時に相手からも同じこと。
こちらから見えていれば、相手からも見える。
何の細工もしなければ、暗がりに漂う光源を探し出すように容易に勘付かれることだろう。
魔法にしろ何にしろ、本来こちらから発信している以上、相手の視界に映り込む可能性は拭いきれない。しかし受け身である結果のように、触れることで初めてその存在を現すものであれば相手には気づかれにくい筈だ。
何よりもそれを確かめるには触れてみることが必要であり、それはまた相手の視界へ、その間合いへ入るも同義である。
おいそれと踏み入れられる領域ではなく、未知数の相手に取る一手としてはあまりに危険すぎる。
例えるなら索敵魔法が光と視覚を利用しているのに対して、結界は視覚のない状態で肌を利用しているものだ。不意に、相手の許可もなしにその肌に触れれば殺されても文句は言えないだろう。
だからと言って光があって視覚が機能すれば、その光源など容易く見破られる。彼等が視線に敏感なように、索敵魔法による監視は逆探知されかねないのだ。
だが同時に、肌のように触れて初めて分かるそれは……当然ながら、触れるまで分からない。
視界が機能している者とは違い、攻撃を受けた際に相手の予備動作を感知することは出来ない。だが、触れることで的確に攻撃を受ける場所は分かる。当然、反応は遅れやすいものの相手からすれば目の見えない盲目の獲物だ。
何よりも無防備に映ることだろう。
油断を誘う方法としてはまた最適解の一つであり、そこから反撃を繰り出されればどれだけの者が避けられるかーー
しかし生憎とサティナには反撃する余裕はなかった。やはり予備動作を見ずに、攻撃が肌に触れて初めて反応出来るようではやはり実用的ではない。
それだけに、そんな発想を思いついた者の狂気を理解することは出来ない。ましてや、それに命を預けているサティナを例えるなら狂気の沙汰と言ってもいいだろう。
「お前とは気が合いそうだぜ」
「いきなり切り掛かってきて何を言い出すと思えば、正気を疑う発言ですね」
「オレは元々、結界が嫌いなんだぜ。強い結界は維持するだけで膨大な能源を消費し続ける」
そう言う男の声には僅かな怒気が滲んでいた。
結界魔法は確かに護身としては非常に強力ではあるものの、維持しているだけで力を消耗し、相手が放つ攻撃を受けた際、相手が攻撃に用いたそれよりも明らかに大きく力を消費してしまうのだ。
何よりも結界魔法の維持には常にそちらへ注意を向けている必要があり、攻撃や回避などの動きへの意識が散漫になる。それ故に結界魔法は守りを代償にそれ以外の能力を落とす必要があるのだ。
そして何よりも、この男はそれが気に入らない。
その者が持つ本来の能力が損なわれることが悔やまれて仕方なのだ。
「何より自分は守られていると言う安心感が、技を鈍らせるのだ。加えて、結界を引っ掻けばそれだけで膨大な能源が吸われ、吸われた能源の分だけ能力は落ちる。
身を守るために、皮肉にも身を削ってきた奴をもう何人と殺して来た。全身全霊を持って反撃して来りゃオレを殺せたかも知れねェ強者どもが、我が身可愛さにくだらねェ結界を必死で維持しようとしやがる」
生死の間で爛々と輝く瞳がサティナを見下ろす。まるで初めて惚れた相手を目にした時のように生き生きとした……それでいて、強い熱を帯びた視線をサティナへ向けた。
「だが、てめェは違う。オレの剣を避けた! 確実に避けられないと確信した好機で放った剣を避けられたのはいつぶりか!」
他の者達が結界などで防ぐ中、サティナは珍しく躱すことで避けた。それは日頃の彼女の癖である。
攻撃は受けるのでなく、避ける。出来るだけ最小の動きで、刹那でも疾く反撃へと繋げられる回避。それは彼女があの男に叩き込まれた技術だった。
攻撃を武器で受ければ反撃に遅れる。
結界で受ければ体力を大きく奪われる。
だから、彼女も彼も攻撃を極力避けて来た。そう、それこそ彼女が魔界で争いを避けるように──
