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「ピアノ?」
すいっと距離を詰めてきた彼女は下から見上げるようにして聞いてきた。多分身長は同じくらい。
「あなたのうち、ピアノあるの?」
「ああ、うん……あるけど」
弾かせて、と。彼女は震えるような声で言った。
「弾かせて弾かせて弾かせてー!」
握ったこぶしがリズミカルにおれの胸を叩いた。痛くはないけど、結構衝撃がある。
「ごめん。無理。」
「なんで?」
「調音、だっけ?調律だっけ?してないから」
大丈夫、と彼女は自信満々に笑った。薄い胸をポンとたたく。
「私、調律もできるから!」
ああ、一人称は私、なんだ。そんな何でもないことが、いちいち胸を打った。
「こっちだよ」
なぜか道案内を始めたのはヴィーナで。彼女もわーい、と嬉しそうについていってしまう。
「おい」慌ててヴィーナを呼び止める。「何勝手なこと」
「だって、誰も引いてないとピアノって弱っちゃうんだろ。だったらピアニカ調律もできるっていうし、ばっちりじゃん」
なーっ、ねーっ、とすでに共謀している二人が笑顔で顔を見合わせている。
「弾いてもらえなかったら、楽器は死んじゃうんだよ。だから、私に弾かせて」
なぜかそれはもう、決定事項で、前世紀から定まった運命のようだった。
「離れだから、こっちから入る。足元気をつけて。暗いから」
おれの家はまだこの町が雨に閉ざされる前、音楽教師をしていた父さんが建てた家だ。
いつでも音楽仲間と交流できるように、教え子がいつでも遊びに来られるように、とピアノ室は裏庭に作られた。今はもう裏庭も音楽室も使う人がいなくて、母屋だけが細々としている。家族は帰宅していない時間なので、どこもかしこも暗い。
おれ達の通う中学の音楽教師をしていた父さん。休みの日には子供たちにピアノを教えていた父さん。音楽が好きで、いつも仲間と一緒にセッションしていた。
久し振りに空気を入れた音楽室はどこか懐かしく甘いにおいが残っていた。
「いい部屋だね。音楽を好きだった名残があるよ」
この部屋の持ち主はどこへ?と彼女が問う。
「よくある話さ。体調を崩して遠くの施設で療養している。母さんも一緒に」
音楽室は父さんの領域。
けれど、父さんが体を壊して遠くの病院へ入院して、母さんも看護に行ってしまってからは誰も手入れをしていない。
彼女が白い掌で、その漆黒の筐体に触れた。
長く誰も使っていないピアノの上には埃がたまっていて、全体を灰色っぽく見せていた。
彼女はそのまま手で埃を払い落とすと、そのままゆっくりしゃがみ込む。頬を蓋の上に乗せた。
「留守中にごめんなさい。勝手な私を許してください」
それは幾らなんでも言い過ぎだろう、と思った。だけど、何も言えなかった。
その頬を伝う、真珠のような一粒の涙を見たから。
「本当に、ごめんなさい」
鍵盤の蓋を開けた。鍵盤にかかった布を取り除くと、象牙色の鍵盤にそっと触れた。
そして、鍵盤に涙が吸い込まれる。
その瞬間、ピアノの筐体に命が吹き込まれたのをおれは確かに見た。
筐体が黒々と輝き、鍵盤のコントラストは色鮮やかに。
ああそうだピアノブラックっていう色が、確かあった。
アイボリーホワイト、という色も。
「ありがとう」
そして、涙を拭った彼女が笑う。
ふうっと、彼女は一つ息を吐くと鍵盤に両の指を乗せた。全部で十本。微かに指が浮いているのだろうか。鍵盤と指の間に光が見えた。
ぱらぱらぱらーっと指が躍る。
うわ、人間の指ってこんなにばらばらに動くんだ。白鍵と黒鍵の上をジグザグに移動しながらぎゅんぎゅんと十本の指が駆け上がっていく。
ありゃーと、彼女が呟いた。
「結構ずれてるね。長く触ってなかったから仕方ないね」
「ずれてる?」
聞いた限りでは全然わからなかった。
「うん。だって本来の音はね、こうなるはずだもん」
薄紅色の唇がすうっと息を吸い込んだ。
「ドレミファソラシドレミファソラシドレミファソラシドレミファソラシドレミファソラシドレミファソラシ―――♪」
そして、その唇から紡がれたのは、完璧な音だった。
何の意味も持たない音なのだ。何の意味もなく、ただ重ねられるだけの。
それなのに、その一音ずつは圧倒的な意味を持っていた。
一緒に打たれる音の一つ一つが、途中でずれていると否応なく気付かせるほど。
―――絶対音感!
