最初の合図
「───きろ───起きろ……起きろ、天宮城!」
その声は沈み行く意識を手繰り寄せるように脳に響く。
しかし体はまだ気怠く、思考も鉛のように鈍って比例するように頭も重い。
まだ寝ていたい気分だが、気怠い体をこまめに揺すられ寝つくどころの話ではない。
「ん…………」
体を起こすのはまだ億劫なため、彼は唸って自分を現実へ引き戻そうとする何かに“ 起きた ”と合図を送る。
途端に体を揺する動きは止まった。
それから体感で約十秒後、彼はため息混じりに重い頭を持ち上げる。
一度目の呼び掛けに素直に応じたというよりかは、二度目の祝福を前に起こされる方がよっぽど目覚めが悪いからという妥協案からだ。
目を擦り、天宮城斬鵺は重い目蓋を必死に持ち上げる。
「よう、目が覚めたか?」
まだ半開きの僅かな視界に映り込んだのは、見慣れた男子生徒の姿だった。
シャツは第一ボタンまでしっかり留め、ネクタイも緩みなく引き締まり、知的な細眼鏡に堅苦しい表情で覗き込む制服姿の男子生徒。
「……なんだ、優か……」
「呑気だなお前は……もう六限目終わったぞ」
見慣れた光景に安堵したのか、斬鵺は思わず憎まれ口を叩く。
その一方で、寝起きの不機嫌そうな友人の態度を涼しい顔で見過ごす優少年。
桜浜高等学校に通う普通科三年の二階堂優は、クラス内だけでなく校内でも非常に信望が厚い生徒だった。
昨年度まで生徒会長を務め、多忙を強いられていた傍ら成績は学年トップを誇る秀才だ。
礼儀正しく勤勉で真面目な性格。
まさに生徒たちの理想像であり、手本そのものだ。
その一方で。
授業中のほとんどを惰眠に費やしていたのは、同じく桜浜高等学校に通う普通科三年の天宮城斬鵺という少年だった。
彼は昨年度の三学期からこの高校に転入してきた異例の転入生という立場にあった。
だが、特に目立つような気質ではないため、クラス・校内共に評価対象にすらなっていない、というのが偏屈な彼の自己会見だ。
あまり手入れのされていない黒髪に、170センチ前半の身長と標準の体つき。
決して美男子というわけでもなく、常に持ち歩く財布の軽さに肩を落としながらバイトに明け暮れる、凡庸でありふれた男子高校生、というのが客観的に見た斬鵺の少年像である。
「ほら、ノート貸してやるよ」
既に帰り支度を済ませてある優の鞄から数冊のノートが斬鵺の前に差し出される。
それをサンキュー、と言って斬鵺は受け取ると、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、綺麗にまとめられた秀才のノートを写真に収めていく。
その実、“ 優は顔に似合わず優しい奴 ”というのが率直な感想だった。
「今日もバイトか?」
「いや、今日は金曜日だからオフ」
「そうか……なら、帰ったら授業中寝ていたところはちゃんと復習しておけよ」
「……お前は俺の家庭教師か何かか?」
依然として優の堅苦しい表情は変わらない。
おそらく半分冗談で、もう半分は本気という顔だ。
そうこうしているうちに斬鵺の作業も終わり、彼にノートを返却する。
「優は今日なんかあるのか?」
「ん? ああ、これから塾が、な」
そう言い退ける優の鞄の中には、幾つもの赤本と参考書が詰まっていた。
その光景に斬鵺は半ば呆れた苦笑をこぼす。
「志望校、受かるといいな……」
「ああ………というか、そもそもお前はどうするんだ? 進路」
「────」
しばらく沈黙の空気が流れる。
斬鵺が桜浜高校に転入してから三カ月ほどの月日が経つ。
今は厳しかった冬の寒さを乗り越え、蕾だった桜も満開に咲く穏やかな春の季節。
先日始業式と入学式を終え、新学期初めのテストラッシュを乗り越えたばかりの新年度序章。
転入した高校にまだ三カ月しか通っていない斬鵺の身からすれば、自分が三年生であることを忘れがちになるのも無理はないが、現実はそう甘いものではなかった。
現に優はこうして塾に通い、進路に向けて動き出している。
「それで、どうなんだ? 天宮城」
「……ホント、どうしようかな……」
優からの詰問に、斬鵺は憂鬱な瞳で教室の天井を見上げて答えた。
……別段、彼も全くもって関心がないわけではなく、それなりの考えを持っていた。
ただ。
それを今ここで口にするのは、あまりにも相手を間違えている、と彼はもう一人の自分に諭された気がした。
三年C組の教室に茜色の夕日が照りつける。
授業も終わり、休み時間を迎えたクラスメイトたちの喧噪も勢いを増す。
そんな生徒たちの喧噪を掻き消すように教室の扉が勢いよく開く。
放課後に移行するその前に、帰りのホームルームを開こうとクラス担任が姿を見せた。
担任の登場に生徒たちは慌ただしく自分の席へ転がり込み、春先の浮ついた空気とは一変して生徒たちは静かに前を向く。
もちろん、それはどんな秀才であろうと例外ではなかった。
蛇の生殺しとも言える状態から斬鵺は解放され、優に聞こえない程度に安堵のため息をこぼす。
そして、担任の話にさして関心のない斬鵺は、机上に突っ伏してその時間を過ごすのだった。
───これが、この世界が呼吸を始め、秒針を刻み始めた最初の合図。
些か浪漫に欠ける幕開けなのはどうか大目に見て欲しい。
生憎と物事の始まりには、“ ごく平凡な日常から ”と相場が決まっている。
そして、見えている世界が色変わりする瞬間はいつも、何気ないやり取りから生まれるものだったりする───
はい! これから第1話の方を書き進めていきたいと思います(*>ω<)b
追記:修正いれました(7/10)
・” ”で囲われている部分を見やすくするために半角スペースをいれてみました。
あとは個人的に読み返して違和感を覚えた部分の文字を差し替えて微調整しました。