「初めて、小さな街の宿で見た時はまさかと思ったぜ。だがなァ、今ので確信した。貴様はその辺に彷徨く有象無象とは違う、本物の強者だ」
より一層、興奮状態に入る男。そんな彼から放たれた言葉でサティナがハッとした。
彼が先程から口にする言葉はまるでサティナを知っているようで、そして初めて彼と面識を持ったのはあの小さな宿で道を譲った時だ。
あの時からこの男はサティナに目をつけていたのだろう。
「だが、惜しい」
嬉々とした表情とは裏腹にその声は悔しそうで、
「ここで生死を賭けることが出来ぬことがまこと惜しい」
そう言うと、男が武器を納める。そんな彼の仕草に思わずサティナが目を見開いた。
てっきり、この男の様子ではこのままどちらかが死ぬまで殺し合う必要があると思ったからだ。
「生憎と死ぬ前にやらなくてはならぬことがる。それが終わった時、今度こそ殺し合おうぞ」
奴とてサティナと殺し合えばただで済むとは思っていないようだ。いや、狂気に呑まれているようで意外にも観察眼に優れて、頭も回るようだ。
そうでなくてはサティナにここまで粘着しないだろう。それこそ宿で会った時点で雑魚だと判断し、興味も持たないような矮小な者達とは違うのだから。
去っていく男の背中が見えなくなるまで見送り、そこまでして初めてサティナも足を動かした。
心の底から戦いを求める男。その強い闘気を間近に感じて、サティナの心臓が激しく脈打ってる。
生死を定める分岐点にして、彼女の身体が反射的に身構えていたのだ。迫り来る死を回避するだめ、肉体能力を限界まで引き伸ばそうと──
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
薄暗く、しかしだだっ広く開けた空間。その周囲は漆塗りのような光沢を持つ黒を基調とした石造りで、そこに描かれる繊細な装飾。
繊細かつ緻密な装飾は存外に素朴な色合いで、褪せているようにも見えるその色彩は地味にも見えて、しかしそれだけに素の装飾が際立って見えていた。
周囲が石造り故かどことなく肌に感じる空気は冷たく、何よりも目の前に座する存在が発する圧力は埒外だ。耐性のない者であれば彼の前に引き摺り出されただけで意識を保つこともままならない。
「…………」
そんな彼女の背中に見えるのは漆黒の翼。三対六枚の巨翼は地面と垂直になるように畳まれており、赤みがかった黒髪の下、真紅の瞳が眼前にて跪くその者を見下ろしている。
身の毛もよだつほど整った顔に僅かな陰りを落として、その者が口を開く。
「……まさか、この私が招集をかけて現れたの貴様一人とはな」
静かに、しかし魂にすら響くような重さのある声が木霊する。低く、重く、どこまでも温度を感じさせない声を耳にして、微かな動きすらも見せない。
一見すれば怒りを抱いているようにも感じるその声。しかし付き合いの長い彼女にはその声は呆れだけが滲んでいるようにも見えた。
スッと女が目を細める。それだけで身体の芯から凍えるような悪寒が突き抜けた。
「まぁ、良い。私の方も伝達が雑なところがあった故、全ての落ち度が貴様等にある訳でもあるまい」
柔らかな言葉とは裏腹にその声は冷たく、
「ここからが本題だが、貴様が残りの者を連れてこい」
下された命令は絶対だ。それが王の決定であり、何人として彼の意向に背くことなど出来はしない。
「例え首だけにしてでも、な」
ただ首を垂れ、石張りの床の一点を見つめ続ける。その視界が歪み始め、不調を誤魔化すようにして瞼を閉じると、より深く頭を下げた。
「御意」
掠れそうになる声に力を込めて、何とか絞り出せたのはそれだけだ。しかしその声が消え去るよりも早く、変化が訪れる。
あれほど強大だった威圧感は薄れて、瞼の下で眼球を動かして、ゆっくりと瞼と頭を持ち上げれば、既に其処には彼の絶対強者の姿はなかった。