思わず顔を見合わせる俺とヴィーナに、彼女は得意満面の笑みで
「ね、ずれてたでしょ?」
「えっと、よくわからなかった」
ヴィーナが困惑したように言った。
今度は俺と彼女とが顔を見合わせる番だった。
「スゲーなとは思ったけど、どう違うかなんて正直わかんねーよ」
ふむ、と彼女は俺たちの顔を見比べて
「君は分かった。でもこっちの彼は分からなかったと。ふむ」
そしてもう一度ピアノに向かい合う。
今度は両手の指が黒鍵にだけ置かれた。
「この辺の音は大体あってるって思ってね」
たら、たっ、たった
たら、たっ、たった
右手二指を黒鍵、左手一指を黒鍵、右手二指を同時に白鍵
「俺、これなら知ってるぞ」
ヴィーナが得意げに答えた。
そうそう。と彼女は嬉しそうに俺たちを手招きする。隣に並ぶと
「君はここを使って。こっちの彼はここ」
指の置き位置を指定する。
「じゃあ、行くよ。真似してね」
たら、たっ、たった
たら、たっ、たった
さっきよりだいぶゆっくりのテンポで滑らかに弾く彼女の指を、おれ達は大分ぎこちなく追いかけた。
「もう一度、同じように」
たら、たっ、たー、たっ、たー、たっ、たった
なるほど。三つ同時に弾くと同じように移動していない音がある。
「じゃあここのところで君はこっちを弾いてね」
ある一つの音を、黒鍵ではなく隣の白鍵を引くように指示する。ヴィーナにも同様の指示。
「それでは、もう一度ご一緒に」
たら、たっ、たった
たら、たっ、たった
たら、たっ、たー、たっ、たー、たっ、たった
今度は三つの音の高さが綺麗にそろった。
「------♪」
何度か繰り返すうちに、彼女が歌い始めた。
当然のように完璧な音階の唄声だった。
「なんだそれ」
余りにめちゃくちゃな歌詞に、思わずおれは噴き出した。
楽譜を読めなくても弾ける。むしろ、楽譜を見たら弾けないことで有名なその一曲。
おれも幼い頃に父さんの手指を真似して引いたことがあるその曲の中で
猫は踏んづけられたり、爪を切られたり、あまつさえひげをちょん切られたりしていた。
「あら、本当の歌詞なのよ」
「お前知らないのかー、ばっかだなあ」
さっき音を聞き分けられなかった意趣返しのように、ヴィーナも意地悪く付け足した。
「二番はもっとひどい歌詞なのよね」
イシシ、と笑う彼女に、なー、とヴィーナも応じて歌い出す。
ねこねこ、と声を揃えて楽しそうに歌う二人になんだか腹が立っておれは力いっぱい鍵盤を押した。
まだ遊んで帰る、もうちょっと、というヴィーナを無理やり学校まで送り届けて、母屋に戻ると夕飯の支度の最中だった。
「帰ってきたんなら手伝え」
祖父が言った。干物をひっくり返している手は色素が沈着して茶色く節が目立つ。七十歳を超えてまだ現役で働いている手だ。
ラジオからは野球中継が流れている。
ほどなく兄も帰宅して、夕食になった。
今日の夕飯は魚の干物と、葉っぱの炒めたの。妙に小さいから、多分兄がどこかで物々交換してきたのだろう。それからご飯とみそ汁。
このあたりの生活水準としては特に貧しくも豊かでもない食事だった。
野球中継だけが賑やかな声で喋る食卓。
最初に席を立ったのは祖父だった。
食器を流しにおくと、コップと酒を片手に、そしてもう片方の手に野球中継のラジオを持つと隣の部屋に入ってしまう。
そのランニングだけの背中に
明日、仕事なのか?と声をかけた。
コップ二杯の寝酒と野球中継のラジオ。翌日も働くための祖父の儀式だった。こうして強制的に体を休めなくては、レインパウダーの工場で若者に交じての勤務はとてもではないけれど務まらない。
それでもこの半年くらいは例のあれに備えた生産調整もあって、休みも少しずつ増えたのだが
「生産追加になったから、休みなしだ」
そしてピシャン、と障子が締められる。
ひゅうっと口笛を吹くようにして兄が笑った。
「爺さん荒れてんなー」
「しょうがないよ。疲れてるし」
そうだよなー、と兄は呟くと、棚からもう一台ラジオを引っ張り出してきた。
先日やっと貯金がたまって買えた兄専用のラジオだった。ハンドルをぐるぐると一分程も回していると、英語の歌が流れてきた。
「じゃ、後はよろしく」
ハンドル充電のラジオを持って、兄が向かう先をおれはよく知らない。俺たちが寝起きする部屋でうつぶせになって聞いているときもあれば、玄関先にいる時も夜の街へ出てしまっているときもある。
やがてギィ、バタンと音がした。今日は外へ出かけたらしい。
立ち上がって、台所へ向かった。
夕食の後の洗い物と、朝食の準備はおれの役目。
まずコンロに火を入れて兄が工場からもらってきた芋を蒸す。
兄の勤め先はポテト工場で、大きさが小さかったり青く変色したものを格安で譲り受けることが出来るのだ。
蒸している間に水をためて茶碗を洗う。毎日雨が降っているから、水に困ることはない。
蒸しあがった芋をざるに開け、粗熱を取っているとふと今日であったばかりの少女の顔が頭に浮かんだ。
見張り付きのヴィーナは帰したけれど、もう少し、と彼女は粘っていたはずだ。